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宗像三女神と沖ノ島祭祀の始まり(8)~阿田賀田須命はなぜムナカタに来たか② 出雲とのかかわり

前回はムナカタと出雲の深いつながりを、出土物からみてきました。今回は、古墳をみていきましょう。

"出土物などから見て、ムナカタを経由した渡来人の最大の最終入植地が出雲であったことはほぼ間違いないであろう。その出雲開発のリーダーは『出雲国風土記』に「天下所造(あまのしたつくらしし)大穴持命(おおあなもちのみこと)」と書かれたオオアナムチであった。強力なリーダーを持つ出雲族は、渡来人材のリクルートや、半島との交易のために出先機関をムナカタに置いていたと思われる。そこにかなりの実力者を置いていたことは、武器形青銅器15本を出した弥生時代前半の田熊石畑遺跡から分かる。このような遺物は、ムナカタのような狭い後背地しか持たない地域首長の持てるものではなく、交易拠点とその背景となる大勢力の存在を想定して始めて理解できる。田熊石畑遺跡出土の玉類は、東日本を含むかなり広い範囲の石材で作られており、広域流通システムの存在が推定されるという(研究報告中の大賀克彦の論文)”

【解説】
ムナカタには、出雲族が渡来人材の確保や半島交易のための出先機関を置いていた、と推測してます。ここで注目すべき観点があります。矢田氏は、あくまで出雲が「主」でムナカタは「従」だった、とみていることです。

”このような山陰地方との繋がりは、古墳時代に入っても続いていた。図3に示すように、古墳時代前期に釣川に沿い下流に向かって前方後円墳が次々に築かれる(この図で集成期とは、古墳の年代を大まかに示した数で、3世紀後葉から4世紀の前期古墳が1-4期、5世紀の中期古墳が5-8期に当たる)。 4世紀半ばの田久瓜ヶ坂1号墳(全長31m)の壺棺に用いられた二重口縁壺が山陰系で、その他前出の 東郷高塚古墳出土の破片も含め宗像出土の二重口縁壺はすべて山陰系の特徴を有するという。

<図3>
ムナカタ前期古墳
”東郷高塚からさらに釣川を下った宗像大社背後の通称宗像山山頂に上高宮古墳(4世紀後葉、円墳23m)が築かれるが、これは現在の辺津宮祭祀との繋がりが推測される。前述の氏八幡神社はこの山の 東麓にあり、この古墳の主を祭る神社であったと思われる。ここから「名児山越え」古道を抜けたところに、津屋崎古墳群の先駆けとなる奴山正園古墳(5世紀初頭、円墳28m)が築かれる。この2古墳に共通するのは、いずれの主体も大ムナカタに多い石棺墓であり、鏡や鉄製の武器・農耕具など、古墳の規模に似合わぬ大量の豪華な副葬品を伴っていることである。両古墳から多量の玉類が出土したが、なかでも勾玉が前者で20個、後者で15個も出ている。詳しく調査されている後者では、瑪瑙製4個、翡翠製・硬玉製 2箇など多様な石材を用い精巧に作られているものが多く、当時の産地として出雲以外は 考えられない。
この頃から新羅の古墳で大量の日本製の玉類が出土するが、一方上記2古墳ばかりではなく畿内などの古墳で大量の鉄製品が出土するようになる。宗像大社周辺が沖ノ島祭祀で開かれた交易ルートの中継地として機能していたことを示すと思われる。それを司っていたのが出雲系の人々であり、宗像ではオオアナムチと共にタゴリを祭っていたらしい。”


<勾玉(奴山正園古墳)>
勾玉(奴山古墳)

(九州国立博物館、特別展「宗像沖ノ島と大和朝廷」H29年パンフレットより)

【解説】
田久瓜ヶ坂1号墳、東郷高塚古墳が山陰系です。上高宮古墳、奴山正園古墳も、出雲系と推測してますが、勾玉の産地を出雲以外考えられない、というのが根拠です。しかしながら、
"碧玉 へきぎょく ・水晶 すいしょう ・瑪瑙 めのう ・翡翠 ひすい・ガラス ・滑石 かっせき を素材とした勾玉。国際色豊かな宗像君に相応しく、アジア各地の多様な素材が用いられています。"(九州国立博物館、特別展「宗像沖ノ島と大和朝廷」H29年パンフレットより)
とあるとおり、出雲産というよりはアジア各地産です。
それにしても、美しい見事な勾玉です。古代の人たちが、霊力を感じたのもうなずけますね。

また鉄器についてですが、確かに同時期に畿内にも鉄製品が出土するようになります。その中継拠点が宗像大社周辺であり、それを司っていたのが出雲系の人々だった、というわけです。

以上前回から長々と解説してきましたが、矢田氏がいいたいことは、阿田賀田須命が畿内を追われたのは、畿内における出雲勢力の力を削ぐためであり、ムナカタに来た理由は、ムナカタが出雲と深いつながりがあり、かつ朝鮮半島との交易において重要な中継拠点だったから”、ということです。

これと沖ノ島祭祀が深く関係している、ということでしょう。

いちおうもっともらしい推測です。ただし阿田賀田須命は崇神天皇の時代の人です。崇神天皇は3世紀ころの人と推定されます。一方、畿内に鉄器など朝鮮半島の製品が入るようになるのは、4世紀以降です。また沖ノ島祭祀が始まったのは4世紀後半からです。

このあたり時代に大きなずれがあるところであり、慎重な論証が必要だと考えます。

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青松光晴

Author:青松光晴
古代史研究家。理工系出身のビジネスマンとして一般企業に勤務する傍ら、古代史に関する情報を多方面から収集、独自の科学的アプローチにて、古代史の謎を解明中。特技は中国拳法。その他、現在はまっている趣味は、ハーブを栽培して料理をつくることです。
著書です。



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