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    親子チョコ💗(500冊以上の良質な書籍のご紹介)

    子どもたちの教育のため、また、その親である私たち自身が学ぶための、読まれるべき良質な書籍のみをご紹介させていただきます。

     >  国際 >  選挙不正があったとしても、その選挙結果を認めよ、という思考をしてしまうのが「権威主義者」

    選挙不正があったとしても、その選挙結果を認めよ、という思考をしてしまうのが「権威主義者」

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    本日のキーワード : 権威主義、独裁主義、全体主義、非民主主義



    権威主義(けんいしゅぎ、独裁主義・独裁政治・独裁体制 / Authoritarianism )とは、政治的多元性の拒否政治的現状維持(=既得権益維持)のための強力な中央権力の使用法の支配・三権分立・民主的投票の削減によって特徴づけられる政府の形態である。

    政治学では非民主主義の思想や運動や体制の総称でもあり各種の独裁主義や専制主義や全体主義などが含まれる権威主義的な政府や統治では政治権力が1人または複数の指導者に集中しておりその指導者は典型的には選挙されず(例:ドミニオン等の不正使用による選挙結果の改竄)排他的で責任を負わない恣意的な権力を持つ

    本日の書物 : 『米中ソに翻弄されたアジア史 カンボジアで考えた日本の対アジア戦略』 江崎 道朗、福島 香織、宮脇 淳子 扶桑社



    戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。

    そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。

    私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、

    客観的に情勢を判断する必要があります。

    それでは、この書物を見ていきましょう!




    『 さて話を1885年に戻すと、【フランス】圧倒的な軍事力で阮朝(グェンちょう)を屈服させ【ベトナムを植民地にした次の瞬間から、絶え間なく続くベトナム人の抵抗に悩まされる】ことになった

     もともと阮朝国家の底辺には、閉鎖的で自立性の高い農村があり、農村は【儒教的知識人】である【「文紳(ぶんしん)」】(フランス語で「マンダラン・ノタブル」)によって統治されていた。【シナの農村とよく似ている】全国の文紳たちは初め、フエを脱出した第8代咸宜帝(ハムギてい)の檄(げき)に応じて各地で壮烈な戦いを展開したが、やがてフランスが村落レベルの「トンキン人評議会」を設置するなどの融和策を打ち出すと抵抗を止めて降伏し、1888年頃までにはほとんど平静化してしまう。

    咸宜帝
    咸宜(ハムギ)帝

     ベトナム最初の独立運動家として知られる【ファン・ボイ・チャウ(潘佩珠)】は、19歳でこの文紳の蜂起に参加して失敗1900年【科挙】の郷試に合格して文名を知られ、1905年【日本に武器援助を仰ごうと来日】した。しかし、ファンから日本政府との仲介を依頼された、【清から亡命中の梁啓超(りょうけいちょう)】は、代わりに在野の【大隈重信、犬養毅、福島安正、根津一、柏原文太郎】らに引き合わせ、みなで【武装蜂起計画の無謀さをいさめた】。武器援助よりも【人材の養成が急務】だという忠言を受け入れたファン・ボイ・チャウは、故国の青年たちに【日本への留学を呼びかけ】、これに応じて【日本に留学したベトナム青年は200人を超えた】。これを【「東遊運動(ドンズーうんどう)」】と呼ぶ。ファンが日本にいる間に漢語で書いた『ベトナム亡国史』は梁が刊行した。

    ファン・ボイ・チャウ(潘佩珠)
    ファン・ボイ・チャウ(潘佩珠)

    梁啓超
    梁啓超

     しかし日本留学生たちが「新越南公憲会(しんえつなんこうけんかい)」という反仏独立結社を組織して活動すると【フランス】【本国にいる留学生の父兄を投獄したり、送金を妨害】し、【日本政府には】1907年に締結した【日仏協約により、「公憲会」の解散と反仏留学生の国外追放を暗に要求】し、【東遊運動は挫折】する。

     【フランス植民地政府】は、ベトナム国内では、【福沢諭吉の慶應義塾にならった「東京(ドンキン)義塾」】を、穏健な啓蒙主義的近代化運動だったにもかかわらず1908年に【閉鎖】し、同年の【陳情デモや平和的な集会に対しても、容赦なく銃弾を打ち込み、残虐な斬首行為を行った】このような弾圧に対し今度はテロリズムなどの過激行動が起こる。1912年には「越南光復会」による要人殺害、1913年の秘密結社「天地会」の武装蜂起、1915年の「光復軍」のゲリラ活動と「ベトナム国民党」による要人テロなどが続いたが、【いずれもフランス植民地政府の弾圧を受けて壊滅した】。』

    日の丸

    エリートの指令に服従する権威主義的な国家


    いかがでしょうか?

    今回ご紹介させていただく書物は、いわゆる東南アジアの大陸側の近現代史に焦点をあてた書物で、特にカンボジアを中心に、その周辺地域を含めた「インドシナ」における歴史の大まかな流れを理解することができ、また、今回のアメリカ大統領選挙の混乱からも分かるようにソ連・コミンテルンとその下部組織である中国共産党(CCP)がこの地域において如何に水面下で暗躍していたのか理解できるお勧めの良書となります。

    読書 4-71

    それでは本日も、いつものように、直近の「致死率」を確認しておきましょう。

    (死亡症例数)÷(感染症例数)=(致死率)

    ※(  )内は前回の数値

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    Coronavirus COVID-19 Global Cases by Johns Hopkins CSSE

    アメリカ : 258,827(257,072)÷12,501,643(12,305,621)=0.0207・・・(0.0208) 「2.07%(2.08%)」
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    イタリア : 51,306(50,453)÷1,455,022(1,431,795)=0.0352・・・(0.0352) 「3.52%(3.52%)」
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    日本 : 1,963(1,949)÷135,776(134,554)=0.0144・・・(0.0144) 「1.44%(1.44%)」
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    目に見えぬ侵略 中国のオーストラリア支配計画 

    さて、ここからは昨日の続きになりますが、カール・マルクスユダヤ人に対する偏見・ヘイトから生じたイデオロギーである「マルクス主義」は、その後も表向きの形を変ながら現代においても“辛うじて”生き残っていますが、


    デヴィッド・ハーヴェイ
    デヴィッド・ハーヴェイ

    新自由主義―その歴史的展開と現在 

    例えば、デヴィッド・ハーヴェイマルクス主義の地理学者で、いわゆる「新自由主義」を誤った解釈に基づいて批判した人物で、

    官僚たちが、民間企業の活動をあれこれと指図する「規制」は、本当に必要ですか?



    以前にも書かせて頂きましたが(→「新自由主義」の本質が理解できない人々の主張 → 「弱肉強食」「大きな政府から小さな政府への展開」「ハイエクガー」)、「全体主義の脅威」を目前にした自由主義体制側の“自由主義再生の潮流”こそが「新自由主義」と呼ばれるもので、それは「国家の法的介入」に関心を寄せた自由主義体制側の変革になります。このデヴィッド・ハーヴェイ定義するところの「デヴィッド・ハーヴェイの新自由主義」「マルクス主義」から生じているものであり(→日本の官僚たちの理想は、「行政国家」です! ~ 「官僚の、官僚による、官僚のための政治の実現」)、より正確に言うとレフ・トロツキーが批判していたものと同じであり(→“自由全体主義” ~ 新自由主義(ネオリベラリズム)のはじまり )、トロツキー以後の西欧の「トロツキー主義左翼(反スターリン主義的マルクス主義者)」がほぼ共有する考え方になります(→現代の“ハルマゲドン” ~ 「おパヨク」 V.S. 「自由」)。

    女性 ポイント ひとつ

    で、「デヴィッド・ハーヴェイの新自由主義」ではない本来の「新自由主義」について、次の論文を読み進めることで確認して参りたいと思います。

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    『マネタリズムと新自由主義』山田久

    それでは早速、昨日の続きを見て参りましょう。

    『 「マネタリズム」と「新自由主義」との出会い

     ・・・フリードマン先生が来日される際には、貨幣委員会という名の作業報告会がありました。まるでフリードマン先生のゼミを受講しているかのようでした。作業の進捗状況を報告するのが主たる目的ですが、作業の意義と目的なども詳しく説明していただきました。貨幣委員会の当面の目標はフリードマン流のマネーサプライの作成でした。まず日本銀行の管理下にある、すべての金融機関の預金勘定を流動性の高い要求払い預金と流動性の低い定期性預金とに仕訳けをします。次に現金通貨と要求払い預金を合計して M1 としM1 と定期性預金を合計して M2 とするというものです。今では M1、M2 は常識ですが当時は革新的でした。フリードマン先生が M1、M2 というマネーサプライの新しい概念を示したことで、米国の連邦準備制度も日本銀行も時間はかかりましたが、それらを採用するに至りました。このマネーサプライの概念を世間に浸透させたことこそがマネタリズムの功績の一つです。

     筆者は日本のマネーサプライの作成過程で、1971 年 8 月にフリードマン流の日本の暫定マネーサプライ、M1 と M2 を実験的に算出し、戦後は GNP、戦前は篠原三代平先生の鉱工業生産推計値を使って、両者を図表にしてみました。A3 サイズの方眼紙を使って約 100 年間の統計数字を手書きでプロットし、片対数表の折れ線グラフを作りました。まだパソコンなどが存在しない時代で
    したから、手書きでグラフを作成するのは大変な作業でした。苦労の末、出来上がったのはまさにフリードマン先生が推計した米国のものとそっくりでした。西山先生にお見せして大いに喜んでいただきました。本邦初の手作りの長期貨幣統計の趨勢グラフでした。筆者は西山先生に命じられて、篠原先生をお訪ねし、この図表をお見せしました。

     図表が出来上がったときに、西山先生から、この図を見て何がわかるか説明せよといわれました。まだ勉強の足りない筆者はなにも答えられませんでした。再度質問される先生に対して苦し紛れに次のようにお答えしました。マネーサプライの量は日本の経済活動の大きさを表している。それゆえ日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦など戦争を契機に大きく飛躍したと考えられると。先生は、明治初年からの大きな趨勢、つまりトレンドに注目するように言われました。筆者の作成した図は、フリードマン先生の図と同様に片対数表ですから、図の傾きは変化率を現します。図にみられるトレンドはまるで 1 本の線のようでし
    た。しかし注意深く観察すれば、第二次世界大戦後を境にして戦前のトレンドと、戦後のトレンドは少し違います。戦後のトレンドのほうが明らかに大きいものでした。日本の経済成長のトレンドは戦後のほうが高いということです。また大恐慌時代の経済活動と貨幣量の停滞というエピソードも米国と日本も同様だといえました。

     貨幣委員会の作業は、筆者がシカゴ大学に留学した 1973 年ののちに完成し、西山先生とゼミの後輩たちが分析をして、朝倉孝吉・西山千明共編『日本経済の貨幣的分析 1868-1970』として発表されました。この分析作業に加われなかったのは残念でしたが、シカゴ大学での勉強に専念することにしました。』


    資本主義・社会主義11

    それでは本日の最後になりますが、昨日に続きまして、アイザイア・バーリンが提唱した「消極的自由」(~からの自由)「積極的自由」(~への自由)について語った、1958年10月31日にオックスフォード大学での就任講演の内容を御紹介させて頂きたいと思います。

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    アイザイア・バーリン
    アイザイア・バーリン

    自由論【新装版】 

    これ 女性

    『 二つの自由概念

    サラストロの神殿

     ・・・まったく、われわれははじめの自由主義的な出立点からずいぶん遠いところにまでさまよい出てしまったこのような議論 ―― 後期のフィヒテまたヘーゲルそのあとではマルクスや実証主義者から最近のナショナリストあるいは共産主義者に至る他の権威擁護者たちによって用いられたこうした議論 ―― まさしくストア派やカントの道徳が自己の内なる光に従う自由な個人の理性の名においていちばんはげしく抗議したところの当のものなのだ。真の解決はただ一つという想定によって合理主義のこの議論はこのように個人の責任と個人の自己完成という倫理学説からプラトン的保護者たるエリートの指令に服従する権威主義的な国家 〔 学説 〕 にまで到達してしまったわけである。』


    ということで、本日はここまでとさせて頂きます。















    続きは次回に♥




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