2018-09-17 (Mon)
デルベントのシタデル
デルベント(Derbent)は、ロシア・ダゲスタン共和国にある都市である。ロシア最南端の都市であり、ダゲスタン共和国第2の都市でもある。人口は101,031人(2002年国勢調査)である。
アレクサンドロスの門の伝説が残る都市であり、デルベントはロシア最古の都市と言われる。2003年にUNESCOの世界遺産に「デルベントのシタデル、古代城壁、要塞建築物群」の名前で登録された。
デルベントの経済の中心は、食品、織物、漁業、木工品などが挙げられる。また、ロシアにおけるブランデー生産の中心でもある。
アルメニア教会の建物
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 ルバショフはこう述懐している。
「 運動は平然と、ひたすらゴールを目指して流れていき、曲がり角にさしかかるたびに、【溺れた者の死体を投げ捨てていく】…(略)…この曲がりくねった【流れに耐え得ぬ者は、誰であろうと岸辺に打ち捨てられた】。それが法則だったからだ。個人の動機など何の意味も持たなかった。個人の良心も意味がなかった。個人の頭や心の中に何があろうと、運動はそんなことは問題にしない。【党へ唯一の罪を知るのみ】だった--それは【決められた道を踏み外すこと】。そして、【唯一の罪】としては--【死あるのみ】」(『真昼の暗黒』岩波文庫、116~117頁)
【全ての犯罪、悪行が未来の理想のために正当化される】。未来に実現される理想のためであれば、【人間の命、良心が踏みにじられようとも構わない】。否、【輝かしい未来の実現を妨げるような人間など生かしておいてはならぬ】。
皮肉なことにこのときの【ルバショフの論理】こそが【ルバショフを窮地に追いやる】。ルバショフを尋問したイワノフは語っている。
「 彼(引用者注・党の指導者)はある種の唯我的慈悲深さに基づいて動くので、結局、人類は冷淡で無慈悲である。…(略)…。【殺戮を終わりにすべく殺戮する】。【子羊が犠牲にならないように、子羊を犠牲にする】。【人々が鞭打たれなくなるように、人々を鞭打つ】。【徹頭徹尾良心的であろうとして、あらゆる良心の咎めを捨ててしまう】」(前掲書、228~229頁)
未来の輝かしい理想のためには、現在生きる人々は耐えねばならない。理想の実現が達成されざる現在、党の指令によって、民衆には耐えきれぬ程の苦痛が与えられるだろう。そして夥(おびただ)しい人々に死がもたらされるだろう。だが、そうした犠牲者は未来に生きる幸福な人々の数に比して、極少数に過ぎない。生体実験に共せられる子犬が哀れなのは間違いない。だが、それらの犠牲の上に科学は進歩する。それらの犠牲なしにコレラ、チフス、ジフテリアの血清は手に入らない。人類の歴史を【進歩史観によって説明する彼ら】にとって、【一人の人間の生など論ずるに値しないというわけ】だ。
また、【革命国家に対する彼らの認識】も興味深い。理想を実現するはずの革命国家が何故理想とは最も懸け離れた謀略、暴力に手を染めるのか。革命国家それ自身を守るために冷徹なあらゆる手段が採られるのは何故なのか。
こうした疑問にこたえるかのようにもう一人の尋問官グレトキンは冷たく語る。
「 党という堡塁(ほうるい)を守るためなら、われわれは外国にあるわが組織を解体することも吝(やぶさ)かではなかった。また、間違ったタイミングで現れた革命運動を潰すためなら、反動国家の警察と手を組むことも吝かではなかった。堡塁を守るためなら、友人を裏切り、敵と妥協することも吝かではなかった。これが、最初に成功した革命の代表者であるわれわれに、歴史が課した使命なのである」(前掲書、356頁)
ここで再び持ち出されるのは「歴史」である。如何なる悪行に手を染めようとも生き残ること。それこそ歴史が革命国家に課した使命なのだという。
一つの理論を狂信する余り、歴史の名の下に数多の人々を殺戮し、あらゆる犯罪を行うこと自体が正義だと居直る。【それが共産主義者の正体に他ならない】。彼らは純粋であり、正義を追求しようとしているのだろう。だが、【彼らが現実世界で行っているのは、殺戮であり、詐欺であり、背信なのである】。
【共産主義者の実態を知らしめた】という一点において、
アーサー・ケストラー
【ケストラーは不朽の名声を手にした】のである。』
いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、現代の日本において「リベラル」を自称する“奇妙な人々”の「奇怪な言説」を取り上げ、それらを徹底的に批判するところから始まる書物で、「東京新聞」や「朝日新聞」はもちろんのこと、「池上彰」、
池上彰
「加藤典洋」、
加藤典洋
「内田樹」、
内田樹
「白井聡」といった面々が、
白井聡
そのやり玉にあがっていて、非常に楽しく拝見できる良書になります。そして、後半3分の1にあたる部分から、今回ご紹介させて頂く本文となるのですが、非常に中身が濃く読みごたえがあってお勧めです。
さて、昨日の続きになりますが、「イスラム教」の開祖・ムハンマドが亡くなった(632年)あとも急速に拡大する「イスラム教」の勢力が、651年、「サーサーン朝ペルシア」(226年~651年)を滅亡させます。「東ローマ帝国」も、エルサレム(638年)、シリア(640年)、エジプト(642年)を奪われ、バルカン半島とトルコだけという有様でした。
651年頃の世界地図
一方、聖徳太子が亡くなる(622年)と、蘇我氏を抑える者がいなくなったことで、その専横が甚だしいものとなり、やがて蘇我入鹿(そがのいるか)によって、聖徳太子の血をひく、山背大兄王(やましろのおおえのおう)の一族が、一族もろとも「自殺」(643年)にまで追い込まれてしまいます。それに対する蘇我氏への反撃が、645年の、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、中臣鎌足(なかとみ の かまたり)らによる、いわゆる乙巳の変(いっしのへん)です。日本最初の元号である「大化(たいか)」(645年~650年)が定められ、蘇我氏がもたらした分裂・混乱から、聖徳太子が目指した「天皇を中心とする国家体制」を推し進めていくことになります。それが「大化の改新」です。
詳しくはこちらをご参照💛
↓
☆日本で最初の「元号」って何?
で、その頃、「ハザール(ハザール・カガン国)」という国が登場します。
651年頃の世界地図
現在の学校の授業では、キチンと教えられてはいないのですが、ユーラシア大陸の東西を繋ぐ、最も重要な役割を果たしてきたのが、「ユーラシア・ステップ帯」と呼ばれる草原地帯で、「本来のシルクロード」である「草原の道」があった、支那の外側の地域、モンゴルやカザフスタンやウクライナなどに存在する地域です。
ユーラシアステップ帯
この「ユーラシア・ステップ帯」は、古代より遊牧騎馬民族が多数勃興した地域で、匈奴(きょうど)、スキタイ、フン、鮮卑(せんぴ)、突厥(とっけつ)、モンゴル帝国など世界史を学ぶ上で欠かせないものが非常に多く存在します。
詳しくはこちらをご参照💛
↓
☆遊牧民の歴史を教えない「社会科」や「世界史」
☆昔から「遊牧民」に支配されていたのが「中国」です
その「ユーラシア・ステップ帯」を構成する一部で、西の端に位置しているのが「ポントス・カスピ海草原」で、現在、世界有数の穀倉地帯となっています。
「馬の家畜化」が始まったと考えられているのは、この地域です。
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 馬の家畜化は紀元前4000年頃に現在のウクライナで始まったと考えられている。食肉を得る目的で家畜化され、馬の背に跨る騎乗の技術が編み出されたのはモンゴルに於いてである。内燃機関登場以前の世界では最速の陸上移動手段として発展を遂げた。
馬が家畜化されたと考えられる紀元前4000年という時期は、ヤギ・ブタ・ヒツジ(紀元前8000年頃に家畜化)や、ウシ(紀元前6000年頃に家畜化)に比べると遅い。これは、馬は主にステップ気候の寒冷な降雪地帯の草原に棲息しており、また、ウシ等の反芻動物に比べて消化能力や食性が低く太り難いため、食肉用の家畜としては不適格だったためである。ウクライナの草原地帯に進出した人類は紀元前5000年頃のドニエプル・ドネツ文化期には既に他の地域から連れてきたウシやヒツジを家畜として飼育していたが、この地域は降雪地帯であり、降雪時に雪の下にある草を食べる習性のないこれらの動物は人の助けがなければ飢死してしまうため、家畜として飼養するのは難しかった。ところが、この地域に棲息している馬を見れば、蹄で雪をかきわけて草を食べている。そこで、人類は馬を家畜化する事を思いついたのである。
ウクライナにおける紀元前5000年~紀元前3500年頃の遺跡では、貝塚から食事のゴミと一緒に馬骨が出土する。この事は馬が食用であった事を示している。紀元前5000年~紀元前4700年頃のドニエプル・ドネツ文化期の遺跡では出土した馬骨の量とウシ・ヒツジ等の骨の量から推定すると、馬肉の消費量は全体の肉の約20%に過ぎない。ところが、紀元前4200年~3700年頃に人が居住していたと考えられる、スレドニ・ストグ文化期のデレイフカ遺跡では、馬の肉の消費量は全体の肉の約60%にまで達する。この馬肉の消費量比率の飛躍的な増大は、馬を家畜化し馬肉を大量に供給出来るようになった結果であると考えられ、したがって馬が家畜化された時期は紀元前4000年頃と推測されるのである。」
で、その「ポントス・カスピ海草原」に登場したのが「ハザール(ハザール・カガン国)」という国で、東隣に「西突厥(にしとっけつ)」、南には破竹の勢いの「イスラム帝国」、という立ち位置にあった国でした。
ポントス・カスピ海草原周辺(650年頃)
この辺りは、交易・交通・軍事上の重要な地点、いわゆる「要衝」でありで、カスピ海の東側、カスピ海と黒海の間は、古くから異民族の侵入ルートになっていました。
その証拠に、イラン北部の町・ゴルガーンには、「サーサーン朝ペルシア」が使用していた全長195キロメートルに及び、その間に30の要塞が存在したとされる「ゴルガーンの万里の長城」というものがあります。
ゴルガーンの万里の長城
Source: Great Wall of Gorgan by MyChannel2016
また、ロシア最南端にある都市・デルベント(ペルシア語で「関門」の意)にある、世界遺産にも登録されている「デルベントのシタデル(砦)、古代城壁、要塞建築物群」がありますが、ここも「サーサーン朝ペルシア」の北部防衛線の一部でもありました。
さて、ここまでを押さえて頂いた上で、もう一度、急速に拡大する「イスラム教」の勢力について考えてみましょう。
ポントス・カスピ海草原周辺(650年頃)
「イスラム教」の勢力は、651年には東側にある「サーサーン朝ペルシア」を滅亡させます。その結果、対峙するのは「西突厥(にしとっけつ)」になります。西側には「東ローマ帝国」が残っています。
ですので、狙うとすれば、カスピ海と黒海の間の弱小な国々となるわけで、しかも、そこは「要衝」になります。当然、「イスラム教」の勢力は北上を開始します。こうして、第一次アラブ・ハザール戦争(642年~652年)が勃発し、なんと、「ハザール(ハザール・カガン国)」が勝利を収めます。
ところで、何故、こんなお話を書かせて頂いているのかと申しますと、「ハザール(ハザール・カガン国)」が、後の時代に、「ユダヤ教」に改宗することになったからです。
つまり、人種的に「ユダヤ人」ではない異民族が、「ユダヤ教徒」になったわけです。
これが、本来の人種的な「ユダヤ人」である「スファラディ(セファルディム)」とはまったく別の、異民族に過ぎない「アシュケナージ(アシュケナジム)」を、この世に生み出してしまった元凶になります。
詳しくはこちらをご参照💛
↓
☆ふたつのユダヤ人
ちなみに、本文中にありました『真昼の暗黒』の著者である「アシュケナージ(アシュケナジム)」のアーサー・ケストラーの書き残した良書の一つが、 こちら(↓)になります。
ということで、本日はここまでとさせて頂きます。
続きは次回に♥
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