「寄席とポスターと昔」その34 1962年の道頓堀角座 | 福盛貴弘の脳炎日記

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日常生活で起きたことを素朴に書き記しています。
まずは、予告編2編をご覧ください。

1962年。大阪万博まであと8年。

私が生まれる8年前の話である。

 

 

 

 

砂川捨丸・中村春代は、名前は知っている。

近年、昔の漫才を聞き直して聞いたことがあるぐらい。

 

私が生まれてすぐ引退しているので、テレビで見たとしても懐かし番組でしか見ていないはず。それでも、このあたりは名前ぐらいは。

 

 

 

 

 

 

なんだかんだ年配の人の話を聞いて、なんとなく覚えているという程度。

千歳家今次・今若になると、記憶があやふや。

 

名前だけ見ると知ってるような気があるが、それ以上何も思い出せないので、誰かと勘違いしているんだろう。誰と勘違いしてるか思い出せないんだが。

 

流行亭歌麿・八千代は、全く。ここから先はひたすらそんなのばかり。

検索してヒットするかどうかを確認するだけの作業になってしまう。

 

ちなみに、八千代はのちに「やちよ」に変わるとのこと。

この時点では、まだ漢字表記だったということの事実確認ができた。

 

音曲漫才は一時期調べたのだが、やはり自身が見たことがあるところから始めたので、それ以前までは手が及んでいない。

 

主にオープニングを調べて、「上方芸能における都都逸」にまとめた。

「続と都都逸と残り」その1の頃は、まだネットで見れなかったが、今は見れる。

 

かしまし娘やら、フラワーショウやら、ちゃっきり娘やら。

音曲漫才は、圧倒的に松竹だったので。

 

こんな感じでなんやかんや書いていたら、リアルタイムで知ってる方の記憶を喚起するかもしれない。そう思って、知らないくせに書いていくことにする。

 

 

 

 

その35につづく。