「あぶと100万と昭和」その4 | 福盛貴弘の脳炎日記

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日常生活で起きたことを素朴に書き記しています。
まずは、予告編2編をご覧ください。

あぶさんこと景浦安武が南海ホークスに入団したころの話。

1973年、昭和48年のあぶさんを考察する。

 

 

 

 

「1打席3ホーマー」 カコこと山田和子。あぶさんの近所に住む、母子家庭の女の子。この当時は7歳。私より4つ年上である。

 

母親が百貨店勤務なので、定時であっても普通のサラリーマンよりは帰りが遅い。だから、あぶさんが常連である飲み屋の大虎によく来る。

 

看板娘のサチ子(後にあぶさんと結婚する)とは常に口喧嘩。

ヤスタケの婚約者は自分だと、カコは主張し続ける。

 

だから、あぶさんにかまってほしいカコは、飲むのを切り上げて帰ってもらいたいのだが、大虎に来る目的は他にあった。

 

それはテレビであった。中3トリオや新御三家を見たかったのではなかろうか。常連客が野球を見ようとするのをさえぎってまで。

 

そうなってくると、あぶさんにしばらく飲んでいていいよということになる。

そのまま寝てしまうまで大虎に居つく。昭和の牧歌的な光景。

 

テレビ放送は、NHKで1953年から。日テレはその年の8月から。

力道山で街頭テレビに集まる。

 

美智子様のパレードは1959年、東京オリンピックは1964年。

とはいえ、1966年のテレビ普及率は0.3%。

 

1971年に42.3%、1972年に61.1%と加速的な伸び。そして、1975年には90.3%。この時期にテレビが普及し始めたのである。

 

ただし、カラーテレビの価格は1台18万円程度。当時のサラリーマンの月収は3~7万円。あぶさんの年棒は100万円。決して安いものではなかった。

 

そこで、あぶさんは野村監督と賭けをする。

カコにテレビを買ってやろうと思ったのである。

 

 

 

その5につづく。

 

 

 

 

<参考資料>

テレビやパソコンなどの普及率をグラフ化してみる(上)

テレビの小売価格の推移

 

 

 

→ 「あぶと100万と昭和」その1

 

→ 「あぶと100万と昭和」その2

 

→ 「あぶと100万と昭和」その3