• 世の中には毒親との関係で、親に自分の気持ちを伝えられなくて苦しんでおられる方が多いのです。そんな方へ、プロの手を借りて毒親に手紙を書いてみませんか?
  • 毒親に手紙を出すためには色々な聞き取りをしなければまとまりません
  • 第三者に聞き取りをしてもらうことで色々な記憶が蘇ります
  • 悲しみや嘆きを手紙にするのですから寄り添ってくれる人がいなければ書けません
  • 話しながらポイントをまとめてくれる人がいることで脳内や感情が整理されます
  • 長年溜め込んだ思いを感情をコントロールしながら出す事ができます
  • 書いた手紙をAI音声で聴くことにより心の整理がついていきます
  • どのタイミングであろうとLINEなどで送る事ができます
  • 支払いはPayPayで出来ます



先日、実家の片付けと、


片付け業者さんの見積もりをお願いしたので


2時間かけて🚗³₃帰省しました。


あれこれ片付けしていたら


1番悩ましい、家族のアルバムを


どうしようかと、最後まで悩み


極少しを残して捨てることにしました。


引き出しには、細々と残っていまして


個人情報とか、家の登記簿とか


そういう書類を引き上げてきました。


なかに10万円の金貨を見つけまして


これは後に売ったら値がつくのではないかと


私が預かっておくことにしました。


あとは、残すところ仏壇じまいだけ。


お寺さんに連絡して、手順を教えてもらい


これも、落着。まだ片付けの途中ですが。


あとは、業者さんの引き取りをやってもらうだけになりました。


予算としては、20万ほどで


やってもらうことになりました。


思ったより安かった〜


実家が無くなるのは、寂しい気もしますが


売れる時に売っておいたほうが良いと


行政書士さんのアドバイスで


話が進んでいます。


私は実家を離れて


一緒に地元で生活してないので


行政書士さんの存在はとてもありがたかった。


実家をたたむ、妹と相談しながら


ぼちぼちやっているところです。


親がホームに入ったり、


親が亡くなったり、


そういうお年頃になると、


実家をどうするか、という問題に必ずぶち当たりますね


心情的には、あまりいい思い出のない実家ですが


いざ無くなると思えば、ぽっかりとします。




なんでもない記事です笑


さて、空っぽになった実家の家


先日帰ってみたら、草ボウボウ


家の中は湿っぽい匂いで満たされ


家が痛む前に、売った方がいいかと


そんな訳で、売ることになりました。


幸い、買いたいと言う人がいて


話が進んでいきます。


知り合いの行政書士さんに


手配して頂き、


まずは、家の片付けからということで


片付けの見積もりを取ろうと


業者さんに、家をみて頂く事となりました。


業者さんと連絡をとり予定を組んで


来週末、また実家へ行きます。


ついでに、買いたいという方にも


家を見て貰うことになりました。


これは、偶然にも、あちら様から


連絡が入り、有り難かったです。


父親が介在すると、めんどくさいことになるので


書士さんと私で、打ち合わせをやる事になって、


話がサクサク進みそうです。


さて、どんな風に話が進むのか


皆目見当もつかない世界ですが


家を売るまで、がんばろう

今から30年ほど前に

アダルトチルドレンという言葉に出会った


当時出ていた本を読み講演会などに足を運んだ


当時、アダルトチルドレンという言葉が

日本に入ってきたばかりのことだった。


まだ解明されていないことも多かった。


わずかな情報を頼りに


自分とすり合わせ


心の空虚さを埋めようとした。


確かなことは、アダルトチルドレンは


生育歴による家庭環境、親との関係が


後の生きづらさに大いに関係することだけはわかった。


当時の私は生活に困ることはなく


お金に困っている訳でも無かった。


が、何がこんなに空虚さを産むのか


分からなかった。


空虚を埋めるために


宗教やスピリチュアルもやってみた。


その中で、共依存、嗜癖という言葉を知った。


が、なにもかも漠然として捉えられなかった。


ある日、1つのホームページにたどり着いた。


誰が書いた文章だろう?


共依存や嗜癖、アダルトチルドレンのことを


生活に密着した事例で書いてあった。


どんな偉い先生が書いた本より、心に染みてきた。


その文章から目が離せなくなり、


気になって気になってしょうがなくなった。


数年単位で、その文章を追い続けた。


どれも私には新鮮であった。


ハンドルネームしか知らない人が書く


アダルトチルドレンの解明。


数年すぎ、ハンドルネーム、きんたろう氏と

メールでやり取りをするようになった。


そして、通話で直接話すようになった。


私が、カウンセリングという世界に


飛び込んだきっかけは、


きんたろう氏のお陰だった。


心の解明、空虚、劣等感、自己肯定感の低さ


誰かにそれを伝えたいと思うようになって行った。


とても自然なことだった。


長年の私の空虚と謎が、次第に埋まっていく感覚


自分を取り戻している感覚


親との関係


家族の関係


子どもとの関係


分かれば分かるほど、


自分を取り戻している感覚に


喜びを感じた。


「普通」には、完全に決してなれないけれど


自分を知るということは


こうも自分を取り戻させてくれるんだ


きんたろう氏の言葉、会話、文章を通して


私の壊れた人生を取り戻していく過程。


それだけでも、どんなにワクワクしたか、

楽になることか。


この出会いは、私にとって

とてもラッキーだった。


次第にアダルトチルドレンは、


生涯かけて私が取り組まなければならないことに


なっていった。




自分を責め


生きづらさに責められ


自分の生きづらさを認めること


我慢し続けてきたことを認めること


壊れ続けた人生をやり直すこと。


それをアダルトチルドレンの回復と呼ぶ






【アダルトチルドレン】

心に空虚を抱えている多くの人は

実親に対して過去の納得していない出来事があまりに多すぎることが問題の深刻さと比例します。

実生活の中で不快な出来事を見聞きした時、過去に納得できなかったことが一度に噴出するのです。

これをパニック状態と呼びます。

#パニック

#AC


https://x.com/rinrin_holly/status/1733724833324908733?s=46&t=TpWrDLZXKF_jCgXO5gzlMg


↑↑先日のX(旧Twitter)にこのように書いた。

ここから、その続きとしてパニックの

軽減の仕方を書いてみました。


現在の生活で不快を受けた時に


過去の納得していない事が


現在起こっている不快を発端にして


いくつもの納得出来ない事が一斉に


心や体に溢れだします。


心は不快を整理出来ない状態になり


大津波のような過去の感覚が襲ってきて


大混乱を起こします。


体は、固く強ばり高い緊張状態になります。


時には過呼吸を起こしたり


泣き出したり


これらの状態は、時間を置けば収まりますが


根本解決にはなりません。


過去の納得していないこととは、


大方、否定されたことによるものが多いです。


他人から見れば、「なにをそんなことでパニくるんだ?」と


不可思議に思えることは、


本人も十分過ぎるほど分かってはいるものの


パニックを起こしている本人にしたら


命をかける程の絶対的な大津波にしか思えないのです。


そして、パニックの繰り返しで


本人の強い信念にもなりえます。


別の言葉で言うと、自己洗脳です。


以上のことから

パニックの症状を軽くしようと思えば


過去に納得出来なかった、怒り、悲しみを


1つずつ、信頼出来る人に


語ることが一番効果的です。


「分かってもらえた」「聞いてもらえた」「話せた」


という聞き手という他者と


本人の安堵感が一致することで


パニックが軽減されていきます。


納得いかなかった過去の出来事を


ひとつひとつを噛み砕いていくのです。


これらは自己信念が強ければ強いほど


とても時間がかかる作業ですが


数年続けたら確実に自分の安定感が


増していることに


気づくでしょう。


この回復法は

パニック症とアダルトチルドレンにも有効です。


蛇足ですが、最近よく思うのは


世の中に「静かなる聞き手」の


必要性を感じるのです。


私はそういうものになりたいと


思ったりもします。


#アダルトチルドレン

#不登校の親

#パニック症




多くの不登校の親御さんたちと接してきて


よく感じるのは


他所と比較して

自分のとこは上手く行ってないことに

どんよりなってしまう事だ。


あと、同じ傾向の親御さんとの慰め合いも

親の会によくありがちで


親の会に求めるものは、

親御さんにとって安心な居場所を

提供するくらいに

考えて欲しい。

でも、回復の状況は人それぞれなので

決して参考にはなりにくい。


これは、アダルトチルドレンでも同じく


自分独自で、毒親、毒親とSNSなどで


繰り返したところで何も変わらない。


しかし不登校にしろ


アダルトチルドレンにしろ


客観的視点をもって回復している人たちも水面下では多くいる。


が、たいていの親御さんは


その後、自分の経験を人に伝えることに


興味がない。


どちらかと言うと自分の内面を深く見つめる方向で、


過去を振り返ったブログを書かれる人を見かける。


SNSで流れてくる不幸や愚痴


あるいは後進に対して


説教や批判を数年も続けていることはしない。


おそらく、回復してしまった人は


自己顕示欲が低くなってしまったのではないかと感じる。


不思議な話だが、割とよく見られる現象だ。


だから、立ち直ったとも思えるし


子どもが、安心して回復したとも言える。


上手に先人の知恵を借り


試行錯誤しながら自分を変えて行った


方たちなのだろう。


自分をフラットに見つめるブログを


見つけるのは


この情報がありすぎる世界では、


すごく困難なことではある。


誰かと比較しているうちは


変わることは難しいが


参考にすることは、自立する力でもある。


比較と参考は違うのだ


そんなことをなぜ思ったかというと


先日行った猫の健康診断の結果が出た。


高齢ゆえに腎臓に少しダメージがあるようで


尿を持ってくるようにと言われた。


はて、犬の尿はとったことがあるが


猫の尿の経験が私には無く皆目わからない。


病院で、教えてもらった


猫砂の上に、ペットシーツを置く取り方は、


うちの猫には現実的ではない気がした。


途方に暮れて


あれこれ検索をしてみたら


プラスチックコップを改造して(簡単しかも使い捨て)


採尿するやり方を書いてあるブログを見つけた。


ありがたや〜


これならうちの猫でも出来る


これから猫の採尿は検査のために


機会が増えるだろう


色んな人が色んな方法を発信していたが


自分にはこれが出来そうだと


選んでいくことって


重要なことだ。


そして、何より重要なことは


楽に出来ることだ。


先人の知恵を借りて取捨選択


なにもかも、あれがダメだコレが出来てないと


落ち込むのではなく


経験者の言葉から、真意を汲み取っていく


昔、昔、犬の糖尿病の看病を


5年したことがあるが

(毎日インスリン注射を打つという)

あの頃、不安で不安に没頭していた


不安仲間と繋がり集まりたかった


その時の感覚とは今は

同じにはならない気がする。



こたつ猫のらいちゃん



【退屈】

スケジュールは埋まっているのに

退屈だと感じる


子育てが終わって、何もする事がなくて

退屈だと感じる


退屈は、いいかえれば

寂しさである


と、嗜癖という言葉を世に広めた

かの齋藤学さんも言っている。


逆に言えば寂しさを感じたくなくて

退屈しのぎをしていくのだ


しかし、寂しさという不快感情は

いつまでたっても満たされることはない


先日暇を持て余した私は

何十年かぶりに図書館に足を運んだ

さして広くもない古ぼけた図書館だが

結局メンタルヘルスの区域に

座り込んで書棚から1冊1冊本を手にして

昔馴染みの、〇〇なりたいなら

こうしなさい的な本を

バラパラとめくっては書棚に返し


結局、こうしたいならこうしなさい的な

内容は、経済にしても、メンタルにしても

不登校にしても、

よく出回っているのだなと

心でクスッと笑っていた。

嫌いではないけれど、脅しはよくない。

そもそも、こうしたらいい子が育つ

楽になる

なんてことは私は無いと思っている。


結局、新刊書籍のコーナーから

買って読まないであろう

ジャンルも全く関係ない

見知らぬ作家の本を借りてきた。


これはまさに暇つぶし


昨今は、暇つぶしで

好きなアーチストに走る人が多い。

SNSではアーティストの1番を競い合う。

これもまた、退屈、つまり

寂しさを感じないためのもの


寂しさを不快に感じる人は多いけれど

私は感じてもいいんじゃないかと思っている


それもまた自分の大事な感情だ。

だから寂しさこそが

人は人間関係の温かさが

自分には不足していることに

行き着くのだ。


うん、欠乏してるんだね

貧血みたいなもんだ。

あったかい気持ちを貰い損ねているんだ。


結局寂しさが求めるものは

あったかい気持ちなんだと

私は思うけどね。


ここで、みなさんはどう?

考えてくださいとか

って尋ねる野暮なことはしない。


自分の欠乏は自分で考えるものだから


ひまだにゃー







先日、母親の7回忌の法要のために

実家へ行ってきた。


実家といえば、3ヶ月前に

妹が隣市に引越しして以来

誰も住んでいない空き家になっている


法要は無事終わり

実家にみんなで寄ってみたら

人がほんの数ヶ月住んでいないだけで

やけに寂れて見えた。

ほんとに寂しいものであった。


これは経験した者でなければ分からない

なんとも言えない感覚であろう。


確かに家はあるのだが

人の呼吸がない家は

なんと物悲しく

さびれていくのだなとしみじみと感じた。


あそこに、家族の食卓があり

あそこで家族の生活があり

あそこに、祖父が寝てたなあとか

あの椅子に父親が居た

母が台所に立っていたなあとか

そこには、生活と暮らしが確かにあった

庭の倉庫をながめると、

ここが、洗濯物干の場所で

母が作業をしていたなあと

かつての影のようなものを感じた。


決していい思い出では無かったが

そこに、幼少期の私が確かにいたし

家の中で起こった歴史は

うすぼんやりと脳裏によみがえる。


実家が無くなるということは

良くも悪くも

自分の過去を失うような

そんな感覚に陥る


倉庫に無造作に置いてあった

錆びた古い壊れたオルゴールを見て

いずれはこれらガラクタも

処分しなければならないなあと考える


実家に帰る、とよく人は言うけれど

家ではなく、そこに生活する人の

輝きや、喜怒哀楽があってこその

実家なのだと感じる。


今、私のうちで、同居している

猫のらいちゃんは、

14年、この実家で育った。

彼は実家を恋しいと思うことがあるのだろうか

ここで、どんな風に過ごしていたのだろうか


猫に聞いてみても

わかりはしないが

彼の小さな脳みそには、

14年の暮らしが残っているのだろう。


昔実家に帰るたびに

のそりのそりと、実家の床を歩いていた

らいちゃんを思い出す。


君は幸せだったかい?

今は、幸せかい?


そんなことを猫にたずねても

知らんにゃー、と彼は応えるかもね



同居して9ヶ月経った、老猫との暮らし


半年ごとの健康診断を、延ばし延ばししてたのだけど


やっとこさ、重い腰をあげて


健康診断へ行ってきました。


なんだか、小さな子供を病院へ


予防接種に連れていくような気分で、


私がドキドキ


病院行く車の中では


ずっとにぁーお、にゃおと不安げにしていたけど


病院に着くとカゴの中で静かにしてました。




心臓の状態も良好、体重も良好

採血もおとなしくできました。

結果は1週間あと

帰宅したら、ご褒美チュールに

かぶりついていました(*^^*)

いつまで一緒に過ごせるかわかりませんが

元気に長生きして欲しいものです。

※お猫さまの病院は、保険がきかないので
ごっそり(っ$ ~ $)っ💸と飛んでいくのでした。


最近よく思うのは…

私は何かの面倒を見るということが

とっても好きなんじゃないかと思ったりする

動物歴、ハムスターから、鳥、
犬、猫、めだか

人間も…笑

性格は、とっても雑なんだけど

面倒みるのは好きなんだなあと

育てることが幸せに感じる

だから、今の仕事をしているのかもね

猫との暮らしで思うことでした


息子(32歳)の結婚式に参加してきた。

感慨深いものがあった。


不登校になったのが中学2年だった。


あのころ息子は友達は多くいたけれども


ずっと、居場所がないまま、中学まで


過ごしてきた。


自分の居場所を作ろうと


あるいは、母親の望むようないい子になろうと


懸命に努力してきた息子だった。


ほんとの意味で自分の人生を生きられてなかった。


力尽きて、中学2年から中学3年まで


学校に行かないうつ状態となった。


学校の用意をしても、玄関にうずくまって


動けない、そんな状態だった。


あのころ、まだ不登校は少なかった。


だから、情報も今よりかなり少なかった。


私は必死で、何がいけなかったのかを


右往左往して考えたり、本を読んだり


宗教の人に相談したりした。


私の思うような答えを得られなかった


息子もまた、私の期待に添えないことに


苦しくて、アイデンティティが崩壊した。


そう、崩壊、と言っていい


今思うと、ほんとに辛い思いをさせてしまったと思う。


息子は通信制高校で同じような家庭環境で


苦しんでいる友達と出会った。


半年、心を閉ざしてしまったまま


通信制に通っていたが


ある行事をキッカケにして、


彼は友達を求め始め、人と交流し始めた。


その頃私は何も息子にはやってやることはなかった。


今まで息子の人生に介入し過ぎて


息子の意志をつぶしてしまったことを


身をもって知ったからだ。


ただ、楽しく話す、それだけで良かったのだ


やがて、大学へすすみ、成人し


卒業したはいいけど、なかなか就職先が見つからなかった。


アルバイトを重ね、就職もあちこちと


息子は必死で頑張った。


承認欲求が強かった息子は


行く先々で、


人格を否定されることが


多数あった。


時には泣いたり、落ち込んだり


壮絶な無力感を味わっていたことを


間近で見てきた。


転職する度に、息子はほんとにその場所で


下の人に慕われる立場になり、仕事の楽しみを見つけ


頼られる人間になるのだが、


人を守りすぎて、自分を犠牲にして


過剰労働になりがちだった。


泣くように電話がかかって来たこともあった。


睡眠時間も削られ、一生懸命だった。


同時に彼女とも破綻することも多かった。


時には、ストーカーの彼女のせいで


仕事を辞めざるを得なかったこともあった。


そして、紆余曲折、やっと、


安定した職についたのが、去年のこと。


その時の息子の嬉しそうな声を聞いて


深く安堵した。


彼は一生懸命働き、見事正社員採用された。


この時の彼を支えてくれてた彼女を


私に紹介してくれたとき


この子と結婚するかもなあと


予感があった。


予想通り、息子は彼女と11月23日に


結婚式をあげた。


長い長い苦しい歴史の中で、

腐らずに、生きててくれてよかった


不登校というのは、


長い人生の中でほんの一瞬だった。


彼の姿を通して、


ほんとに遠回りさせてしまった


と、思うと同時に


これから幸せになるんだよ、と


心から思わずにはおれない。


私の手から離れて新しい家庭を作る


普段は息子とは会わないけれど


結婚式の日に、


がんばったね、


そう息子に声をかけた。


家庭を守り、夫婦仲良く


普通に生きて欲しい


昔、息子は誰かに認められたいという


強い自己顕示欲があった。


しかし結婚式の息子をみると


自己顕示欲が無くなっていることに


とても安堵した。


何者にもならなくていい


そう思う。


そして、私自身の自己顕示欲も


消え失せている最近。


自己顕示欲とは、自己肯定感の低さと比例するからだ。


普通に笑って過ごせればいい


場所は離れているけれど


それは親子共通のテーマだったに違いない


息子が不登校から歩んで来た道を

私自身の内面をどのように終わらせるか


この様な結婚式という儀式は、

「終わらせる」こと

あるいは

区切りをつけるという儀式でも

あると感じる


どうか、どうか、幸せでありますように