2012年3月5日月曜日

民間事故調の報告書

先日2月28日に、福島原発事故独立検証委員会(いわゆる民間事故調)の報告書要旨が発表された。
詳細は、こちら

冒頭の第1章には、事故の発生原因として、こんな文言が見える。

『事故(昨年3月11日)の直接の原因は、津波に対する備えが全く不十分で、電源喪失による多数の機器の故障が発生したことに尽きる。』



ものの言い方にはいろいろなレベルがあるものの、この表現は間違っているとは言わないが、ちょっといただけない。

津波により非常電源系が使えなくなり、全電源喪失という事態になったわけだが、事故原因は津波に対する備えの不備に尽きるのか?原発の関係者でない自分ですら、疑問に感じていることがある。

非常用電源の出動が必要となった遠因は、通常電源の喪失だ。
通常電源は、山中から送電鉄塔を経由して福島原発に供給されているのだが、津波が非常用電源を襲う前に、地震により鉄塔が倒壊してしまっている。この付近は震度6の揺れであったと報告されているが、その程度の地震で、送電線からの電力供給が途絶えていいのか。
とても謎である。

通常電源が被害を受けなければ、今回の一連の事故の発生は起きない。設計強度をそのようなレベルに設定していたのか不明だが、とても脆弱な電源系統に、とても危険な原発をゆだねていたことになる。

本当の原因は、原発の内部の主要機器の安全だけでなく、それを支えている周辺機器やインフラを含めた、総合的な安全設計の考えが欠落していたと言うことではないのか。

またこれは一部の資料から拾い読みした情報。
原発の圧力容器下部には、多数の制御棒が上下できるように貫通する構造となっていて、とても複雑になっている。組み立ての際には溶接により配管をくみ上げていく。その中には覗くこともむつかしい込み入った部分もあって、十分な検査が行われていないと言う話もある。設計が複雑で、確認できない部分もあると聞く。
原発機器の場合は、金属素材中に走るちいさなクラックまで検査(カラーチェック)して、耐圧などを確認するのが通例だ。

もし地震の揺れなどで未検査のクラックが増幅して伸張していったらどのような事態になるのか、その辺も解明されていない。はたして、原子炉圧力容器は健全なのだろうか?




2012年2月25日土曜日

希望的観測に安心したい

最悪の事態を直視したくない日本人の心性のことを以前書いた。この根っこにあるのは、事態にはやく安心したい、嫌なことから逃れたいという気持ちだ。

藤井厳喜さんの著書を読んでいて、なるほどと思った。
一部引用する。

「明治初期に来日し、日本の陸軍将校教育の基礎をつくったドイツ軍人メッケルは、日本人将校の欠点として、「希望的観測に依存しすぎる」ということを挙げている。これは日本民族固有の欠点であるらしい。」

藤井厳喜著『超大恐慌の時代』日本文芸社p.49

原発事故が発生した直後、正確な情報が少ない中、政府や東電からの情報は、事態は大したことではないとか、安全は保たれているというようなものが多かった、と記憶する。知りたいのは事実であって、政治家や利害がからむ関係者による「事実への評価」ではないと強く思ったものだ。

その気持ちは今でも変わらない。厳しい現実の技術情報や事実の報道を望んでいるのに、それにはほとんど触れずに、大丈夫ですから・・・となだめられている気がするのだ。そんな日本の姿勢は、海外の報道、政府、原発関係者から見れば、とんでもなく頼りなく写っているだろうと想像できる。コイツラハ事態が収拾できないのではないかと思われても仕方ないと感じる。

必要なのは正確な事実であり、データである。
それをどう評価するかではない。
まして事実が明らかにならないうちに(調べないうちに)、安心してくださいという希望的観測を聞きたいわけじゃない。

原子炉内の内部調査の続編はどうなっているのか。 また冷却水の水位がいくつなのかは、いまだどこからも聞こえてこない。
いまも圧力容器内を冷却するために大量の注水を続けているはずだ。注水量と水位の関係は把握できているのだろうか。水位も計測されていないのだからそれは無理か。

私感だが、圧力容器の底辺付近か、配管のどこかに、地震の揺れかメルトダウンか分からないが、けっこうな穴が開いていると推定している。水位が上がらないらしい事実と、床などからの高濃度汚染水の発生は、それを強く暗示する。その穴の大きさを推定するには、注水量と水位の変化を調べればわかるはずなのだ。

ほんとうに調査はどこまで行ったのだろう。まさか希望的観測に安住してしまい、手を抜いているとは思いたくないのだが。


2012年2月22日水曜日

Stay Foolish!

波頭亮・茂木健一郎著『突き抜ける人材』(PHPビジネス新書208)を読む。

既得権益のピラミッドがガチガチに社会を縛り付け、もはや自らは次世代への変化を生み出せない状況の日本。1995年以降、世界で変化していないのは日本だけという言葉も出てくる。危機感に満ちた本である。それを打破するのは、若い世代しかない。「突き抜けた人材」しかないという内容の本だ。

内容は至極当然というか、分かる内容だが、じゃ突き抜けた人材を育成するにはどうするのか、何がができるのか。最後の方で私塾の可能性に触れている。吉田松陰の松下村塾のような既存のシステムにとらわれずに、次世代をになう人材を輩出する道筋に希望を見出すという。

素朴な思いだが、常識にとらわれない若い人材が世にでて何かを始めても、権力や権威を持った既存の権益ピラミッドに押しつぶされるのがオチだ。

日本は明治維新や、敗戦などこれまで大きな変革を経験してきているが、いずれも大きな環境変化や、強い外圧に(しぶしぶ)対応する形で自らを変化させたように思う。自らの内部の矛盾を動機として、次の時代に向けて「自ら」変化した経験はあまりないと感じる。

既存のシステムが疲弊して機能しなくなり、極限まで危機感が高まるなど、環境条件が整わないと、若い人材が大きな役割をになうことはありえない。日本の状況がトコトンダメになるか、国民から一揆のような反乱がおきない限り、既存の権益システムはこれまでどおり機能して変化を押しつぶす方向に動くだろう。リビアのカダフィ大佐の末期のような足掻きや騒乱は必ず起こると想定しなければならない。

日本のこれまでの非常識が、新時代の常識に変わり、それが当然だと感じるようになることが、まず必要だと感じる。自己保身、組織保身に明け暮れる役人の支配に晒されていてはダメなんだとか、何の利益を生まないことに税金をつぎ込むべきではないし、それは犯罪なんだとかいうことが、当たり前になることだ。また科学技術の分野で、いちばんになることがなければ、日本国の成長の原資はなく、他国の後塵を拝するだけなんだ、ということである。国家の科学技術の予算に関して、なぜ一番でなきゃいけないんですかと、技術オンチのヘンな人に公開の場で言われること自体が、とっても恥ずかしいことだ、と感じなければダメだ。

スティーブ・ジョブスの有名となった演説に、Stay Foolish!という言葉がある。
日本の語感は、バカになれという風にしか聞こえない。
英語圏での語感は分からないところがあるが、たぶんバカというよりキチガイ、日本で言う「オタク」に近いものではないかと思う。
日本が大切にしてきた人材、すなわち「優等生」の対極に位置する人種だ。
若者よ、オタクであれ!平凡な優等生を目指すな!という意味だろうか。



2012年2月21日火曜日

なんとも不愉快な停滞感

先日の新聞記事で、昨年の10~12月のGDPは前期比で0.6%減とマイナス成長と報じられた。この結果、2011年の通年の名目GDP(物価変動を取り入れたGDP)は、前年比2.8%減となるとのことだ。この数字は、20年前の日本経済の水準と同じだそうである。震災の影響などがあるにしても、失われた20年といえるのかもしれない。

先月の貿易統計は、ちょっとショックな数値が並んでいた。輸出額から輸入額を差し引いた貿易収支が、31年ぶりに赤字(2兆4900億円あまり)に転落。貿易収支の年度別グラフを見ると、1980年の第2次石油危機で輸入額が大幅に増えたときの赤字レベル(2兆6000億円)に近い数字だ。この赤字となった1980年以降は、2010年までは黒字をずっと維持していて、1998年には最高の13兆9900億円という数値を達成している。弓なりに黒字に転じていたグラフが再び赤に戻った。

パナソニック、ソニー、シャープなどの主要電機メーカは、テレビ事業などで苦戦して大幅な赤字。日本の得意としてきた電機、自動車などの産業分野において、新興国などの追い上げに太刀打ちできない日本の姿が思い浮かぶ。

こういう事象をまとめて言うと、日本には強い輸出産業がなくなりつつあり、長い凋落の坂を転げ落ちているということだ。むろんユニークな小さな企業や、町工場のような存在が、世界を相手に頑張っている話はよく聞く。しかし日本全体の振興につながるような規模の産業となると、今後はどのようになるのか。なんだかイメージが湧かないのだ。

医療分野で先端を行っているか?
IT分野は?世界に輸出できる技術はあるか?
携帯もけっきょくスマートフォンに雪崩を打って切り替わっている。
すでに半導体は韓国などに太刀打ちできない。
ソフトの分野は強いか?

とくにこの10年くらいの間に、新しい技術や産業の勃興があっただろうか?なにか日本を駆け巡ったのだろうか?またそのような次世代への投資が行われただろうか?人材の育成にお金が使われているだろうか?私感だが、政治の世界においてもますます官僚の力が強固になり、新しい施策が次々となし崩し的に骨抜きになってきたように感じる。

停滞した社会では、いかに既存の社会の階層の上位に上り詰めるか、いかに自分の取り分を増やすかが関心事となる。そしてがんじがらめになった組織や慣習を変革する力を、そぐように作用する。こうして、ますます停滞の度が増していく悪循環にはまる。

日本の成長のシナリオが見えないのだ。またそのポイントに投資を継続するという方策も生まれない。なんとも不愉快。


2012年2月18日土曜日

それは考えなくてよい(2)

前記事の続き。


安全指針の指針27に書かれた2つの文章は、考えてみるとおかしな表現である。
なぜなら、それは安全に対する配慮を、「考慮する必要はない」、「想定しなくてよい」 と否定する形だからだ。

安全増し設計というものがある。屋上にさらに屋を重ねるような安全確保のための重複設計の考え方だ。メインのパラシュートが開かなかったら、予備のパラシュートを使うというような重複設計の考え方だ。予備のパラシュートという存在は、平常時には、無駄といえば無駄。だけれども異常事態に対処する知恵なのだ。

原発の安全、とくに電源設備に対する配慮が、なぜ不要であると指針に書かねばならないのか。やはり理由が分からない。不思議というほかはない。設備コストに配慮した安全指針だったのだろうか。
国民や周辺国を危機に陥れるリスクを犯してまで、コストを重視したのだろうか。そもそも原発の安全をその程度で収めていて良しとしていたのか。

「君はそんなことまで考えなくてよい!」という叱責の言葉を、昔、組織の上の人間から浴びせられた経験がある。人間は考えるために頭脳があり、 その頭脳を使うなという言葉に、強い違和感を覚えたものだ。人間に考えるな!とはどういう意味なのだろう。考えすぎてはいけないという法律があるわけもなく、ようするに上の人間の痛いところを突くと大変なことになるぞ、という恫喝であったのだろう。

余計な安全施策を考えるな!という安全指針にある言葉、誰に向かって発せられた禁止事項だったのだろう。しみじみとその奇妙さと不可解さを味わっている。



それは考えなくてよい

先日2/15の国会事故調で、参考人として出席した班目氏(原子力安全委員会委員長)は、従来の原子炉の安全設計審査指針なるものの瑕疵(まちがい)を認め、お詫びしたとされる。

3/11東日本大震災により、なぜ全電源喪失という事態に至ったのか、以前よりとても不思議に感じてこのBLOGにも記事を書いたが、そのおおもとの発信源はこの指針だと分かった。

正式名を、『発電用軽水型原子炉施設に関する安全設計審査指針』(平成2年8月30日決定、平成13年3月29日一部改定)というものだ。


瑕疵と認めた一つは、「Ⅵ.原子炉冷却系 指針27」に書かれた文章だ。
引用すると以下のとおりである。

Ⅵ.原子炉冷却系 指針27 電源喪失に対する設計上の考慮
長期間にわたる全交流電源喪失は、送電線の復旧又は非常用交流電源設備の修復が期待できるので考慮する必要はない。
非常用電源設備の信頼度が、系統構成又は運用(常に稼動状態にしておくことなど)により、十分高い場合には、設計上全交流動力電源喪失を想定しなくてもよい。

大変分かりにくい文章だが、地震で送電線や鉄塔が破壊されても、また非常用電源がすぐ修復する(と思われる)ので、電源全部がやられちゃうなんて、考えなくていいよ、と言っている。
また、非常用電源が主電源系統と別系統になっていたり、非常用電源がいつも動かされているというように、すぐ使える状態だと信用できる場合には、全電源が喪失するなんてこともまた、考えなくていいよ、と言っているようだ。

大震災を経験した今、なんてザルな安全指針なんだろうと驚きを隠せない。安全委員会というところでは、地震、津浪、テロなどの非常事態をほんとうに考慮したことがないらしく、せいぜい何かの事情で送電線の補修をするとか、故障などの部品交換作業くらいしか想定していないようだ。

また非常用電源は、どんな状況でも大丈夫だし、壊れてもすぐ復旧すると期待しているフシがあって、そこも不思議なところだ。すぐ復旧するような仕組なり、別の系統にするなどの構成がとられていたのだろうか。そこを既定してくれなければ、指針の意味はない。

後半の文章も、よく読むと意味のない文章であることが分かる。非常用電源が信頼できるならば、全電源喪失を想定しなくてもいいとは、ことさら言うまでもない。非常用電源が動いているならば、全電源喪失ではないことになる。問題は、非常用電源の信頼度を100%まで高めることではないのか。その指針はどうもない様なのだ。

どのような経緯と審査を経てこの指針が決定されたのか記述されていないため、詳細不明だが、論文だってレフリーの審査をパスしなかったら論文誌に掲載されない。原子力安全委員会決定とだけ小さく記されている。
寒い。とても寒い指針であった。



2012年2月11日土曜日

安全とは何を指すのだろう?

福島第一原発の全電源が喪失し冷却不能に陥るという事態は、最も回避しなければいけない最深刻回避事項だったのに、なぜそんなことが現実に起きたのだろう?この疑問はいまだ11ヶ月を経てもボクの頭の中をグルグルと回っている。またそれに対する解明や表明の情報に接しないことも、なおさら不安な気持ちにさせる。

『地震により、ふだんはありえない細い通路が不運にも開いてしまい、悲劇の扉が開いた』という概念的な説明では、なにもわかったことにならない。細い通路はなぜ開いたのか?そもそもそれはほんとうにありえない「細い」通路だったのか?

波が巨大だった、想定外だった、という説明(言い訳)が、震災当時さかんに報道されていた。しかし、8/26の読売新聞の記事で明らかになったのは、東電内で津波の高さ試算レポートの第2報なるものが、2008年に東電上層部に提出されていた。結果的にそれを握りつぶしたことになった。

その試算とは、M8.3の明治三陸地震(1896年)に相当する地震が、原発の面する福島沖で発生したと想定したとき、原発に到来する津波の高さはいくつになるか?というごく自然な発想にもとづく試算だ。原発の安全性を審査するには必須の項目であっただろうと思われる。

その計算結果は、津波の高さ15.7m。今回の被害をもたらした津波は14m~15mといわれている。 握りつぶしたことになったというのは、東電は2002年にもうひとつ、最初に試算をしていて津波9.2mと予測、その結果は2009年に保安院に報告されている。 2番目の15.7mの予測結果は、土木学会に検討を依頼している。慎重にことを進めたということなのか。保安院にはすぐ報告しなかった。

東電トップが、予測した津波高さが、高すぎるのではと結果に疑念をもった雰囲気もある。予算がからむ事態を予想して、計算結果の評価にバイアスがかかったか。

2つの試算結果が合わせて保安院に報告されたのは、試算日から3年後、2011年3月7日。なんと皮肉なことに地震の起きる4日前だ。その試算結果の報告を受けた保安院は、設備面の対策が早急に必要と東電に助言したと言われている。
(ちなみに保安院は原発建設や運転における安全対策について指導監督する立場にあり、今回の事故を受けて、なにか見解を表明したとか責任を感ずるとかの会見をしたことがないと思う。雲隠れしてしまったのだろうか。とてもマカ不思議な組織である。)

ボクの基本的な疑問とは、電源(非常電源も含めて)が、なぜ海辺に晒されていたのだろうということだ。あとで敷地内の配置を見たら、原子炉より海側に電源設備がある。画像によれば、金網を張り巡らせた中に電源設備が設置されていた。 単純に、非常電源をふくめ電源は、地中にあるものと思っていた。それが潮風の当たる海辺とは・・・ これじゃダメじゃんというのが第一印象。

津波でなくてもテロ攻撃や、航空機の不時着や墜落、どこかの国の◎◎ドンが飛んできたら、どうするんだろうか?想定してませんでしたでは済まないだろう。今回のことで国家の危機を海べりに晒していたことが明らかになってしまった。

津波の高さを心配して、予測の計算をするくらいだったら、原子炉は要塞化すべきだったと思う。その際に、とうぜん制御系や電源系は、地中深く隠されているべきだ。 コストをかけることが可能ならば、原子炉自体を地中深く設置すべきだと思った。

海水を導く緊急水路を地中の原子炉の上部に設置しておき、今回のような最終事態となったら、手動でバルブを開き、海水注入が手動で行えるようにしておく。とりあえず空中爆発や放射性物質の飛散の最悪事態を、原子炉全部の水封で防ぐ。

既存の安全設備の脆弱さを知り、ほんとうに危惧したことは、原発とは、いったいぜんたい民間企業がやるレベルの事業なんだろうかということだ。民間であるなら、利益計算して最小コストで原発を建設することになるだろう。そんなコストの制約をかいくぐりながら建設する姿勢で、ほんとうの安全が確保できるのか?民間ならば、安全にかかわる設備も、事業利益に見合う安上がりのものに落とさざるを得ないだろうという危惧である。

今回のような原発事故が起きてしまったら、国家の危機を招きかねない。このようなリスクが明白になってしまった。ボクは国有化すべきであり、安全の検証は外部の客観的な団体に委ねるべきだと思う。