「物理的距離」に目を奪われた発想の問題
コロナ禍のなかで定着化したといえる「ソーシャル・ディスタンス」という表現は、「社会的距離」という意味になることから、感染防止策として使うとすれば、本来は「フィジカル・ディスタンス」(物理的距離)が適切という呼びかけがなされています。考えてみれば、前者を「空ける」という使い方では確かに社会的な関係を疎遠にするようなイメージにもなりかねず、なぜ、もともとそういう話にならなかったのか不思議な感じもしますが、残念ながら現段階では、前者にとって代わり、後者が社会で一般的になっているようにはみえません。
ところで、司法改革論議が始まって以降、弁護士会が問題視する弁護士・利用者市民と関係は、ある意味、常に「物理的距離」の問題に偏重してきたといえます。しばしば「身近」という言葉が、目指すべき理想型のように言われましたが、要するに市民のそばに弁護士がいること、そうでない現実を解消することの重要性が解かれたのです。
いわゆる偏在問題の「ゼロワン」という描き方(弁護士がいないか、一人の地域の解消を掲げた)に典型的に表れていますが、その発想は弁護士の数が絶対的に足らないという見方とも繋がり、その物理的距離の問題解消ということも、弁護士激増必要論の根拠になっていきました。
地域に弁護士が存在する意味は、もちろんないわけではありませんし、それによって地域社会の住民の利になるものもあったとは思います。ただ、問題は明らかに「物理的距離」の問題に目を奪われ過ぎではなかったか、もっといえばより本質的な問題があったのではないか、ということなのです。
弁護士が市民の「身近」な存在として利用されるためには、より本質的な問題として経済的な条件整備を抜きには語れないはずです。例えば、弁護士を市民が利用できないのは、地方の過疎地の住民だけでなく、都市部の低所得者層の問題でもあり、それらには、そもそも弁護士報酬等の支払い能力と公的な助成措置の欠如が根本にあるという指摘は、ずっと存在してきました。
弁護士が「物理的」に存在できないできた本当の原因も、あくまでその地域の「経済的な条件」であり、そのために現に、弁護士・会は前記「ゼロワン」解消という発想のなかで頭を悩ませてきました。そのこと自体、取りあえず、「そこにいればなんとかなる」問題ではないことを裏付けており、単純に「配置」が問題解消に直結しているともいえず、その意味で現実は、いわゆる「過疎地」以外にも、弁護士を「身近」にできない「過疎」は存在するという話だったのです。
「身近」という表現に引き付けて考えてみれば、弁護士が増え、広告は自由化し、ネットを通して、いくらでも利用者は弁護士にアクセスできるようになったことを考えれば、それこそ弁護士は「物理的」には、かつてより格段に「身近」になったといえます。しかし、それが「改革」が理想としたような、弁護士が活用される社会を生み出したか、当の利用者市民がそれを実感できるものになったか、といえば、疑問が残ります。
前記同様に経済的問題は、直視されたといえるでしょうか。「改革」がイメージさせたような増員がもたらす競争の促進によって、弁護士の良質化、低廉化が実現されていくという描き方は、完全に外れています。「無償」とか「無料化」という試みが、弁護士との出会うきっかけ、あるいは呼び水以上の動機付けとなることが、逆に弁護士業にとってマイナスという認識に多くの弁護士が至っているのを見ても、経済的関係という視点を後方に押しやっての、「改革」のテーゼに限界があることが明らかになっているようにとれるのです。
一方で、弁護士会からの利用者市民に対するアピールは、「気楽に」「何でも」という、相変わらず「フレンドリー」な存在アピールの「ウェルカム」路線といっていいものです。しかし、フレンドリーは結構でも、案件としても、「無料化」同様、経済的な意味でも、業としての弁護士が誤解される方を懸念する声も、いまや会内にはあります(「日弁連『フレンドリー』広告の見え方」)。
以前も書きましたが、そもそもこのアピールの根本的な発想には、「市民は誤解している」といった捉え方、もしくに市民側の認知の問題とする捉え方があります。市民が考えている以上に、弁護士は「気楽」で「身近」でいろいろと「役立つ」。そのことを市民は知らない。その誤解が解け、本当の弁護士の姿が周知されれば、市民は弁護士の門をたたく。そして、弁護士におカネをちゃんと払うはずである、と(「弁護士利用者への無理解という『改革』の本質」)。
弁護士増員の発想自体も同じですが、人数を増やした先に、あるいは前記した誤解解消の先に、利用者市民が弁護士におカネを払うという描き方は、要はそうした障害さえこちらが除去すれば、弁護士や司法におカネを投入する容易がある存在として、利用者市民をとらえ、それを潜在需要に位置付けているのです。そういう存在がいないとはもちろん言えませんが、有償と無償を混合させた需要論が増員政策の失敗に直結したことをみれば、利用者市民とその関係性をそうしたものとして、しかも大量に描いたのは、明らかに現実離れしていたといわざるを得ません。
経済的な問題が、常に根本にあることを、「改革」を推進した側が本当に認識していなかったのでしょうか。少なくとも「改革」の発想は、一番重要でありながら、一番やっかいな問題の頭越しに、駒を先に進めるものであった。そして、結果的に私たちは、その当然のような結末を見ることになった――。そう思えてなりません。
地方の弁護士ニーズについて、ご意見をお寄せ下さい。司法ウオッチ「司法ご意見板」http://shihouwatch.com/archives/4798
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いわゆる偏在問題の「ゼロワン」という描き方(弁護士がいないか、一人の地域の解消を掲げた)に典型的に表れていますが、その発想は弁護士の数が絶対的に足らないという見方とも繋がり、その物理的距離の問題解消ということも、弁護士激増必要論の根拠になっていきました。
地域に弁護士が存在する意味は、もちろんないわけではありませんし、それによって地域社会の住民の利になるものもあったとは思います。ただ、問題は明らかに「物理的距離」の問題に目を奪われ過ぎではなかったか、もっといえばより本質的な問題があったのではないか、ということなのです。
弁護士が市民の「身近」な存在として利用されるためには、より本質的な問題として経済的な条件整備を抜きには語れないはずです。例えば、弁護士を市民が利用できないのは、地方の過疎地の住民だけでなく、都市部の低所得者層の問題でもあり、それらには、そもそも弁護士報酬等の支払い能力と公的な助成措置の欠如が根本にあるという指摘は、ずっと存在してきました。
弁護士が「物理的」に存在できないできた本当の原因も、あくまでその地域の「経済的な条件」であり、そのために現に、弁護士・会は前記「ゼロワン」解消という発想のなかで頭を悩ませてきました。そのこと自体、取りあえず、「そこにいればなんとかなる」問題ではないことを裏付けており、単純に「配置」が問題解消に直結しているともいえず、その意味で現実は、いわゆる「過疎地」以外にも、弁護士を「身近」にできない「過疎」は存在するという話だったのです。
「身近」という表現に引き付けて考えてみれば、弁護士が増え、広告は自由化し、ネットを通して、いくらでも利用者は弁護士にアクセスできるようになったことを考えれば、それこそ弁護士は「物理的」には、かつてより格段に「身近」になったといえます。しかし、それが「改革」が理想としたような、弁護士が活用される社会を生み出したか、当の利用者市民がそれを実感できるものになったか、といえば、疑問が残ります。
前記同様に経済的問題は、直視されたといえるでしょうか。「改革」がイメージさせたような増員がもたらす競争の促進によって、弁護士の良質化、低廉化が実現されていくという描き方は、完全に外れています。「無償」とか「無料化」という試みが、弁護士との出会うきっかけ、あるいは呼び水以上の動機付けとなることが、逆に弁護士業にとってマイナスという認識に多くの弁護士が至っているのを見ても、経済的関係という視点を後方に押しやっての、「改革」のテーゼに限界があることが明らかになっているようにとれるのです。
一方で、弁護士会からの利用者市民に対するアピールは、「気楽に」「何でも」という、相変わらず「フレンドリー」な存在アピールの「ウェルカム」路線といっていいものです。しかし、フレンドリーは結構でも、案件としても、「無料化」同様、経済的な意味でも、業としての弁護士が誤解される方を懸念する声も、いまや会内にはあります(「日弁連『フレンドリー』広告の見え方」)。
以前も書きましたが、そもそもこのアピールの根本的な発想には、「市民は誤解している」といった捉え方、もしくに市民側の認知の問題とする捉え方があります。市民が考えている以上に、弁護士は「気楽」で「身近」でいろいろと「役立つ」。そのことを市民は知らない。その誤解が解け、本当の弁護士の姿が周知されれば、市民は弁護士の門をたたく。そして、弁護士におカネをちゃんと払うはずである、と(「弁護士利用者への無理解という『改革』の本質」)。
弁護士増員の発想自体も同じですが、人数を増やした先に、あるいは前記した誤解解消の先に、利用者市民が弁護士におカネを払うという描き方は、要はそうした障害さえこちらが除去すれば、弁護士や司法におカネを投入する容易がある存在として、利用者市民をとらえ、それを潜在需要に位置付けているのです。そういう存在がいないとはもちろん言えませんが、有償と無償を混合させた需要論が増員政策の失敗に直結したことをみれば、利用者市民とその関係性をそうしたものとして、しかも大量に描いたのは、明らかに現実離れしていたといわざるを得ません。
経済的な問題が、常に根本にあることを、「改革」を推進した側が本当に認識していなかったのでしょうか。少なくとも「改革」の発想は、一番重要でありながら、一番やっかいな問題の頭越しに、駒を先に進めるものであった。そして、結果的に私たちは、その当然のような結末を見ることになった――。そう思えてなりません。
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