朝起きて、コーヒーを入れ一口すする。
直ぐに朝ご飯の支度・・・
片付けたら、洗濯物を干し、掃除。
終わったら昼ご飯の支度。
食べて片付ける。
冷めたコーヒーがまだ残っている。
温めなおしてまた一口すする。
次は買い物。
あっちこっち寄るので時間がかかる。
戻ってお風呂掃除をして、
洗濯物を取り込みたたむ。
ここで残った冷めたコーヒーをまたすする。
NHKの朝ドラ「純と愛」の録画を見て休憩15分。
終わったら晩ご飯の支度。
食べて片付けて終了。
私、正直言うと、料理が嫌い。
掃除洗濯は大好きだが、料理はできればしたくない。
だから出来合いのお惣菜を買ってくるばかりになるのでは?
と思いきや、
意外や意外。
頑張って、毎日作っていた・・・
って、自分で自分に驚く!
さらっと書き出してみると、そう大したことではない。
が、途中途中で細々したことがある。
掃除と一口に言っても、ただ単に掃除機をかける掃除とは違う。
そんなことの他に毎日やっているのはトイレ掃除。
父は腸のせいと薬のせいで、
1回入ると30分以上、1日に夜中も含め15回くらいトイレに行く。
その合間に私と母は入らなくてはならない。
必然的にトイレ争奪合戦となる。
父が出てやっと入ったら、必ずトイレ掃除をする。
父はどんなに汚しても自分ではしない
(心臓がはぁはぁしてしまうのでできない)ので、
仕方ない。
部屋で寝ていてトイレに行きたくなって間に合わなくなると、
漏らしてしまうし、トイレの壁にまでまき散らしてしまう。
そういうことも時々あって、父本人も非常に落ち込む。
プライドもあるだろう。
でも、今は紙パンツを履いてもらっている。
そんな父のお風呂の介助を今日初めてやってみた。
痩せこけてガリガリの体を洗ってあげた。
今までは一人で入って体を洗っていたけど、
もう一人で入ると疲れて呼吸困難になり、
グッタリしてしまう。
だから2週間も入らないと言うことがある。
それではかわいそうだから、背中だけではなく、
頭から足の先までパンツを履いたままでいてもらって、
洗ってあげた。
大事なところは、自分でね。
それくらいは何とかできるようだから。
なかなか介護士さんのように行き届かないとは思うが、
父はずっと「ありがとう、ありがとう。」と言っていた。
これが私の最近の日常。
だいぶマシになった方だ。
3ヶ月前に比べたら・・・
ちょうど3ヶ月前の12月上旬、
父が具合が悪くなり入院した。
その次の日、母が父の病院の帰りに
自転車で転び、腰椎骨折で同じ病院に入院した。
その頃は同じみ月初の激忙期間。
給与計算や請求処理で忙しかった頃だ。
お客様のところへも行く予定が入っていた。
でも・・・
そこから私の生活が激変してしまった。
この上記の日常生活にプラス、父と母の病院へ行き、
母の食事の介助をしなければならなかった。
腰の骨を折ると言う重症なので、先に入院した父よりも手がかかる状態だ。
絶対安静で起き上がることができない寝たままの母に食事を食べさせる。
両親ともども同じ病院に入院してくれて、まだ良かったと思うが、
たいへんなのはこの後だった。
父が1週間後、退院してきた。
そうなると、日中は父の世話が加わる。
一番忙しい夕方には母の病院に行って食事の介助をしなくてはいけない。
でも父の夕飯も用意しなくてはいけない。
時間を繰り上げて、夕飯を用意してから母のところへ行ったり、
父に少し待ってもらって、帰ってから夕飯の支度をしたり、
体が2つに引き裂かれそうだった。
父も母も自分が生まれた時から居て当たり前の存在ではあるが、
こうなってくると大きな子供と一緒だ。
「あれが食べたい」「これは嫌だ」「こうしてくれ、ああしてくれ」と
要求は尽きない。
子どもなら「我慢しなさい」と親の言うとおりにさせられるが、
大人の両親にはそうはいかない。
程なくして、私は帯状疱疹になった。
以前、帯状疱疹になった時は、5年前。
息子が父親のところから家出して、
私のところかに卒業できるかできないかの瀬戸際で
やって来て一緒に暮らした時だった。
なかなか起きない息子を何とか起こして学校に送り出してから
毎日会社に遅刻の連続だった私は、眉毛の一帯に
帯状疱疹ができてお化粧もできないくらいだった。
今回は右の二の腕の内側から脇にかけての広範囲。
ビリビリ痛くてたまらなかった。
だが、医者に行く暇もない。
ビリビリして眠られないくらいひどくても、
自分のことにかまけていられない私は、
そのままほったらかしてしまっていた。
入院は1ヶ月と言われていた母だったが、
経過がいいのと退院したいと言う希望で3週間ほどの入院生活を終え、
年末に退院してきた。
病院通いはここで終わる。
なので私も3週間ほったらかしていた帯状疱疹を診てもらいに医者へ行く。
すると、なったら1週間以内に診察を受け薬を飲まないと、
ウィルスが全身にまわってしまうと医者に怒られた。
放っておくと神経痛になるのだそうだ。
だけどね、先生、行けなかったんだよ~(>_<)
年末に退院してきた母は、よせばいいのに、
張り切ってお正月の準備をしようとしていた。
杖をつきながら・・・
でも、いつものようにはもちろん動けないし、できない。
つまり、私が動くことに。
「こんな時は、お正月なんてなくていい、
いつもの年と違うのだから質素でいいじゃないか」と言う私の言うことも聞かずだ。
お正月が終わるまで、また仕事が増えた。
ここまで来ると、私の疲れもピークとなり、
本業の仕事も疎かになっていく。
その焦りとイライラと、でも次から次へとやらなくてはいけないことがあるのとで、
精神状態も怪しくなってきた。
1月下旬には、父もまた具合が悪くなり、
寝たり起きたりの繰り返し。
時間が惜しい私は毎日買物に行かずにまとめて買ってくるようにしていたが、
母は買物に毎日出ていた人なので、少しでも足りない物があると
「何にもない、何にもない」とことあるごとに言う。
冷蔵庫の中の向こうの壁が見えるような状態が嫌なのだ。
たくさん、いっぱい詰まっていてほしい人なのだ。
一応主婦歴14年余りやっていた中で、
そこは母と違うところだった。
冷蔵庫の中に何もなくなると買物に行くと言う感じだったので、
いっぱいに、壁が見えないほど詰めておくことはしなかったし、
できなかった。
何が入っているかを見渡してわかる程度、
そうじゃないと腐らせたりする羽目になることが常だ。
でも、母は違う。
扉が閉まらないほど詰まっていて幸せを感じる人なのだ。
退院してきてくれて良かったが、やり方の違いが随所にあり、
それがまたお互いストレスで、母との言い争いも増えた。
つまりは、家に男(大黒柱)は2人要らないってのと同じで、
台所に女(女将)は2人要らないってことだ。
2月に入り、だんだんと2人を介護する生活も落着きを取り戻し、
順調に毎日暮らしてきた。
だが、父の具合は一進一退。
今日良くても明日は悪くなる・・・そんな状態だった。
また入院した方がいいのかもしれないと、医者に聞いてみたが
「今度入院したらもう体力の回復が完全にできなくなり、
そのままずっと入院生活になりますよ」
と言われてしまったからには、父もそう簡単に入院したいとは言えなくなった。
胃がん、腸閉塞、脳梗塞、直腸がんと痔、心臓弁膜症。
ここ数年でいろんな病気になった。
特に直腸がんと痔、心臓弁膜症は、体力がなくなっていて手術もできない。
なので人工肛門にする手術も、心臓の弁を豚の弁と取り換える手術もせずに
生きているのだから日に日に弱るばかりだ。
そんな自分の命の燃え尽きる時が迫っているのを感じているのか、
父は「事前計画書」いわゆる遺言書の下書きを書き始めていた。
尊厳死を希望していること、お葬式は家族葬で呼ぶ人は弟妹と近しい友人のみ、
その時皆で好きな歌を3曲歌って欲しいこと・・・
そして最後に「先に行って待っている。感謝している。ありがとう。」と
書いてあったのを、母が見つけた。
ひどく悲しい。
誰もが通る道だとわかっていても、
その時が来たら乗り越えられるのか・・・
自信がない。
そんな毎日を送って2月も終わり、3月となった。
なんて月日が経つのは早いのか。
母は病気ではないから、徐々に回復してきている。
まだ杖はついているしコルセットはしたままだが、
何とか歩いて杖の役割も果たすショピングカートを持って
その辺まで買物に行くこともできるようになった。
普通なら10分かそこらで歩く距離も30分~40分かけて歩いている。
でも82歳、完治するのにもう半年はかかるだろう・・・。
私は日々の生活にいっぱいいっぱいで、
やらなくてはいけない本業もうっかりミスやポケをしてしまい、
悩んだ。
このままいったいどうなっていくのだろうか・・・
神様は試練ばかりを与えてくださるが、
果たしてそれは実を結ぶのか・・・
”乗り越えられる人に試練は与えられる”と言うが、
離婚してこの10年、大きな試練のステージは7回を超える。
もう勘弁してほしいと毎回思う。
でもやってくる。
肩に男並みのいや、それ以上の重責がのしかかる。
いつになったら、穏やかで何も心配せずに、
幸せな日が送れるのだろう。
これから先の10年も私にとっては茨の道のような気さえする。
苦しい時を分かち合う伴侶も今はいないし、
息子にはまだ全然頼れない(頼ろうとは思っていないが)。
将来的には孤独死も覚悟しておかなくてはなぁと密かに思う。
あれ?柄じゃない?(笑)
いや、弱っている時はいろいろ思うものだ。
仕事をしながらでも、自宅を事務所にしているからできることであって、
私が勤めに行くような状態なら、もっと大変だっただろう。
ヘルパーさんを雇ったり、宅食を頼んだりすることになっていたかもしれない。
また、出戻りの身だったからできたことだとも思う。
嫁に行っている立場なら、そうそう戻って来られないし、
夫の方の親の介護をしていたかもしれない。
今、私はそんな時期にさしかかった年齢なのだ。
誰もが通る道なのだ。
あ~忘れていた。
ウチには弟の嫁、長男の嫁、M子がいたじゃないか!
ええ、私が仕事で出かけなくては行けない時、
12月中に2回ほど来てもらった。
(今年になってからは、まだ一度も顔さえ見せてませんが・・・)
でもね・・・(+_+)
その話はまた追々しよう。
やらかしてますから、いろいろ・・・(@_@;)
今日、久しぶりにブログを開いてみたら
コメントやらメッセージやら、たくさんいただいていたことに気が付いて。
びっくりしました。心からありがとうです。
ずいぶん、ご心配をおかけしてたのね。
申し訳なし・・・
お返事はなかなかできないと思う。許しておくれ。
だけど、渦中の最中はどうしても精神的に書けなかった。
暇じゃなかったのもあるけれど、それだけが理由じゃない。
心の余裕をすっかり失くしてしまっていた。
人間って、本当に本当に辛くて大変な時って、
言葉を失う。
「大変だ」とか「大変なのよ」と言えなくなるものなのだと改めてわかった。
言ったところで現状が変わらない。
それもあるが、誰にも頼れないと思う自分の気持ちが
そういうことに向かわせなかったのかもしれない。
でもね、安心してね。
帯状疱疹は治ったし、月に2回のノルマと化しているゴルフだって行っていた。
前の日に次の日の朝食と昼食と夕食を用意して、やることをやっていけば、
大丈夫。
その日一日は、父母に我慢してもらって息抜きをするのが月2回。
父母も日頃我慢していることがたくさんあるからと快く送り出してくれて、
唯一息を吹き返せる日だった。
もし、それさえもできなかったら、私はダメになっていたと思う。
気が狂っていたと思う。
12月は、ラ・ヴィスタ【97(37)】と
ノースショア【104(40)】(サマンサさんが上京してご一緒した)
1月は、ラ・ヴィスタ【108(39)】と潮来CC【100(38)】
2月は、トーヨーCC【98(38)】にラ・ヴィスタ【102(37)】
ちゃんと行っている。
ただ練習は一度も行けないから、
2~3週間空いてのぶっつけ本番ラウンドばかり。
コースレイアウトはトーヨーCC以外は持参して、いつもどおりに( ..)φメモメモ。
ただ行ったってだけで、”ちゃんと”とは言えないけどね(笑)
彼ともそのゴルフの日以外はなかなか会うこともできず・・・
一緒に飲みにもそうそう行かれなかったので、
「ゴルフ友達か!」と言われたっけ。
仕方ないよね~。
さて、お気づきかもしれませんが・・・
そう、ラ・ヴィスタ(^_-)-☆
「勝手にホームコース」になりました。
千葉県でアクアラインで近いし、
白ティからちゃんと6,248YDあるし、
バンカーや池も効いていて、谷越えもあるし、
フェアウェイは広いけど平坦じゃない。
スリリングなコース。
そして宿泊施設も併設しているし・・・
ってことで、少々料金は私にしてみたら高いですが、
今年のホームコースはこちらに勝手に決めちゃった。
ゴルフは、どんなことがあっても、
自分自身ができなくなるまで続ける所存。
また、ちょくちょくと言うわけにはいきませんが、
合間を見つけて更新する・・・かも。
とりあえず、”生きてます”って言うご報告で、
いざ月初の激忙へ突入ε=ε=ε= ヾ(*~▽~)ノ
nontyu
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