坂本龍馬と宮崎駿の鞆の浦聖地(5) | 次世代に遺したい自然や史跡

次世代に遺したい自然や史跡

毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

<坂本龍馬&宮崎監督のカフェレストと番所跡>

今月、金曜ロードショーでは3週連続ジブリを放送中なので、当シリーズ記事を再び投稿する。

いろは丸展示館を出ると宮崎駿監督お気に入りだった深津屋まで戻り、その角を東に折れ、突き当りからは、鞆の浦の風景の一つ、船着場の雁木沿い、つまり海岸沿いを東から南東に進む。

 

小さな住吉神社の先の三差路を北に折れ、右手に数軒過ぎた所の三差路角にあるのが、前回詳しく解説した、海援隊と紀州藩との談判が行われた魚屋萬蔵邸跡兼、宮崎駿監督が各種デザインを手がけた「御舟宿いろは」。

建物は平成19年にリノベーションされているから新しく感じるが、築220年以上の商家である。ここに坂本龍馬や記録係の長岡健吉が来た。一階には龍馬の談判部屋が再現されている。

 

 

 

 

 

魚屋萬蔵(1845~1909)は陶磁器を主に扱っていた商人で本名を木村萬蔵という。田尻村金崎の藤井仁三郎の三男に生まれ、慶応元年(1864)、魚屋を屋号とする木村家に養子に入った。

明治以降、魚屋の建物は雑貨屋や呉服店等に使用されてきたが、平成のある時期から空き家になり、朽ち果てようとしていた。しかし、この歴史ある建物を残したいと、NPOが再生に取り組んでいた際、鞆の浦に滞在していた宮崎監督がこの話を聞き、再生プロジェクトに関わった。

 

 

「新し物好きの龍馬なら、こういうものを好んだはず」と、監督はステンドグラス窓を採用し、そのデザインも手掛けた。

一階はカフェレストランで、二階は旅館。旅館の方は一日二組ほどしか泊まれないため、安くはないが、カフェレストランの方は○○御膳が1,000円台からある。

崖の上のポニョが公開されていた頃は各種ポニョグッズを販売していたが、宮崎監督の各種デザイン・スケッチは今でも店内に飾られているものと思う。→いろは公式サイト

 

 

再び鞆港沿いに戻ると南下する。尾道を結ぶクルーズ船乗り場の奥は一見すると工場の敷地のようにも思えるが、公道なのでそのまま進み、最南端の波止の袂まで来る。この波止は鞆の浦最古のもので、寛政3年(1791)に築かれ、その後、文化・文政年間に延長工事が行われた。

そして波止袂向かいの石段のある石垣上に建つ建物を仰いで戴きたい。現在は「茶房・船番所」というカフェになっているが、この建物は船番所(遠見番所)跡なのである。藩政時代初期、鞆奉行、萩野新右衛門重富によって設置された。

船の出入りや積み荷、上陸人のチェックを行っていたことから、龍馬ら海援隊もチェックを受けたことだろう。

建物自体は昭和30年に建て替えられているが、石垣に当時を偲ぶことができる。

この付近にはポニョの原案聖地と「崖の上」があるが、それは次回。

 

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