坂本龍馬と宮崎駿の鞆の浦聖地(4) | 次世代に遺したい自然や史跡

次世代に遺したい自然や史跡

毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

<高畑勲監督ゆかりの地と坂本龍馬の靴底?>

深津屋から更に南下した所の東側には、同じく商家の建物の「瀬戸内屋大船幸太郎」という店がある。

海産物の販売をする喫茶店のようだが、ここにスタジオジブリの社員旅行時、高畑勲氏を始めとしたジブリの面々が訪れている模様。宮崎駿監督もH邸滞在時、寄った可能性はある。

 

店内には高畑勲氏やジブリ社員一同のサイン色紙や、手製のジブリ・キャラクターの雛人形も飾ってあった時期があるらしい。

 

そこを過ぎた西側には幕末歴史ファンにはお馴染みの「鞆七卿落遺跡・太田家住宅」がある。以前、大崎下島の龍馬関係史跡かロケ地を紹介した際も現地の御手洗七卿落遺跡の住宅を紹介したと思うが、尊攘七卿は御手洗に寄る約1年前の文久3年(1863)8月23日、兵庫を出航した翌日、鞆の浦に投錨している。

   

長州から再び京を目指す七卿は長州藩の挙兵に呼応し、翌年7月18日、再び鞆の浦に寄港、翌日、太田家に滞在し、何人かは、振舞われた保命酒を称えた歌を詠んだ。この4首は明治初期の歌集「竹葉集」に収録されている。

 

 

太田家は元中村家の屋敷で、中村家は明暦元年(1655)、もち米焼酎の漢方薬酒を造り、保命酒として発売した。この酒は養命酒の元になった酒で、高杉晋作等の志士も愛飲したと言われる。

 

 

保命酒は名物故、鞆の浦の多くの料亭や遊郭等で提供されていたため、坂本龍馬も飲んだ可能性は高い。養命酒ほど甘くなく、サラッとした喉越しで、当方も鞆の浦探訪時や通販で購入した。太田家住宅は時間の関係で見学していない。

  

その南方の岸壁には鞆の浦の風景を象徴する石灯籠(燈台)があるが、その前には龍馬ファンが必ず訪れる「いろは丸展示館」がある。龍馬ら海援隊が操船する大洲藩のいろは丸と、紀州藩の軍艦、明光丸との衝突事件もあまりにも有名。

 

 

龍馬らは慶応3年4月19日、鉄砲等大量の積み荷を大坂に運ぶため、いろは丸で長崎港を出港する。いろは丸は全長54m、重量160トン、45馬力の性能。

4月23日23時頃、濃霧の中、備後灘を航行中のいろは丸は六島の南方で紀州藩の明光丸と衝突事故を起こす。明光丸は全長90m、重量887トン、150馬力という大型艦船で、紀州から長崎に向かっていた。

海援隊士が明光丸に乗り組み、責任者を探していると、明光丸は操船を誤り、再びいろは丸に激突してしまう。これが致命傷となり、いろは丸が浸水し始めたことから、龍馬ら乗組員は明光丸に乗り移る。

   

 

 

その後、龍馬の依頼で明光丸船長、高橋楠之助は、いろは丸を曳航して近くの港、鞆の津(鞆の浦)に向かうが、いろは丸の浸水がひどくなってきたため、士官らは共に沈没する危険を回避しようと、高橋の命に背き、宇治島南東沖で曳航をやめてしまう。24日4時頃、いろは丸は沈没してしまう。

6時頃、明光丸は鞆港に入港。上陸した紀州藩関係者は大可島城跡に建つ円福寺を宿所とし、海援隊側にも宿所を斡旋しようとするが、龍馬は暗殺されることを恐れ、辞退し、土佐藩とも取引のあった、いろは丸を所有する大洲藩の船宿、桝屋清右衛門宅を宿舎とした。

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そして25日、紀州藩側が決めた魚屋万蔵邸で海援隊と紀州藩の交渉が行われ、26日には重要事項に踏み込むため、会談場所を福禅寺の対潮楼に移して続行した。

   

しかし両者の言い分が食い違い、決裂。27日、紀州藩側は海援隊に無断で鞆港を出港してしまう。紀州藩側は兵制を一新するため、長崎で洋式銃と汽船を購入する予定だったのだが、この商取引の交渉には期限があったことから、紀州藩側は急いでいたのである。

 

 

 

 

 

が、それを知らない龍馬らは「武士にあるまじき行為」であると、烈火のごとく怒り、長崎の海援隊士に宛てた書簡に「今後の談判によっては、ひと戦争免れず、血を見ざるを得ない」と書き殴ったほど。

龍馬らは28日、下関に向かい、龍馬は三吉慎蔵に自分に万が一のことがあれば、お龍のことを頼むと託した。

5月13日、龍馬らは長崎へ出向き、紀州藩側と交渉を続けるが、土佐藩の重役、後藤象二郎にも加わって貰ったため、海援隊ではなく、土佐藩VS紀州藩という構図になっていく。

 

 

龍馬は国際法「万国公法」を持ち出し、紀州藩側の責任を追及、追い詰められた紀州藩側は薩摩藩士の五代才助に調停を依頼した。そして遂に紀州藩は土佐藩に賠償金83,500両を支払う取り決めがなされ、落着したのである。ただ、その後、賠償額は7万両に減額される。

時は移り、昭和63年、平成元年、平成17年と、海底に沈んでいたいろは丸の水中調査が行われ、数々の遺物が引き上げられた。その中には片方の革靴の底部分もあり、龍馬のものではないか、という者もいる。それらの遺物はいろは丸展示館で展示されているが、館で一番人気は、再現された桝屋清右衛門宅の龍馬の隠れ部屋で座る等身大の龍馬のフィギュア前で撮る記念写真。→紹介サイト

全国の等身大の龍馬の人形や銅像の中では最もワイルドで、昭和49年公開の映画「竜馬暗殺」で龍馬を演じた原田芳雄を彷彿させる。ワイルドだろう?ワイルドぜよぉ。

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