戦闘指揮所が残る海軍中野村聴測照射所跡 | 次世代に遺したい自然や史跡

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毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

<GHQに爆破された壕や聴音機跡も>

先日、日本共産党市議や戦争遺跡保存全国ネットワーク会員の党関係者に会った際、先方から平和資料館・草の家所属の二人の戦跡研究者の名前が出たので、プーチン大統領のような、その二名の虚偽による間接的戦跡普及妨害行為をやめさせ、情報を広く県民に公開(クローズド公開ではなく一般公開)するよう、資料館館長に忠告して貰いたい旨、伝えた。そんなこともあり、今回は予定を変更して、戦争遺跡関連記事を投稿する。

広島市安芸区と東広島市の境界にある大谷山(海軍山514m)周辺には昭和16年、海軍中野村聴測照射所が設置され、呉海軍警備隊が任務に就いていた。戦争中期以降は全国に電波探信儀(海軍レーダー)が設置されるようになるが、まだ戦争初期は郡部の山等へは設置されないケースが多々あり、その代わり、聴音機や探照灯を設置し、防空警戒にあたっていた。

 

この中野村聴測照射所では昭和20年8月6日8時10分頃、原爆を搭載したB-29エノラ・ゲイが広島市方向へ飛行していくのを確認し、中国軍管区司令部等に伝えたが、司令部では今からでは手遅れ、ということで広島市に空襲警報を出すことはなかった。

為すすべもなく、原爆は炸裂した。そこで被爆したものの、翌年復旧して平成まで運行していた電車の一車輌が残っているが、それは大谷山下山後に見学する。

 

中野村聴測照射所跡の特筆すべき点は、窓やドア以外はほぼ無疵で、戦闘指揮所(指令棟)が残っている点。更に聴音機や探照灯の台座基礎、GHQに爆破されたコンクリート造りの退避壕の残骸等も放置されている。

大谷山は標高514mと言えども、駐車場所の標高が300m弱ほどあるので、登頂は容易。各戦争遺跡には看板も設置され、登山道もある程度整備されている。

 

整備を中心になって推し進めたのは、叔父が聴音機を呉海軍工廠で組み立てていたという地元の方。前述の草の家の二人の戦跡研究者は、この方の爪の垢を煎じて飲むと共に、視察に出向いて欲しい。

因みに「中野村」は地元の旧村名ではなく、隣接していた旧村。これはカムフラージュのためだと言われている。

登山道や道標が整備された直後は、「海軍山登山道案内図」が建てられている所の向かいに駐車場が構えられていたが、現在、害獣除けネットが一帯に張られているため、駐車は不可。それでも狭いものの、登山口に近い所の路肩に駐車スペースはある。

 

登山コースは大谷山近辺の各戦跡を巡り、尾根続きの東中野山(470m)、三本山(459m)を縦走回遊できるようになっている。当方もその順に回遊しようと思っていたが、途中の分岐に設置されていた指導プレートが風か何かの影響で、正規コースではない道の方向に向いていたため、何割かの戦跡を辿ることができず、大谷山を往復するだけになり、油脂庫のあるエリアを探訪することができなかった。

この日も宿泊するのであれば、引き返して正規コースを辿ったのだが、帰りのフェリー(山口県)の時刻に間に合わせる必要があった。

コースを誤らないためにも、前述のコースとは逆の三本山、東中野山、大谷山の順に回遊した方が良い。該当地形図は中深川。

当方が辿った順に戦跡を紹介すると、大谷山山頂の北方に聴音機跡がある。直径十数mの擂鉢状窪みの中心部にボルトが付いたままの直径70cmほどの聴音機台座基礎が残っている。

山頂から東中倉山に伸びる尾根の分岐は分り難いが、その辺りに戦闘指揮所がある。窓やドアはなくなっているが、それ以外の保存状態はそこそこいい。屋根は由良崎防備衛所兵舎のように、擬装のため、土が盛られている。

その南西下は大規模に掘り下げられ、削平されており、兵舎、烹炊所、風呂場、変電棟等の基礎、貯水槽等が残置している。この削平地と戦闘指揮所の間の道を下っていけば、油脂庫のあるエリアに行けるが、途中の分岐で、左の道へ誘導する矢印には従わないように。

当方はその削平地から南西に上がり、上水貯水槽を経てまた山頂部の一角へ上がった。その付近には、聴音機跡の擂鉢状窪みを一回り小さくしたような、探照灯跡の円形窪みと直径70cmほどの探照灯台座基礎がある。

 

更に北東に進むと管制塔跡の平地やGHQに爆破されたコンクリートの退避壕がある。原形を留めてないので詳細は不明だが、以前紹介した足摺半島の機銃陣地近くに残るような、かまぼこ型壕だったのかも知れない。

当方が辿ったコースのマップやガイドは→指令棟が残る海軍山

下山後はまた山陽自動車に乗り、広島市安佐南区の沼田PAスマートICで降り、ヌマジ交通ミュージアムに行った。ここの無料エリア内に前述の被爆電車が展示されている。

 

外観を見ただけでは、被爆した電車とは分からない。この広島電鉄650形654号車輌は昭和17年10月に製造され、路面電車として市街地を走っていたが、昭和20年8月6日、江波付近を走行中に原爆により大破した。

それでも翌年2月に復旧、平成18年6月まで、改造を重ねながら走っていた。これも立派な戦争遺跡。

余談だが、ヌマジ交通ミュージアムは一階ロビー部も無料で、そこにはコスモスポーツや1970年、東京モーターショーに出展されたコンセプトカー、マツダRX-500等が展示されている。

ミュージアムショップでは1/43のコスモスポーツのミニカーが3,850円ほどで販売されていた。しかし「帰ってきたウルトラマン」仕様のコスモスポーツは価格が4倍ほどに跳ね上がる。

尚、被爆電車は内部を公開している日がある。またミュージアムでは過去、ランボルギーニ・イオタの実車を展示したこともあった模様。もう一度展示を。いや、是非とも四国自動車博物館で展示を!その方がイオタに相応しい。→ヌマジ交通ミュージアム公式サイト

一泊二日で広島の戦跡と被爆電車を訪ね、四国自動車博物館にイオタ展示を嘆願したい、という方は下のバナーを是非。