大正期の土佐十景・大国山碑と加茂山のハイジのブランコ | 次世代に遺したい自然や史跡

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毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

<飲み水適合の大国山の真清水等>

2011年投稿の当ブログの記事を読んだと思われる、県外在住の市議(在地での)が、土佐十景の大国山とは、いの町の椙本神社北西背後の山中にある「大国山配水池」の所ではないかと推測していたが、当方もその配水池の存在は’00年代初頭、住宅地図で確認していた。因みに現在、配水池のタンクは撤去されている。

しかしそこには100%、土佐十景碑がないことは分かっていたから、最近まで現地を訪れることはなかった。碑は200キロ以上ある自然石碑故、そんな山上に運搬することは困難。基本的に十景碑は車道の近くに設置されている。

そこで注目したのは、以前も触れた、ネットに数枚が公開されていた「土佐十景写真帖」(大正15年発行)の写真。その中に椙本神社によく似た神社が写っていたのである。

 

現在ある狛犬がなかったりと、一致しない点はあるものの、「甲殿住吉」の十景碑も住吉神社境内にあることから、もしや、と思って先月、椙本神社を訪れると案の定、拝殿前の隅に「大國山」と刻字された十景碑があった。

裏面には「神垣の杉のみどりのとことはにたち 栄ゆらん大國の山」と刻まれている。つまりこれは、大国山は椙本神社の社叢であることを意味している。大国山は、それ自体が観光地なのではなく、椙本神社のロケーションとして十景に選ばれた、ということである。

境内には大木もあり、また、境内の岩の間が湧き出る水は昔、「大国山の真清水(ましみず)」として知られ、現在でも水質検査で飲料水として適合、という結果が出ている。

大国山は山名ではなく、椙本神社背後の森一帯を指す地名だが、念のため配水池跡(上の画像)に登ってみた。神社の駐車場からも登れるが、十景碑を確認後、境内のトイレ奥からのコースを登った。

このコースはすぐ、バス停「仁淀川橋東詰」の東から上がってくる加茂山(261.3m)の登山コースに合流する。配水池のあった所は標高60m位の地ではなかったかと思うが、そこには斜面を掘下げて整地した広場があるだけ。山のピークでもなければ、展望もない。何のためにここまで登ったのか分からない。そこで16年ぶりに加茂山に登ることにした。

墓地を通り抜け、西下が植林帯の箇所に来ると、驚くことに二階建て(中二階があるから厳密には三層)のログハウスとツリーハウスの中間のような建物がある。これは70代の地元の方が、加茂山登山者の休憩所になれば、と思って一人で建てたもの。展望はないものの、仁淀川から吹く風が心地いい。

途中、地形図に記載の破線道に合流するが、ほどなくして離れる。破線道は尾根を直登しているが、整備されたコースは登り易いよう、西に迂回して鉄塔巡視路に合流する。

このコースは地形図で見る限りは、槙橋コースよりきついような印象を受けるが、思ったほどではなかった。短靴でも極端に疲労感を覚えることはない。

山頂広場や展望台は16年前と変わらず、抜群の展望を誇り、仁淀川沿いから太平洋まで見通すことができる。変わったことは、「ハイジのブランコ」が設置されていたこと。

大分県佐伯市のハイジのブランコは以前紹介したが、展望のいい箇所にある大型のブランコや手造りブランコを俗にこう呼ぶ。

隣に掛けられているロープの輪っかには、間違って首を掛けないように(そんな者はおらん)。

東方の第二展望所のあるさつき公園にも寄ってみた。ここにはこの16年の間に鯉のぼりやターザンロープの遊具等が設置された。今年のさつきの見頃は4月上旬だったようで、花は三輪ほどしか残ってなかった。

 

帰路は椙本神社には下りず、「仁淀川橋東詰」バス停の東に下りたが、登山口手前の階段横に、門のある二階建ての廃屋があった。流石に高齢になるとこの階段の上り下りはきついはず。

加茂山は旧伊野町屈指の景勝地であるため、「土佐の商売の神様」椙本神社参拝時は登ってみては如何か。尚、今回、加茂山に登る際、椙本神社の社務所に断って駐車場を利用させて貰ったが、土日なら少し離れるものの、役場の駐車場に駐車することもできる。

コースの概略図は椙本神社の駐車場入り口に設置されているが、ヤマケイの「高知県の山」(最新版は未確認)等を見て予習しても良い。今回のコースは山中各所に道標が完備されている。

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