《慶応3年ではなく嘉永3年時では》
坂本龍馬が須崎市の発生寺その他で地元の尊攘派と交流していた際の宿泊地として、拙著等では、才谷屋と取引があった黒岩家を挙げたが、他にも旅籠・富山屋に滞在伝承がある。
拙著出版時にはこの情報を得ることはできなかったが、2010年代に入り、情報を得た。富山屋は拙著で触れた、よさこいのお馬が面縛刑に処されていた眼鏡橋(当時の橋名は糺橋)袂にあった。現在の菅野医院の敷地である。
地元では龍馬が富山屋に泊ったのは、龍馬が土佐藩に新式銃一千丁を売却した後の慶応3年10月上旬と見ている。人目を避けるため、黒岩家ではなく、多くの人の出入りがある、黒岩家とも親交があった富山屋を選んだのではないか、ということなのだが、果たしてそうなのだろうか。
龍馬の富山屋滞在伝承は、年月が特定されていないから、推測するしかない。前述の説では「人目を避けるため」ということだが、確かに龍馬の唱える大政奉還に反対する者らが土佐藩にもいた。武闘派の板垣退助らである。
しかしこの時の新式銃売却の功績は山内容堂公にも認められ、大義料として龍馬は50両賜っている。大量の武器購入自体は武闘派も喜ぶはず。果たして宿泊所を変更してまで身を隠す必要があったのだろうか。
もっと自然に考えたらどうだろうか。富山屋は土佐西街道沿いにある。西街道と言えば、龍馬が嘉永3年の16歳時、四万十川の堤普請の現場監督補佐として四万十市中村へ赴く際、歩いた道。この時、ドランクドラゴン塚地武雅の先祖邸前も通った。
龍馬の自宅のある高知市から須崎市までは直線距離で約30kmだが、いくつもの峠があり、道はくねくねと進んでいたから、実質的な距離ははるかに長い。つまり、龍馬が四万十市に赴く際の初日の宿泊所が富山屋だったのではないか、ということ。この推察が自然である。
因みに前述の糺橋は、元々木造橋だったが、明治34年、石造のアーチ橋になり、その形状から「眼鏡橋」と改称された。
その後、昭和56年、交通量の増加に伴い、道幅が拡幅され、コンクリート橋となった。
後年、更に改修され、下を流れていた堀川の流れも殆どなくなり、橋も消えた。現在、堀川沿いは「川端シンボルロード」として散策道になり、冬にはイルミネーションが灯るようになった。
眼鏡橋跡の東には平成5年、明治34年時の橋の石材を用いた眼鏡橋が復元された。今、早咲きの桜がその橋の周りを彩っている。
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