<旧弘化台と厳島は入れ替わったのか>
当ブログでは過去、触れたかどうか忘れたが、高知市弘化台のすぐ東の国分川内には、周囲を石垣で覆われた謎の人工島がある。干潮時なら堤防から上陸できる、猫の額ほどの島である。
古地図の中には、この島の側に「玄夫島」、或いは「黒磯」と表記されていることから、それが島名だと思い込んでいる者もいるが、黒磯は玄夫島の別称で、その人工島の東の白い石がいくつか立つ磯を指す。満潮時には陸地が水没し、白い石だけになり、よく白鷺が翼を休めている。
川なのに「磯」とは奇異に感じるかも知れないが、埋立地である弘化台が造成されるまで、この地は国分川ではなく、浦戸湾だった。尚、今の弘化台は正確に言えば「新弘化台」或いは「二代目弘化台」となる。
前述の人工島については’00年代半ば、旧デジモリでブログをやっていた頃、記事を投稿したことがあるが、昭和21年から47年まで、現在南国市にある銃砲製造企業「ミロク製作所」が捕鯨砲試射場として使用していた。この会社の前身の会社を興したのは鉄砲鍛冶の流れを汲む弥勒武吉。だから当方はこの島を「弥勒島」と仮称している。
島の東端にある半円形のようなコンクリート台座が捕鯨砲台跡で、北西隅にあるコンクリート造りの建物は、各種機材の保管庫だった。「ミロク砲」は世界に名を馳せた日本を代表する捕鯨砲だったのである。
しかし昭和21年より前、この島がどのように使用されていたのか、来歴や島の名称等、ミロク製作所に問い合わせても分からなかった。が、幕末には既にこの島が誕生していたことは分かっている。
それは画人・橋本小霞が幕末に製作した「吸江図絵」に描かれているからである。尚、高知市教育委員会が発行したある冊子には、吸江寺下方にあった呑海亭の石垣を近代、移設して弥勒島を造成した旨の記述があるが、吸江図絵には弥勒島と呑海亭、両方が描かれているから、その説は誤りである。
この吸江図絵は近年、所有者である高知県立図書館がデジタルライブラリーで高解像の画像として公開したが、それを見ると弥勒島誕生の謎を解く「カギ」が見えてくる。
画像をズームアップして見ると、島の上には稲のようなものが描かれており、周囲に注連縄のような物が張られている。そこで笠を被り、蓑を着用した者が何らかの作業をしている。但し、降雨のため、笠や蓑を着用している訳ではない。それは日除けのためである。
この光景は神饌の米を収穫する神田での作業を彷彿させる。しかし、こんな小さな島の上で稲を育てるのはあまりにも不効率。もし神田だとすると、ここに神田を作る必要性のある神社が側にないと可笑しい。
そこで考えられるのは、すぐ西にあった旧弘化台に鎮座していた厳島神社である。現在の弘化台が造成される前、そこには東西に並ぶ二つの島があった。
東側の島が弘化台(旧弘化台)、西側の島が厳島である。厳島の西には現在もある丸山台が浮かんでいた。そして丸山台に此君亭(料亭)の支店があった頃のある時期、丸山台と厳島は橋で繋がっていた。
ただ、ここで疑問が残る。なぜ厳島ではなく、弘化台に厳島神社があるのか。この謎を解くカギは河田小龍が明治11年に作成した「高知市街全図」にあった。この地図では、他の地図で弘化台と表記されている島に「厳島」と表記され、厳島の所に「弘化台」と表記されていたのである。
河田小龍は高知城下出身で坂本龍馬にも影響を与えた文化人。県内外で多数の地図を制作している。地元の島の名を間違えるはずがない。しかし大正14年発行の「高知市図」以降の地図では、前述の島名の表記が逆になっている。
これから推察すると、何らかの事情で明治中期以降、二つの島の名が入れ替わった、ということが考えられる。全国的に見ても隣接する二つの島や地域の名称が入れ替わることは珍しいことではない。
明治11年の地図では二つの島は陸続きになっているが、この辺りは干潮時、白鷺洲という浦戸湾最大の干潟が出現していた。満潮時は、島は離れていたはず。
しかし二つの島とも小さい故、神田を作るスペースがなかった。だから、干潮時は白鷺洲の中でも特に陸地らしい陸地が現れる玄夫島の西側、つまり、旧弘化台(旧厳島)と玄夫島の間に神田を作るための島を造成したのではないだろうか。石垣は水漏れ防止のためか。
因みに「新弘化台」の高知中央卸売市場管理棟横には、「弘化厳島神社」が祭られている。
皆さんも機会があれば干潮時、弥勒島に上陸されたい。
上陸して往時を偲びたい、という方は下のバナーを。