偽龍馬の写真を撮影した丸亀藩士邸跡 | 次世代に遺したい自然や史跡

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毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

矢野道場師範と疑惑の来訪者

10年以上前に得た情報だが、昭和後期、出版された坂本龍馬全集・改訂版(宮地佐一郎編著)に、文久元年(脱藩の前年)香川県丸亀市に於いて、矢野(市之進)道場指南役・原吉雄と龍馬、及び原敬なる人物と龍馬が写ったとされる2枚の写真が掲載されていた模様。

 

ただこの写真、龍馬研究家や龍馬ファンなら、そこに写っているのは「偽者の龍馬」だということが一目で分かる。龍馬とは顔の輪郭や顔つきが明らかに違うからである。

 

しかし高知市の龍馬研究会は機関紙の創刊号で、龍馬生誕150周年の「目玉研究成果」として、堂々と新たに発見された龍馬の写真ということで発表してしまった。今の龍馬研究会ならあり得ないことだが、会の草創期故の未熟さからくるものだろう。

 

龍馬研究会が赤の他人を龍馬だと断言した訳は、複数の原吉雄の一族子孫が二枚の写真に写る人物を龍馬だと証言している事実や、写真の裏書に「坂本龍馬」と明記してあったことによる。

 

原吉雄(一枚目古写真右側)についてはある程度明らかになっている。龍馬が文久元年10月に矢野道場(下の地図)に行った際の道場主・矢野市之進(古文献では「市之丞」と誤記)の跡を継いだ師範である。因みに市之進の子息は道場を継いでいない。

 

原敬については存在が文献上では確認できないが、吉雄の親類かも知れない。若しくはこの写真(焼き増し等)を何らかの方法で入手した原一族子孫以外の者が、「有名人写真」を捏造するため、「偽龍馬」と第19内閣総理大臣「偽原敬」が写った写真として、吹聴していたのかも知れない。

 

この二枚に写る三人は皆、ポーズや表情が同じ故、同一撮影者による撮影であることが分かる。撮ったのは丸亀藩士・百々主計とされている。幕末、長崎でオランダ人技師から撮影技術を習得している。帰藩してから明治期に「百々香影」という写真館をオープンした。

 

撮影時期は明治期だろう。それは原吉雄が道場の指南役の頃故。「指南役」は「師範」と同義。明治元年時、市之進はまだ38ないし39歳故、没した明治19年に吉雄が道場の最高指導者である師範になったとみるのが自然だろう。

 

百々主計は丸亀城の内堀沿いに屋敷を構えていた位だから、馬廻役クラスの上士だろう。藩費で購入した写真機を使い、明治になって写真館を開業したのではないだろうか。

百々邸跡(下の地図)には龍馬と会った矢野道場師範が訪れていることから、龍馬の間接的史跡と捉えることができよう。

 

百々主計邸跡は矢野道場跡から比較的近い場所にある。丸亀城北にある大手前中学・高校の正門周辺からその西の敷地にかけてが跡地。この斜め向かいの内濠の形状が特徴的だから同定はし易い(藩政時代後期の絵図の複製を所有しているため)

 

尚、矢野道場跡についてだが、数年前、地元のNPOが法務局に残る昭和28年当時の旧土地台帳を調べ、正確な跡地を同定している。

 

それによると、拙著や当ブログで紹介した跡地からは一軒半ほど北にずれており、三井住友海上丸亀ビルの地になっている。しかし法務局で跡地を同定する方法は今まで思いつかなかった。役所の個人の土地台帳は個人情報保護の観点から調べることは不可だが、法務局の企業関連の書類なら閲覧可能。

 

丸亀ビルの玄関右手(上の写真右側)にはそのNPOが設置した矢野道場跡の看板があるはずだったが、見当たらなかった。また、拙著で解説している幕末史跡(見付屋跡や村岡邸跡)以外の幕末史跡についても、そのNPOが公開しているもので看板が残っているものは一つだけだった。

 

矢野道場跡の所在地がずれると、当然、龍馬と交流したことが想像される土肥大作邸跡も北にずれることになる。丸亀ビル南の駐車場の南寄りからアットビルにかけてが跡地(上の写真)ということになる。土肥は藩の密命を受け、各地で尊攘派や佐幕派の情勢を伺っていた。

 

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