坂本龍馬の海軍塾書生寮跡の区画(神戸市) | 次世代に遺したい自然や史跡

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毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

[海軍塾書生の雄姿を追って]

前回解説した兵庫県神戸市中央区の海軍塾跡と同様、坂本龍馬の有名伝承地の中で跡地の正確な場所が研究家によって諸説あるものがある。それはそのすぐ近くにあった海軍塾書生寮跡。龍馬ら、後に海援隊士になる浪士たちも宿舎としていた施設である。

 

文久3(龍馬脱藩の翌年1863)9月、神戸海軍塾が開設され、龍馬ら約90名の勝海舟の塾生は大坂から移ってきた。塾舎や関連施設の建設費用に、龍馬が松平春嶽から借金した五千両の何割かが充てられたことは周知のこと。書生寮の建物は、大坂舟手組の蔵を解体して建築された。

 

ここで龍馬ら塾生は洋式操練の知識を習得し、海軍操練所設立に奔走する。そして翌年の元治元年529日、操練所が開設されると共に修業生が募集され、元々の塾生と併せて300名ほどの書生規模となった。

 

「神戸開港三十年史」(明治31年発行)では書生について「高履を穿ち、漢詩を高吟し、長劔横たへて神戸の市中を闊歩すと雖(いえども)、品行方正、曽て市人の畏怖する所とならず、寧(むし)ろ無頼の痴漢、酔狂の暴人あれば、頼みて以て安きを致せり。彼等は確かに間接の市中取締たりき。」と記している。

 

そんな警察的役割も果たしていた書生たちだったが、同年65日に起こった池田屋騒動に書生の土佐浪士・望月亀弥太が関わっていたことが幕府の中で問題視された。池田屋に集結した浪士たちは京の町中に放火し、その騒動に乗じて天皇を長州へ連れ去る計画を立てていたとされているからである。

 

更に7月、京の御所に攻め上って「禁門の変」を起こした長州軍の忠勇隊(拙著参照)にも、書生の土佐浪士、安岡金馬が海軍塾から測量器を持ち出して参加していた。海舟は黙って金馬に白地の筒袖を渡して別れをしたという。

 

そのため海舟は1012日、江戸に召喚され、軍艦奉行を罷免された。操練所も元治23月、閉鎖されたのである。

その後、龍馬は長州や薩摩で活動するようになり、薩長同盟締結に向けて奔走するのである。

 

書生寮跡についてだが、昔の絵図を現代の住宅地図に落とし込むと大体、神戸市中央区三宮町一丁目二番の西端、大和証券神戸支店の南半分位とその東隣の東洋カーマックス神戸三宮パーキング西寄りの南半分位から、その南の一方通行路が東西に走る互い違いの四差路辺りまでとなる。旅行や史跡関係のサイト等の中には、この場所からかなり離れた地を跡地として表示しているものもあるが、それは誤りである。

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