坂本龍馬が訪れた幡多郡奉行所 | 次世代に遺したい自然や史跡

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毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

[坂本龍馬の逸話を伝えた文筆家]

過去何度も触れた、嘉永3年の龍馬が16歳時、高知県四万十市の四万十川堤普請の現場監督補佐として出張した際の伝承地についてだが、「龍馬昼寝の松跡(並松)」の他にもう一つある。幡多郡奉行所内の「御普請方」である。

 

幡多郡奉行所はかの幡多勤王党首領・樋口真吉も下役として勤務していた藩の出先機関。その奉行所内で真吉と龍馬が出会ったという説もあるが、これは誤り。記録では真吉が幡多郡奉行所下役を仰せつかったのは嘉永7213日付となっているからである。

 

御普請方とは今でいう役所の土木課で、五人の組頭級役人が担当していた。堤普請で出向いた龍馬とその同行者、島文左衛門は当然、着任の報告の他、中村滞在中は何度か顔を出すことになる。

 

嘉永3年時の真吉の記録については、119日に長崎から帰国したこと位だが、弘化2年から真吉は幡多郡奉行所に附属させる藩校「文武館」の建設に奔走していた。文武館が開校したのは安政268日で、真吉は文久元年、稽古世話役兼教授方証拠役となっている。真吉の弟・樋口甚内も剣道指南役に就いていた。

文武館はその後、「敬止館」と改称。明治になると「行余館」となり、明治5年、学制発布により中村小学校となった。

 

幡多郡奉行所跡の一角、中村拘置支所前に奉行所跡碑が建立されているが、跡地は北側の中村中学・高校の校地にも及んでおり、拘置支所宿舎南側に奉行の役宅があった。

その南方の菊池産婦人科駐車場に行余館跡碑(上の写真と下の地図)が建てられているが、跡地は郵便局車両駐車場、中村招魂社、中村大神宮境内にも及ぶ。真吉邸跡はそこから南に徒歩数分の所にある。

 

ところで以前、龍馬のこの幡多での現場監督補佐伝承について、大正3年に発行された千頭清臣著「坂本龍馬」に記述されている文章「工夫(土木作業員)、龍馬が人を役するの妙を賞して曰く『坂本の旦那に使はるる時は何の苦も無く仕事が運ぶ。其の代り、仕事終はれば、疲憊して五体が効かぬ。』」を紹介したのではないかと思うが、この口碑を世間に広めたと思われる人物が判明した。

 

龍馬の生まれたまち記念館の学芸員の方から教示された資料、昭和421021日の南国新聞にも同様の記述があった。それは文筆家の丘佐喜子(本名・岡崎輝)が故郷の中村について綴った随筆の中にある。小さい頃、母や伯母から聞いた話として、前述同様の人夫の言「どうも坂本さんに使はれると、いつのまにやら平生の二倍三倍働いちょる。」を載せているのである。

 

但し、佐喜子の母・小野英子(ふさこ)は嘉永4年の生まれ。伯母も嘉永3年時は幼少のはず。これは英子やその姉が父親から龍馬の逸話を聞かされていた、と解するのが自然。その父は真吉に従って各地を飛び回り、国事に奔走していた志士でもあったことから、後に有名になった龍馬が若かった頃の伝承を娘たちに聞かせたのだろう。英子の夫・小野道一はその志士の門弟であり、真吉の道場(上の写真)にも通っていた。

 

この父、実は京に於ける幕末のあるヒーローを捕らえて斬首する決定を下したのだが、そのことはまた後日投稿したい。

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