400mハードルのミスタージャパン「為末大」
- 2011/06/20(月) 12:48:10
「為末 大(ためすえ だい)」さんは、400mハードルの日本記録保持者。
世界選手権にてトラック種目で日本人初となる2度の銅メダル獲得。
3大会連続オリンピックに出場した陸上選手。
“侍ハードラー”の異名を持ち、“陸上宣伝部長”として競技のPR、普及にも貢献。
2006年9月にクイズ$ミリオネアで1000万円を獲得。
それを元手に翌年春、東京丸の内で東京ストリート陸上をプロデュース。
また「陸上競技の魅力をより多くの人に知ってもらいたい」との思いから、全国各地の小学校で様々な種目の選手と共に実演するイベントも企画。
2008年、北京オリンピックに出場し、一次予選落ちしたが、「ボロボロになっても、行ける処まで走りたい」として、2012年のロンドンオリンピックを目指して現役を続行。
1998年、日本学生選手権400mH優勝(以後3連覇)
1999年、ユニバーシアード代表に選出され出場。
準決勝進出を果たす。また、日本選手権400mHでは準優勝。
2000年、日本学生選手権で48秒47の日本学生新記録を樹立し、シドニーオリンピック代表に選出され、入賞が期待されたが、予選で先頭を走りながら終盤で強風にあおられて9台目を引っ掛け転倒し、準決勝進出を逸した。(選手生活で転倒したのはこの1戦のみ)
2001年、カナダ・エドモントンで開かれた世界陸上の400mHに出場し、準決勝で48秒10の日本新記録を樹立。
決勝ではさらにタイムを縮め、47秒89という驚異的な日本新記録をマーク。
フェリックス・サンチェス(ドミニカ)・F・モーリ(イタリア)に次ぐ3位に入り、五輪・世界選手権を通じて日本人初の短距離種目の銅メダル獲得の快挙を成し遂げる。
日本選手権では初優勝を果たす(以後2005年まで5連覇)。
2004年、アテネオリンピックに出場。残念ながら準決勝敗退。
2005年、世界陸上ヘルシンキ大会の400mハードルで再び銅メダルを獲得。
豪雨であったが、豊富な経験を元に冷静さを失わず中盤までトップ。
終盤でかわされたが48秒10のセカンドベストをマークし銅メダルを獲得。
こぶしを突き上げて男泣きし、一躍時の人となった。
2007年、世界陸上選手権(大阪)400mHで予選敗退。
2008年、日本選手権に出場し、400mHを49秒17で優勝。
A標準記録を突破し北京オリンピック代表に選出。
現在も2012年ロンドンオリンピックを目指し奮闘中。
砲丸投のミスジャパン「森千夏」
- 2011/05/24(火) 12:55:04
「森 千夏(もり ちなつ)」さんは、日本の陸上競技選手。
女子砲丸投日本記録保持者。日本記録を7回も更新。
日本史上最高の女子砲丸投選手。
東京オリンピック以来40年ぶりに砲丸投でオリンピックに出場するも、病魔に倒れ、26歳の若さで逝去。
中学校時代から砲丸投を始め、全日中で活躍。
1998年、丸亀インターハイ女子砲丸投で優勝。
1999年、大学に入学し、アジアジュニア選手権で3位に入り銅メダル獲得。
2000年、16m43の日本新記録を樹立。
アジア選手権では準優勝。
2001年、日本選手権で初優勝。
2002年、浜松中日カーニバルで17m39の日本新記録を樹立。
釜山で開催されたアジア大会に日本代表として出場し5位に入る健闘。
2003年、スズキに入社。(同期入社には北京オリンピック女子走幅跳代表の池田久美子さん)
入社直後の兵庫リレーカーニバルで17m53の日本新記録を樹立。
同年日本選手権で2回目の優勝。
日本人女子砲丸投選手として初めて世界選手権代表に選出。
2004年、18m22という驚異的な日本新記録を樹立。
日本選手権では2年連続優勝。
オリンピック参加標準記録を突破し、アテネオリンピック代表に選出。
アテネ五輪代表決定の直後から体調に異変を感じ始め、満足な練習ができないまま五輪本番をむかえ、あえなく予選落ち。
帰国後入院し、膀胱炎との診断。
2005年夏、開腹手術に踏み切ったが、悪性の腫瘍が取り除けず。
2006年4月、虫垂がんに冒されていることを公表。
虫垂がんは非常に症例が少なく、効果的な治療法が明らかになっていないうえに、治療が保険適用外であり、莫大な治療費が必要であったため、母校や日本陸上競技連盟などが募金活動に乗り出し、選手仲間や親交のあった阪神タイガースの下柳剛投手らも大会等で支援を呼びかけ。
しかし、2006年8月9日午前10時36分、東京都内の病院で虫垂がんで死去。(26歳の若さ)
12日の葬儀では、池田さんや為末さんの他にも室伏広治さん、醍醐直幸さんら1500人もの人が参列。
競技のレベルアップにも熱心で、中国の体育学院に短期留学を繰り返すなど、陸上界きっての中国通として知られ、頻繁に中国で合宿。
あまりにも早すぎる死が惜しまれる。
プロレスのミスジャパン「ジャッキー佐藤」
- 2011/04/21(木) 13:46:12
「ジャッキー佐藤(じゃっきーさとう、本名:佐藤 尚子(さとう なおこ)」さんは、日本女子最強の元プロレスラー。
1975年3月に高校を2年で中退し、全日本女子プロレスに入門。
デビュー戦は同年4月27日のマキ上田戦。
1976年2月24日にマキとビューティ・ペアを結成し、WWWA世界タッグ王座を獲得。
ビューティ・ペアは「かけめぐる青春」「真赤な青春」「青春にバラはいらない」などの曲が大ヒットする「アイドル」的存在で、試合の観客席はファンの女の子たちで満員。
当時のビューティ・ペア人気は凄まじく、試合前のリングで歌を披露する際はリングに紙テープや紙吹雪が沢山。
1977年11月1日にはマキが持つWWWA世界シングル王座に挑戦。
この試合はビューティ・ペア同士の対決として注目され、互いに譲らず60分時間切れ、判定でタイトルを獲得。
1979年2月27日には「敗者引退」という過酷なルールでのマキとの再対決は48分7秒、エビ固めで勝ち、マキは引退、ビューティ・ペアに終止符。
この頃、全日本女子プロレスではミミ萩原を持ち上げ始め、人気が低迷し始めたビューティの二人を引き裂くコロ合いだったとの噂も。
マキ引退後はモンスター・リッパーにWWWA世界シングル王座を奪われるも奪還。
1981年2月25日のジャガー横田戦で同王座から転落。
1981年5月21日に引退式。
その後新団体「ジャパン女子プロレス」の設立に参加。
1986年8月17日、対神取忍戦にて現役に復帰。
しかし、団体内トラブルにて神取との確執が発生し、壮絶な死闘を繰り広げ、1988年3月20日での試合を最後に引退。
・第24代、第26代、第28代WWWA世界シングル王座
・第63代、第65代WWWA世界タッグ王座(パートナーはマキ上田)
・第67代WWWA世界タッグ王座(パートナーはナンシー久美)
引退直後の1988年には体操教室の会社「ジャムナ」を設立。
スポーツプログラマー、ヘルスケアトレーナーの資格を取得し、中高年女性を中心に自らが考案した「ジャムナ体操」を教示。
1999年8月9日、胃癌のため死去。(41歳)
ジャッキーは死ぬまで自分の病名をマキには伝えず、マキはそのことについて「哀しいけど、いつまでもライバルとして見ていてくれたことが嬉しい」と談話。
後輩ナンシー久美とは最期まで私生活でも仲がよく、ナンシーはジャッキーの兄弟と共にジャッキーの看護・死後の諸々の後始末を。
フェンシングのミスタージャパン「太田雄貴」
- 2011/03/09(水) 12:42:16
「太田 雄貴(おおた ゆうき)」さんは、日本を代表するフェンシング選手。
高校時代にフェンシングをしていた父の勧めで小学3年生からフェンシングを始め、小、中学とともに全国大会を連覇。
サッカーや野球をやっていた同級生にフェンシングの全身タイツを馬鹿にされとことも。
高校時代には史上初のインターハイ3連覇を達成し、高校2年の時には全日本選手権で優勝。(2009年3月現在最年少記録)
2004年3月の韓国国際大会で8位入賞を果たすとその後も確実に上位に進出してアテネオリンピック出場権を獲得。
アテネオリンピックでは3回戦でロシアのGANEEV Renalに敗れ、9位。
2006年、カタール・ドーハで開催されたアジア競技大会では、準決勝で2005年の世界選手権2位の張亮亮(中国)を破る大金星を挙げ勢いに乗り、決勝では李天雄(韓国)を破って優勝。
フェンシング男子フルーレ個人では1978年バンコク大会以来28年ぶりとなる金メダルを獲得。
2008年、北京オリンピックフェンシング男子フルーレ個人に出場、日本人選手初の決勝戦へ進出。
8月13日の決勝戦ではベンヤミン・クライブリンク(ドイツ)と対戦し9 - 15で敗れるが、日本フェンシング史上初の五輪メダルである銀メダルを獲得。
北京五輪当時の所属クラブである「京都クラブ」は、大学卒業後もフェンシングの練習に専念するため就職しなかった関係で、自らが発足させたクラブ。(所属選手は太田さん1人)
銀メダル獲得直後のインタビューで「就職先募集中」と語っており、大学院に進むことも示唆していたが、複数のオファーの中から、高校時代からサポートを受けていた森永製菓に2008年11月1日入社。
2009年4月より、森永製菓所属のままフランスのフェンシングのクラブチーム「エクス=アン=プロヴァンス」に期限付きで在籍。
渡仏2戦目となる4月5日の「ルブニュー・チャレンジ」で同チーム加入後初優勝。
決勝では北京五輪で敗れたクライブリンクを破って優勝。
5月、日本選手で初めて国際フェンシング連盟ランキング1位。
同年6月にフェンシング・ワールドカップのハバナ(キューバ)大会で5年ぶりの優勝。
今後の活躍にも期待大。
バスケットボールのミスジャパン「生井けい子」
- 2011/01/17(月) 12:49:35
「生井 けい子(なまい けいこ)」さんは、栃木県出身の元バスケットボール選手。身長176cm。
伝説の日本女子バスケットボール史上最高の選手。
中学校2年でバスケを始め、高校を経て、日体大へ進学。
卒業時に複数の実業団から誘いを受けるが、それを断り続けコーチとなる。
他の日本代表選手が高いレベルで練習を重ねる中、彼女は所属チームすら持たずに学生相手に練習をするという変り種。
しかし全日本のメンバーに選手として選ばれ活躍。
1974年のテヘランアジア大会での韓国との決勝戦にて、タイムアップ寸前にシュートを決めて逆転優勝。
翌年の世界選手権では127得点をあげて、日本準優勝に貢献。
MVPと得点王をダブル受賞。
地元コロンビア・カリの子供達は背番号『8(スペイン語でocho)』を背負った彼女のプレーに熱狂し、「オーチョ!オーチョ!」と呼び続けた。
1976年のモントリオール五輪でも大活躍を見せ、大会で最も小さい選手ながら、5試合で102得点で世界選手権に続く得点王。
2位となったアメリカを破る快挙も。
そして五輪出場を最後に現役引退。
何処までも自分の道を貫き、「忍者」と呼ばれたプレーそのままに颯爽と時代を駆け抜けた。
結婚して3人の男児を出産、1992年から高校の非常勤講師。
現在は慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスの講師。
地元栃木のプロバスケットボールチーム「リンク栃木ブレックス」が制定した「栃木バスケットボール殿堂」でも表彰される。
小柄ながら「忍者」と呼ばれるプレースタイルで時代を魅了した日本女子バスケットボール史上最高の選手。
テーマ:
- バスケットボール(日本) -
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