久しぶりにBlogを書こうと思ったら、少し緊張します。


実は、今年の一日からある一つの事を神に祈り続けたのですが、

自分が思った方向ではない答えを頂いたので失望し、

祈りが出来ないでいたのです。


神を愛さないわけでも、礼拝に行かないわけでもなく

ただ、祈りだけが出来ないでいました。


そのような自分がいやで、少し悲しくて、

神を信じると言いながら、近く行くのが億劫になっていました。


そのようなわたしに、今週のChoi先生のメッセージは胸に沁みました。


「祈るときに神がくださる答えを先に決めておかないようにしなさい。

わたしたちは自分が思ったように応答してくださればよい神で、

そうでなければ失望し、神を否定しようとする。


自分が期待した答えが来なくても慌てず、すべてを神に預けなさい。

神の計画を信じ、祈り続けるべきである。


祈り続けるとき、神の計画を知り、自分の考えではない

神の意向に沿う祈りが出来るのである。


神はわたしたちの行く道に多くの計画を持っておられる。

それに、それを知らせようとされる。

だから、祈り、神がくださる未来を知り、

自分の将来のヴィジョンを持ってもらいたい。」


胸が熱くなる、わたしにくださったメッセージでした。ニコニコ


この頃いつも朝がどんよりと曇り、

朝から少し重い感じでしたが

今日は晴れ、やっぱり朝は青い空が見たいですよねニコニコ


Choi先生の先週のメッセージは

ハンナの願いを聞き息子を与えてくださった

ハンなの神への感謝の祈りです。


私ことですが、いつも祈りは半端なくせに

神が聞いてくださらなければ

ひどく落ち込むんですよね。しょぼん


諦めず祈り、願いをかなえた

ハンナが少し羨ましいような気がします。


ハンナは神に言う。

「My heart rejoices in the Lord」


旦那の愛も、富も彼女の苦しみを解決できなかったが

神のみ彼女の悩みを聞きいれ喜びを与えられた。


真の喜びはどこから来るのかを考えれば、

無条件な喜びは神からしか来ない。


神が願いを聞き入れようとも、そうでなくとも

心に穏やかな喜びを得られるのは神がくださる喜びである。


だから、諦めず祈り、感謝することである。

神のみ真で、信頼に値するから。

あなたの真は神が必ず聞いてくださる。


「I delight greatly in the Lord; my soul rejoice in my God」








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2回も書き終えた記事が公開の段階で消えました。ショック!プンプン

Computerに怒って見ても消えたのは戻らないしあせる


Choi先生のメッセージは残っているし汗

短くなると思いますが、もう一度トライします。



ハンナは精魂込め神に祈った。

その結果、神は彼女に

偉大なるイスラエルの先知者サムエルを与えられた。


聖書から見れば、ハンナの祈りは何年も続いたようである。

では、なぜ神はすぐに聞いてくださらなかったのか。


ハンナの祈りがすぐに叶えられたのであれば、

はたして、彼女は神の御力だと信じたのであろうか?


それに、夫に特別に愛されたハンナが

もう一人の妻であるベニナという悪役がいなければ

あれほど苦しみ、神にすがったのであろうか?


苦しみも、待つ時間も、神に許された領域であった。


ダビデがサウルに追われ続けたように、

モーセがファラオに断れ続けられたように

エステルがハーマンに計略に陥れられたように、


ハンナも他の多くの神の人と同じように

苦しみの中で訓練を受け、神を知り

成熟の段階で喜びの答えを得たのである。


わたしたちがハンナから見習うことは、

彼女は自分を苦しめるブレニと戦おうとせずに

神に祈ったことである。


彼女は自分の精魂を込め祈った後は

神を信じ、心穏やかに結果を待った。


わたしたちも自分を苦しめる相手、事に

心を苦しめるのではなく、

神に祈り、神を信じ、待つことである。


わたしになぜこのような苦しみがと

神をも恨むときがある。

そのようなときこそわたしたちは祈るべきである。


なぜ?神がその苦しみを通し

わたしたちに恵みをくださるからである。


神が許した今の苦しみは、あなたを訓練する、

教育する、あなたを愛する神の祝福への道でもある。


神に祈り、神を信じ、心穏やかに待つことである。


「どんなことでもm思い煩うのはやめなさい。

何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、

求めているものを神に打ち明けなさい。

そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が

あなたがたの心と考えとを

キリストイエスによって守るでしょう。」

(フィリピ人への手紙4:6~7)






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2年弱に亘るヨハネによる福音書が終わり、

Choi先生のメッセージは今週から

旧約聖書のサムエル上が始まりました。


ほんの何年前ですが、聖書をはじめて読んだとき

とても面白く、まるで昔物語(確か二ですけど)を

読んでいるように一気に読んだ覚えがあります。ニコニコ



エフライム山地にエルカナと言う一人の男がおりました。

彼には二人の奥さんがいてベニナとハンナです。


ハンナは子が出来ないので

夫のエルカナにとても愛されていながらも

子に恵まれたベニナに嘲られ苦しんでいた。


しかし、ハンナは自分の苦しみを夫が示す

愛にも、ベニナに対する対抗にも解決しないで

神の前にもって出た。


ハンナの問題解決方法は祈りであった。

神の前で涙で訴えた。


信仰を持った人は困難に出会ったときに

自分であがくのではなく、神に祈り

神の御旨に導かれることが望ましい。


自分でできる自分の仕事まで

神に任せろと言っているのではなく

自分の力が及ばない問題を神に任せるのである。


「あなたがたの中で苦しんでいる人は祈りなさい。」

(ヤコブの手紙5:13)


「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう

神にわたしの救いがある」

(詩篇62:1)


聖書の中には数多くの祈りがあるが、

個人的には苦しんでいるときには詩篇を読むように進める。

詩篇はダビデを初め多くの苦しみの作者が

神にすがりながら祈っているからである。

彼らが救いを祈り、神の答えを得ているからである。


祈りの答えがすぐに形として現れる場合もあるが

時間が必要なときもある。

では、どのように神の答えを確認できるのか。

心の平安である。


食事もとらず涙で神に訴え続け、牧師のエルに

お酒に酔っていると思われたハンナであったが、

帰りには食事も取り、穏やかに平穏な顔になって家路に着いた。


ハンナは身ごもり男の子を儲けた。

偉大なる神の人、サムエルである。









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約2年に亘るヨハネによる福音書の

Choi先生のメッセージが

今週で終わりになりました。クラッカー


牧師でありながら、

内容の難解さに躊躇なさったと言いながら

はじめたのがつい最近のようなのに。。。


時間経つのの早いですよねニコニコ


なのに最近のわたしは、

しばらく止めていたゴルフをはじめたので

主はないがしろにあせる


でも、自分の中に棄てたと思っていた

心の悪い虫がうじうじ動き始めるのが

感じ始めたので、やっぱり神を離れては

自分を正しく持つのは難しいと反省です。


頼るべきは我が神だけ、

私自身は頼りにならないですね。ショック!


さてと、我がことはこれくらいにして

先生のメッセージ伝えます。


あなたはわたしを愛しているのかと

三回も聞き、ペトロに使徒としての使命を確認させたイエス。


それから、ペトロの将来の殉教を予言された。

実際に、ペテロはイエスの言われたように

ローマのネロ皇帝によって十字架に逆さに吊られたらしい。


他の弟子たちもすべて殉教したらしいが、

彼らの死はすべて神の栄光のために

神の計画の中で行なわれた。


イエスが弟子たちを愛したように、

彼らもイエスを愛し、イエスから預かった羊のために

自らを犠牲を受けたのである。


愛するから、想像を絶する苦難の道を歩んだペテロと

他の弟子たち。


母の痛みの中から生まれる命のように

彼らの苦難の死から生まれたのが

わたし達クリスチャンである。


歴史から見る数多くのイエスの弟子たちの愛ゆえに

新しいクリスチャンが生まれ、新しい愛が生まれたのである。


わたしたちが今の不満を、苦しみを感じるとき、

彼らの愛を思い浮かべるのであれば、

自分の苦悩よりは、他の人の苦悩を

思いやることが出来るであろう。


イエスがペテロに聞いたように、

わたしたちにも聞かれておられる。

「わたしを愛しているのか」と


主を愛するわたしたちは、

他の人を導き、思いやり、面倒を見るように

神から使命が与えられているのである。



一年くらいかかったChoi先生のヨハネによる福音書の

メッセージも最終の章となりました。

一時間もあれば読める量なのですが、

先生はこれでも伝えたりなかったと

心残りのようでしだ。

神の御言葉を伝えるのは

だれもが出きることではないと改めで

考え、神が共にしてくださることに感謝です。


弟子たちはエルサレムから遠く離れた

ティベリウスの湖畔に集まっていた。


エルサレムから離れていたため、

自分たちを迫害する人々を恐れる必要はなかったが、

目の前に迫っている生活の必要を心配した。


復活されたイエスはに会われた彼らであったが

目の前の現実が変わった訳ではなかった。


主が復活されたのとわたしの現実は

なんら関りのないことであった。


だから、ペトロは再び漁にでた。

しかし、魚は一匹も取れず夜が明けようとしていた。


そのときイエスが岸辺に立っていたが

だれもイスだとは気がつかなかった。


そばにいる主を気づかないわたしたちである。

信仰と生活は繋がらない。

これが弟子たちの現実でわたしたちの現実である。


主は言われた。「Friend, haven’t you any fish?」


夜通しがんばったが空しく何も得られなかった彼らは

「We have worked hard all night and 

haven’t caught anything。」


無いと言われた彼らに再びだ奇蹟を経験させたイエスは

現実の問題を打ち勝てる信仰を与えようとなされた。


主が目に見えないから何も出来ないと思う彼らは

目の前の現実に主を忘れていた。


しかし、たれもが勝てない死を打ち勝って

復活された主がわたしたちと共におられると

信じるなら、わたしたちが心配することは

何もないはずである。


毎日をがんばって生きるのが空しいのではなく

主を信じる信仰が伴わないのが空しいのである。






わたしたちはどのように生きるべきなのか?

数多くのいき方があろう。

しかし、信仰を持って生きるほど

豊かで、穏やで、強いライフはないと思う。


信仰を持った人がそうでない人より

物質的に不足であっても、

世間的に失敗してるように見えても、

神を信じる人に不足はなく、

失敗もない。むしろ、その人の中には

大きな豊かさと、穏やかな喜びがある。

どんなときも神が共に歩み、

励まし、慰め、奮立たせると分かっているから。


人は他人より多く所有し、他人より高く上るために

あくせく心を痛め、体を痛める。

しかし、わたしたちがそのような人を指さすことは出来ない。


神がくださる信仰がなければ

わたしたちも日々の欲に翻弄されるから。


わたしたちが信仰の中で神を信じれば

心の平和を得るだけでなく、

実際の生活の中で

神はその人を大事にし、能力を高め、

福を与え、大きく使われる。


聖書の中でいくらでも例を見ることができる。

弱く、臆病で、困難の中にいた人たち。

モーセ、ダビデ、ヨシュア、ダニエル、ハンナ、サムエル、、、

彼らの共通点は強い信仰を持っていたということである。


わたしの力は限りがあり、空しいものであるが

神を信じ、神の御心にそう人は強い。

for everyone born of God overcomes the world.

This is the victory that has overcome the world, even our faith.


「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。

世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。」

(ヨハネの手紙ー 5:4)


久しくブログを更新しておりませんでした。

いろいろと個人的な忙しさのために音譜

サボったのが本当ですが

今日からがんばりますのでよろしくお願いします。ニコニコ


Choi先生のメッセージも

ヨハネによる福音書の終わりに近いです。

苦難を受けられ十字架で死なれたイエスが

復活され弟子たちに現れた話です。


弟子たちが集まられた場所にイエスが現れ、

たまたまその場にいなかった

弟子の一人であるトマスに

イエスの復活されたことを

驚きと喜びをもって伝えた。


しかし彼は信じなかった。

「あの方の手に釘跡を見、

この指を釘跡に入れてみなければ、

また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、

わたしは決して信じない。」

(ヨハネによる福音書20:25)


彼の言い分はわたしたちの目から見れば

当然なことであった。


他の弟子たちであっても同じだったと思う。

自分で見なければ信じることはできないのが

イエスの復活であった。


しかし、わたしも含め多くのクリスチャンが

イエスの復活を信じられるのは

わたしたちが信じたいから信じられるのではなく、

神がくださる信仰があるから

疑いなく信じられるのである。


このように見るまでは、触ってみるまでは

信じないと言っていたトマスに

イエスは来られ、手を釘跡を触ってみて、

わき腹に指を入れてみるように言われた。


その瞬間トマスの不信は消え告白した。

「My Lord and my God.」


後のトマスはインドで福音を伝えるのに

一生を捧げ、皮膚を剥がれ、殺されたらしい。


あの復活のイエスに会った事件が

トマスを残酷な死をも恐れず

イエスを証する人間にしたのである。

今日友人が結婚します。ニコニコ

Husbandとなる人と初めて会って10日で決めた

運命的な結婚です。ラブラブ


彼女、世間的に言えば幸薄な人生で、

幸せとは少し縁が遠かったのですが

今回はお花が咲き乱れるように満面に笑顔、

わたしも嬉しくなります。

お幸せに!クラッカー



今週もChoi先生のメッセージは

イエスの最後に関してです。


夜通しオリーブ山で祈られたイエスが

朝方捕まり、あちこち引っ張りまわされたながら

ローマ兵に鞭打たれ、殴られ、つばをかけられ

棘の冠をかぶらされ、ゴルゴだの処刑場まで

重い十字架を背負わされ、杭打たれた。


この想像を絶する苦難を受けられたのは

イエスが神であると当時に

人間であったからである。


ヨハネは他の3人の福音書記者よりも

イエスの神性を中心に書いたが、

イエスの最後に関しては細かく記述している。


それは、イエスが人間が経験する苦難を

自ら経験する人間であるイエスを

書きたかったのだと思う。


神が人間になり人間の罪の報いを代わりに

受けられたイエス。


これを信じる人は自分が抱えている問題に

苦しめられることはない。

イエスが代わりに受けられたから。


抱えている状況を直視して

神の祝福のゴールに向け、

子とものような純粋な信仰で

神と共に歩み、

今を生きるのがクリスチャンである。


しかし、イエスを信じるから問題が目の前で

解決すると言う意味ではない。


神は信じれば何の問題もない

病気にも無関係で、

いつも豊かであるとは言っておられない。


むしろ、イエスは言われた。

「あなたがたは世で苦難がある。

しかし、勇気を出しなさい。

わたしは既に世に勝っている。」

(ヨハネによる福音書16:33)


イエスを信じる人も

渇くし、病気にもなるし、貧しさに泣くときもある。


しかし、神がともにいることを信じれば

そこにはそれらの苦難と対敵できる力が湧くはずである。


確かなことは、神を信じる人間のために

神は働かれるということである。


「In all things God works 

for the good of those who love him, 

who have been called

according to his purpose.」






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イエスがわたしの隠したい恥ずかしい罪を

代わりに背おられ、言葉では言い表わせない

屈辱と苦痛を受けながら死ぬ罰を受け

帳消しにして下さった。


わたしのために罪の償いをされ

わたしたちが罪のための贖罪の必要がなくなった。

だから、罪の購いをされたわたしたちは

神の御前に出ることができる。


祭司を通さなくても

直接父の御前に出られるのである。


キリスト教の福音を一言で定義するのであれば

十字架と救いと言える。

クリスチャンが清く、

健康的な生き方をするためには

救いの確信が必ず必要である。


わたしたちが永遠に救われ

永世があると信じるのであれば

わたしたちの生活の観点が違ってくるはずである。


家に帰れば欲しいものは何でもあり

好きなものはいつでも父が与えると

知っている人は物に対する欲がないはずである。


目に見えるものが、自分が持っているものより

劣るとしたら欲しいだろうか。


人が、欲望さえ自分で操ることができるのであれば

人はほとんどの場合罪とは無関係な生活が出来る。


欲望は人を卑屈に、残忍に、醜くする。

それから人を罪に落しいれ、死を招く。


「人はそれぞれ、自分の欲望に引かれ、唆されて、

誘惑に陥るのです。そして、欲望がはらんで

罪を生み、罪が熟して死を生みます。」

(ヤコブの手紙1:14~15)


自分が救われ永遠に神に保護され、

愛され、導かれると信じる人は

絶望したり、心配したりしない。


絶望、心配はわたしたちを病気にさせる。

お金も、人間も、この世の何も

心配をなくさせることは出来ない。


生きていくうちに行き詰るときも、ピンチに喘ぐときも、

KOパンチをくらうときもある。


しかし、自分には永遠のサポータがいると知っていて

確信があれば、どんな逆境からも希望を持てる。

逆境をチャンスと捉え、絶望しない、諦めない。


最後に、イエスの十字架での死で救いを

確信できる人は死を超える勇気がある。


死を恐れない勇気は、自分には永遠があると

確信できる信仰を持っている人だけが持てる。


神は御自分の命を十字架で打たれ

わたしを救われた。


ご自分の命を持って

わたしの命の対価を払われたのである。


だから、だれでも罪を告白し、

イエスの十字架での死で救われたことを

信じる人は滅びることなく永世を得られる。






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