ポンコツ先生の自己満へそ曲がり国語教室と老害アウトドア

中学校の国語や趣味に関する話題を中心に書いてます。

「星の花が降るころに」についての考察その3

改めて言うのも変ですが、私はほとんど教材研究をしたり、指導書見たりはしません。その上で、教科書の文章表現だけから以下のことを述べています。したがって、ちゃんと教材研究をしていたり、指導書を確認している先生方にとっては、今私の書いている内容なんて「そんなの当たり前に教えているよ。」とか「普通に指導書に載っているよ。」というものになっているかもしれません。だとしたら「ゴメンナサイ」。基本的に、私が在籍した今までの学校の、同僚の先生が教えていないような内容を取り上げています。(でも考えてみたら、こういう言い方をすると同僚の先生をディスってることになってしまうなぁ、うーん・・・)

前回は、主人公が気づかないうちに、格好よく成長していた戸部君が、主人公に語ったセリフについて考察する、という所で終わっていました。私は最初にこの小説を読んだ時、このセリフに以前このブログで書いた「違和感」をかなり強く感じました。というか、このセリフが無かったとしても、全然前後が普通につながるはずなのに、なぜこんな持って回ったような表現を作者は入れたのか?作家が書いた表現には、必ず何らかの意図がある、という前提で読んでいくならば、この一見無駄に見える記述にも何か裏の意味があるはずだ。そう考えて読み直し、そしてこの記述が話全体の大切なテーマに関わる事柄の「暗示」あるいは「隠喩、暗喩」になっていることに気づきました。前回触れたように、今までの同僚でそのことに触れて授業をしていた先生はまずいなかった(あくまでも当社比です!)ので、恐らく中学生レベルでは不要な読解なのかと思いますが、自己満へそ曲がり流では、気づいたら教えずには済ませられない性分(この辺が偏執狂自己満的)なので、生徒に振ってみました。まずその表現を前後の流れも含め抜粋してみます。

 戸部君の姿がやっと見つかった。

 なかなか探せないはずだ。サッカー部の練習をしているみんなとは離れた所で、一人ボールを磨いていた。

 サッカーボールはぬい目が弱い。そこからほころびる。だから砂を落としてやらないとだめなんだ。使いたいときだけ使って、手入れをしないでいるのはだめなんだ。いつか戸部君がそう言っていたのを思い出した。

 日陰もない校庭の隅っこで背中を丸め、黙々とボール磨きをしている戸部君を見ていたら、なんだか急に自分の考えていたことがひどく小さく、くだらないことに思えてきた。

上記のうち、下線の部分って、無くても普通につながりませんか?削るとこうです。

なかなか探せないはずだ。サッカー部の練習をしているみんなとは離れた所で、一人ボールを磨いていた。日陰もない校庭の隅っこで背中を丸め、黙々とボール磨きをしている戸部君を見ていたら、なんだか急に自分の考えていたことがひどく小さく、くだらないことに思えてきた。

下線部は、不自然とまでは言わないし、戸部君が意外と物を真面目に考える一面があるんだ、という性格描写とも考えられますが、他の生徒が練習している中で一人ボール磨きをする行為だけでも、十分「意外と」真面目だということは伝わりますよね。だとしたら・・・「作者がわざわざこの太字の部分を付け加えた理由は何だと思う?」・・・チーン。はい、まぁ生徒のポカーンとした顔ときたら。とはいえ、これをお読みいただいている方で、「星の花の振るころに」をお読みでない方ならば、やはりポカーンですよね。では、遅まきながらあらすじを紹介させていただきます。

「中一の主人公は、公園の銀木犀の、まるで丸屋根のような枝の下で、親友の夏実と二人だけの世界に浸っていた、去年の秋のことを思い出していた。地面に散った星形の白い花に囲まれ、「これじゃ踏めない ここから出られない 二人で木にとじこめられた」と言って笑ったことを思い出していた所に、小学校から一緒だった戸部君がぶつかってきた。「あたかも」がどうしたこうした言っている戸部君を後にして、昼休みになったのをきっかけに、隣のクラスの夏実に話しかけようとして廊下に出た主人公。実は中学に上がってから、最初は一緒に帰っていたのに、小さなすれ違いや誤解を繰り返すうちに、別々に帰るようになってしまい、疎遠な関係になっていたのだ。今日こそは話しかけようと、ポケットに入った去年の秋拾った銀木犀の花を入れた袋を撫でながら、夏実が来るのを待つ主人公。そして現れた夏実に話しかけようとしたのと同時に、夏実は今のクラスメートからも声をかけられ、戸惑いながらも主人公から顔を背け、その友達と一緒に通り過ぎていった。呆然とする主人公が、はっと我に返ると、教室から戸部君がこちらを見ているのに気づく。泣きそうなのをごまかすため、窓から外を見て、友達を探すふりをする主人公。本当は夏実以外に友達なんて呼びたい人はいないのに。放課後になり、主人公は「どこまでわかっているのか」を探るために、サッカー部の戸部君を探す。ところが戸部君は一人で熱心にボール磨きをしていた。自分の考えがちっぽけに感じた主人公が水で顔を洗い冷静さを取り戻した所に、戸部君が話しかけ、ジョークで主人公の心をなごませてくれる。その後、学校からの帰りに銀木犀のある公園を通ると、公園掃除のおばさんと出会い、常緑樹である銀木犀も、実は古い葉を落として新しい葉を生やしていかないと生きていけないことを教わる。主人公は銀木犀の木を下から見上げ、ポケットの去年の銀木犀の花を取り出し土の上にパラパラと落とし、「きっと何とかやっていける」と新たなきもちになり、銀木犀の木の下から歩きはじめる。

うーん、大事な表現をかなり省いてしまったので、ちょっと読解するのは厳しいと思いますが、どうでしょう?「作家は無駄なことは書かない。違和感を感じる表現には必ず裏の意味がある」理論で言うと、上で書いた「サッカーボール」の話には、絶対に作者が裏の意味、何らかの内容に関連する暗示(隠喩)を入れているはずだし、作者はそう読み取ってもらいたがっていると思うのですが。この「自己満へそ曲がり流」読解はまた次回書かせていただきます。併せて、この良く出来た小説の、たった一カ所の凡ミスについても。それではまた、お時間があれば読んでください。

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