黄昏色 | さびしいときの哲学

さびしいときの哲学

大切なひとを失った方、一人ぼっちで寂しいと思う方へのメッセージ

夫が亡くなって梅雨を迎えた頃、紫陽花の鉢花を買って、玄関わきに置きました。

 

表向きは気丈に振舞いながらも、涙色に明け暮れたあの日々。

 

ひとつひとつの花弁が集まって、まるで花火のように華やかに見えて、どこか憂いをたたえたような佇まいに、当時の自分の心情を重ねていたのでしょうか。

 

紫陽花は人の心をしっとりと包み込む力があるように思います。

 

花が咲き終わり、鉢花の紫陽花を土植えにしてからは、夕方に時折庭に下りて、紫陽花が根付いているかどうかを確認するようになりました。

 

外も大分暮れて黄昏時のある日、紫陽花の根っこに、ふと一匹のガマガエルがいるのに気づきました。

 

20年近く住んでいて、庭でガマガエルを見たのはそのときがはじめてで、普通ならばぎょっとするところですが、そのとき、どうしてもそのガマガエルが夫に見えてしかたがありませんでした。

 

夫のために言っておきますが、彼は骨ばったタイプで、顔も細面で、決してガマガエルのような容貌をしていたわけではありません。

 

ただ、シャイな感じでためらいがちにこちらに気づいて、ゆっくりと去っていくカエルの姿が、なぜか夫とだぶりました。

 

それから、日を違えて、同じ時間帯に、二度ほどカエルの姿を見かけたでしょうか。カエルがいると、嬉しくなっている自分がいました。あんなにガマガエルを愛しいと思ったことが、かつてあったでしょうか。いや、今からも恐らくないでしょう。

 

あれから、いろいろとあって引っ越さざるを得なくなりましたが、そこから引っ越して住んだ街の環境は、以前住んでいたところと比べると、とても恵まれていました。

 

紫陽花のある庭ともお別れしましたが、特にこの時期、あの黄昏色の、現実と夢との境のようなあの情景を思い出します。それは、その地を離れ、月日が経った今も、決して色あせることはありません。

 

 柔らかさtendreという様式は、極度の毀れやすさfragirité、傷つきやすさvulnérabilitéのうちにある。柔らかさがあらわれるのは、存在することと存在しないこととの境界においてであって、それは存在が輝きのうちで消えてゆく甘い火照りのようにあらわれる。柔らかさは「牧神の午後」における水の精nympheたちが示す「うす桃色」l'incarnatlégerのようにあらわれるのである。(E.レヴィナス著『全体性と無限』、熊野純彦訳、岩波文庫)

 

「うす桃色」とは、自己と親和性がありながらも、他性を維持する他者のことです。ちなみに、ここで言われているうす桃色とは、身体がほんのりと紅潮した色を表すようです。

 

レヴィナスは、それをエロス的存在だといいます。彼はエロス的存在を〈女性〉だとし、デリダやフェミニズム論者からぼこぼこにされてしまい、後の書では、エロス的存在に関しては、かなりトーンダウンしたきらいがあります。けれども、それを女性性とするかどうかは別として、レヴィナスが、エロス的存在というカテゴリを編み出したこと自体は、評価されるべきだと思います。

 

 それは個体であることを喪失し、みずからの存在の重みをおろして軽やかになり、すでに消失évanescenceとめまいpâmoisonのようなものとなる。じぶんがあらわれるそのただなかで自己のうちに逃げ去っているのだ。そのように逃げ去ることで〈他者〉は〈他者〉であり、〈他者〉とは世界と疎遠なものである。世界は〈他者〉にとってあまりに肌理があらく、〈他者〉を傷つけてしまう。(同上)

 

消失évanescenceは気絶・卒倒という意味もあり、めまいpâmoisonもまた同じ気絶・卒倒と言う意味があり人事不省とかぼーっとしている状態を示すときに使うようです。

 

自己にとっては異質な他者が自己の前に現れるときは、他者そのものがぼーっとして他者が他者自身の自己からふらっと出てきてしまった状態になったときなのでしょう。

 

そのとき、自己自身もまた夢見心地の状態です。だけれども、他者が姿をあらわし、自己がそれを認識しようとすると、他者はあわてて他者自身の自己の内に逃げ去ってしまう。

 

他者はあまりに繊細で、傷つきやすく、概念化された世界で他者を捉えることはできないのです。

 

逃れながら神秘の内に隠れる他者、隠れることで彼方へと自己をいざなう他者、それがエロス的存在です。

 

紫陽花とガマガエル。出会うといつも彼はその場からゆっくりと去って行きました。私は彼の行方を追うことはしませんでした。

 

今もふと現われる黄昏色。私はずっと追い続けてきているのだろうか。