間(あいだ)にあるといふのは | さびしいときの哲学

さびしいときの哲学

大切なひとを失った方、一人ぼっちで寂しいと思う方へのメッセージ

親と子、妻と夫、あなたとわたし・・・・、この二つのものを結ぶのは、「と」という間(あいだ)です。間があるからこそ、この二つのものが存在するといってもよいでしょう。

 

 愛は私にあるのではなく、相手にあるのでもなく、いわばその間にある。間にあるといふのは、二人のいづれよりもまたその関係よりも根源的なものであるといふことである。

(三木清著『人生論ノート』、新潮社)

 

愛は間に在って異なる二つのものを結ぶものであり、それを媒介といいます。媒介は、二つのものの両方の性質を備えるものであり、だから、二つのものと親和性があります。それは間たるものが根源に通じているからではないでしょうか。

 

カントの感性と悟性は、一方は時間と空間、他方は概念と全く異なる形式をもつとされています。その異なる二つを結ぶものを、カントは構想力であるとします。三木清は、構想力こそが認識の根っこにあって、感性も悟性も構想力の根っこから生じたものだとしています。

 

しかしながら、愛について言えば、二つのものが一つになった途端、愛もまた消滅することになります。一つになるとは、すべてのものが溶け合い、カオスとなることです。つまり、愛の成就即愛の消滅。だから、愛が永遠に在り続けるためには、永遠に間が必要なのです。それは愛がもつジレンマであり、エゴイズムでもあります。

 

だから、愛されるものは愛するものから逃れ続けなければなりません。逃れ続ける愛されるものを、レヴィナスはエロス的存在としています。

 

プラトンの『饗宴』に、エロスについての定義があります。『饗宴』では、アテナイの悲劇詩人であるアガトンが、コンクール優勝の祝宴を自宅にて開いたとき、ソクラテスと招待客の青年たちが、エロスについて問答した内容が記されています。

 

ソクラテスの対話形式の問答は、産婆術といって、問答をすることで、相手の思考を引き出しながら、その知見を真理へと導くものです。

 

ソクラテスは青年たちのエロスの定義をひとしきり聴き、問答をした末に、ヂオチマという女性から聞いた話を披露します。

 

「エロス(愛の神)は、善悪美醜の中間にいるのです。・・・・・死すべきものと不死なるものの中間にあるのです。・・・・ソクラテスよ、それは偉大なるダイモーンなのです。思うに、ダイモーンと名のつくものは一切、神と死すべきものの中間にありますゆえに。」(プラトン著『プラトン名著集』「饗宴」、森進一訳、新潮出版)

 

ちなみに、エロスとは両性具有だとされています。

 

ダイモーンとは、ソクラテスにあっては、自分を糺す声であったようですが、ここでは、神と人間の媒介とされています。ヂオチマはこう続けます。

 

「さらに、神々と人間たちの中間に位するゆえ、両世界の隔たりを満たし、結果万有が結ばれて、まさに一如となるようにしているのです。」(同上)

 

けれども、すべてが渾然一体となるということは、媒介たるダイモーンが消滅することであり、そうなると神々と人間の存在もまた無に帰してしまうことになります。だから、ダイモーンは両者を存在させるために、在り続けなければなりません。

 

死者とは、ダイモーンなのかもしれません。死者は、生きているものを彼方へと導きます。導く彼方と生者のために死者は在り続けます。愛が在るから生者と死者もまた在るとも言えます。

 

間(あいだ)が在る限り、死者も生者も、あなたもわたしも存在する・・・・すべてが渾然一体となるそのときまで。

 

「グランブルー(Le Grand Bleu)」は私の好きな映画の一つです。ジャック・マイヨールがモデルになった映画ですが(彼もまた自らこの世を去った)、印象に残っているのは、子どもの頃からライバルのエンゾと潜水の記録を競り合うなか、エンゾが競技中に落命したときです。ジャックはほかの人が止めるのも聞かず、エンゾの遺体とともに潜水し、エンゾの体を海の底へと解き放ちます。こんなにも愛と尊厳に満ちた弔いはないと深く心に残っています。エンゾ役を演じたジャン・レノもまた人間味にあふれていて、魅力的でした。

 

海の青は空の青と通じている。そこでは、すべてが青に溶け合っている。青に溶け込むほどに、わたしは生きることができるだろうか。いつか、あの青に溶け込みたい。そのとき、やっとあなたと一つになれるのだろうか。

 

そしてまた、新しい間が生じて、あなたとわたしになるのだろうか。