どうして?という問いは、やはり拭いきれない。考え尽くして、そして潰え果ててしまったのかと思いつつも、その問いはなおもついてまわる。
ハイデッガーの本来的自己とは、世人(das Mann)に紛れている非本来的自己があってこそ、本来的だと言えるものなのです。
つまり世人としての自己も自己としてなければ、それが本来的な自己とは気づきません。もちろん、世人に埋もれきってしまったら、もっと気づきません。一生気づかない人もいるでしょう。反対に、世人としての自分が許せない人もいるでしょう。
本来性のみを生きているものにとっては、世人(das Mann)になれない自分はつらいに違いありません。どうして、私はほかの人と違ってこんなに・・・という思いが芽生えてくるでしょう。
その違いが自分ということなのでしょうけど、合理性という網の目をかけている世界は、その違いを掬い取るにはきめが粗すぎるのです。
自由というのは、自己が自己であろうとすることである。この意味で、自己であろうとすることがなければ、死などは人間の問題にならない。死を自己のものにしよう、それをわがものとして、それを受けいれ、肯定し、更にのり超えようとするのは、そういう形で自己を肯定し受け容れ、超えようとしていることを意味する。だから死が問題になる手前には、死を問題にする人間がいる。(樫山欽四郎著『哲学概論』、創文社)
人間は有限な存在です。けれども、死の向こうから自分の生の全体を見つめる視点を持っている。それは人間が「自己が自己であろうとする」からであり、自由であろうとするからです。
夫にとって、生活していく場は閉塞感に満ちていただろうと思います。彼は誠実にまじめに一生懸命自分と向き合ってきたのだと。
生きる意味や自分に対する真摯な問いをもっていたからこそ、死を超えたところからそれを見出したかったのでしょうか。
彼は今もそれを問い続けていると思います。だから私も彼とともにそれを問い続けようと思います。
問いのかたちはさまざまです。
虚しさに襲われつつ、絶望しながら、でも、そうすることであなたたちとともに在り、また自分も在らしめられているとしか言えないけれども。