「現」という開け | さびしいときの哲学

さびしいときの哲学

大切なひとを失った方、一人ぼっちで寂しいと思う方へのメッセージ

私の住んでいる横浜市は海のイメージがあるでしょうけど、住宅地になると、丘や森林や田園風景が広がっているところが多いのです。30年前、結婚してこちらに移り住んで、横浜のイメージが限局的であることをはじめて知らされたのですが、今では、この予想外の恩恵を、十二分に享受しています。特に、今住んでいるところの近くには、歩くのにやさしい木道が、あちこちに広がっていて、里山もあります。 

 

本格的に山野を歩きたいのならば、いざ鎌倉へ、も有りで、

なんとも歩きがいのある環境に住んでいると思います。                         

 

 

 

      

 

       

 

  

 

面倒くさいと思っていても、緑の中を歩き始めると気もちがいいのは分かりきっているから、息苦しくなると、重い腰をあげて外に出ます。森も深くなると、鳥の啼き声が聞こえ始めます。少し前までは、ほんの近くで鶯の啼き声が聞こえてきましたが、今日は聞こえてきませんでした。

 

鶯が啼く声を聞くと、あの日のことがふと甦ります。単身赴任先で逝ってしまった夫の下に、車を飛ばして義妹の家族と共に駆けつけたあの日。夫と対面したのは、午前3時過ぎくらいだっただでしょうか。

 

夫を自宅に帰らせてあげたかったので、葬儀社に依頼して手続してもらい、移送する車を待っていると、外のベランダから鶯の「ホーホケキョ」という声が、はっきりと何度も聴こえてきました。3月下旬に差し掛かる時期に、まるでお経を高らかと唱えているような澄んだ清らかな声でした。

 

その声を聴いて、夫は苦しみの果てに逝ってしまったんだろうけど、きっと心安らかに成仏するだろうと、夫の未来が開けてきたような実感がありました。そして、その想いは、わたしの行く末にもわずかながらの希望を抱かせてくれました。

 

 到来、既在性、現在は、「おのれへと向かって」「のほうへともどって」「を出会わせる」というそれぞれの現象的性格を示している。この何かへと向かって、何かのほうへと、何かのもとでという諸現象は、時間性を、エクスタティコン、すなわち、脱自そのものとしてあらわにする。時間性は、根源的な「おのれの外へと脱け出ている脱自」それ自体なのである。だからわれわれは、到来、既在性、現在という、すでに性格づけられた諸現象を、時間性の脱自態と名づける。時間性は最初から一つの存在者であってその存在者がようやくおのれの内から外へと踏み出るというのではなく、時間性の本質は、諸脱自態の統一における時熟なのである。(M.ハイデガー『存在と時間』、原佑・渡邊二郎訳)

 

夫は亡くなってしまったけど、そのとき不思議と、鶯の声によって時熟した夫の「現」に居合わせたような気がするのです。夫の生は閉じられてしまったのですが、死という有限性を超えたところから、これまでの生の苦しみを振り返りつつ、鶯の声を聴いている現在。夫もその鶯の声をきっと聴いたと思います。その夫の「現」に、私もまた自責の念も入り混じりながら自分を振り返り、そして、いずれまた死後に夫に会うまではしっかり生きねばと、自分の「現」が重なりました。鶯の声は、夫と私の「現」そのものなのです。

 

私たちが過去・現在・未来と呼んでいるものが、時間の流れとして元からあるのではありません。また、過去はこうだとか現在はこうですとか将来はこうだろうとか取り出して言えるものでもありません。現在とは、到来するものと戻るもののあいだに拓く「開け」です。わたしとは、向かうべく先取りし、戻るべく遡りながら、「今ここ」に居合わせているものなのです。

 

三好達治の詩に「湯沸かし」というのがあります。

 

たぎり初めた湯沸かし・・・・・・ 

それはお昼休みの 

小学校の校庭だ

藤棚がある 池がある 

僕らはそこでじゃんけんする

僕は走る・・・・・・ 

かうして肱をついたままの中に 

たぎり初めた湯沸かし・・・・・・

 

「現」に在るわたしとは、たぎり初めた湯沸かしのようなものなんだろうな。