在宅介護16年の闘い。

要介護4の父をリアル在宅介護してきた約16年を振り返る日常

【あれから25年】ようやく阪神淡路大震災を振り返れた。

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皆さん、こんにちは。^^

阪神淡路大震災から25年が経ちました。」

当時、まだ歯科技工士としてラボ(歯科技工所)に努めてました。

出勤前の早朝、夢か現実か解らないぐらいの揺れがきて、布団の中で全く動けませんでした。

「早く収まれ、早く収まれ。」と願うだけでした。

25インチのブラウン管テレビがバランスボールみたいに転がってたのを覚えてます。

揺れが収まり飛び起きて、下の部屋に行き父と母の安否確認をしまた。幸い上から落ちてきた物に当たったものの、大きな怪我等はなく無事でした。

父もまだ1回目の脳梗塞前で元気な頃だったので、2人で家と店の片づけをすぐに始めました。停電はしなかったので、TVから流れてくる衝撃的な映像を見て、ただただ驚いてました。

家屋の被害も大きく、屋根瓦はほぼ崩れて落ちてしまいました、瓦が天井を突き破って落ちた箇所もあって居間から少し空が見えてました。ブルーシートを張り、余震で被害が広がらないように、添え木をしたり、崩れそうな箇所は先に崩したり、素人で思いつく事はやりました。

ラボに電話し仕事を休む事を伝えて、とにかく家と店の復旧作業を数日間してました。

知り合いの業者さんにすぐに修理依頼をしましたが、当然いつになるかわからないとの事でした。いつ頃屋根が直ったのか?いつ補強工事が終わったのか?もう忘れてしまってます・・。

数日後に、ラボに出勤したら他のスタッフは皆通常通りに働いてました。皆、被害もなく無事だったようでした。

「え?そうなん?家潰れたん?」みたいな。

【災害にあった時の温度差って、何とも説明できませんよね。】

自分が住んでいる、大阪の北のエリアは震度5弱~6弱と報道されてました。

場所や地盤、建物の向きによってほんのちょっとの距離で被害の明暗が解れることもこの時に知りました。近所のうちも何件も家が束から外れて大きく傾いてました。

うちの家の束からは外れなかったものの、少し傾いてしまいましたが現在もそのまま住んでます。家屋・屋根の修理費用は当時で約300万ほどかかったそうで、家主と半分ずつ負担する事になりました。罹災証明も半壊でしかおりず、受けれた公的援助は微々たるものでした。

街の大きな公園、小さな空き地、いたる所にプレハブの仮設住宅が出来てました。何年間も仮設住宅はあったように思います。

当時自分はまだ若かったし経験不足や情報不足、行動力がなかったと思います。ネットもなかったですし、情報は限られてました。

 

父の介護が本格的に始まり、阪神大震災の事は振り返ったり思い出したりする事もほとんどなかったです。毎日の仕事、介護、家事で忙殺される日々で。

ようやく気持ちにゆとりができて、

「あれから、もう25年も経つんかぁ・・」と思い返せるように。

震災を経験した自分でさえ、少しずつ経験した記憶も薄れていってます。

震災を風化させない、語り継いでしっかりと記憶に繋ぐことは自分には出来ないかもしれない。

だから自分だけでも、

 

【あの時起きた事の経験・教訓を忘れないようにと思いました。】 

 

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