メカがいっぱい。闘争がいっぱい。

私はメカが好きだ。それほど物理や工学に詳しいわけではないが、昔は模型をヤスリを使ってザクの頭をナデナデしたり、コンプレッサーを使って迷彩カラーに挑戦したりしたものである。

ミレニアム・ファルコンだんだよ。人生はミレニアム・ファルコンなんだ。エンタープライズや、ラピュタ(と、同名作品に登場するいっぱいのメカ)、グラタンやノーチラス号でも良いんだけどね。とりあえずそんななんだよ。

得てして、SF海外ドラマ“スタートレック”は、多くの異星人、時間軸、体制を描き、未知との遭遇、そして、論理や感性の大切さを謳う相対主義的なSF映像作品の代表的な例とされる。いやぁ、なんともアメリカである。背景として戦争を描くこともあるが、基本はエンタープライズなどの主人公が宇宙船の冒険譚や逃避行を描いたものだ。ガジェットも科学的、SF的であることが心掛けられた小気味いい作品である。この作品に登場するトリコーダーなるチートな携帯端末が、現在の携帯電話に影響を与えたなんて、俗説まであるぐらいだ。

対して、SF映画“スター・ウォーズ”は独裁体制の打倒と、フォースの光と闇に揺れる人間という、あまりにもありふれた物語構造のなかで、侍やドイツ兵の如き心なき兵士たちと、柔道着を着た主人公とお姫様、そして、無頼漢がオンボロ宇宙船で宇宙をフラフラしながら解放していくという、おそろしく既視感満載なおもちゃ箱のような映像作品である。そう、やはりアメリカである。

が、である。スタートレックは相対主義的な価値を軸とするが故に、それに縛られ、同じ未知との遭遇話をただ続けているだけである。そう、疲弊した帝国、アメリカそのものである。さらに、商業主義的なシリーズの大量生産も相まって、広大な宇宙のなかで孤独な知的生命体“人類”を以前よりも増して確信しつつある現代の真っ只中にあって、ただただ旧時代的なエイリアンとの遭遇を今もなお繰り返し続けている。スタートレック:ディスカバリーは好きだから、見ているけどね。苦心して作品世全体のなかで演繹的に整合性をつけようとする様は面白いのだ。

ここにきて、スター・ウォーズはどうだろうか。おとぎ話の如き陳腐さをその外面に眩いほどに身にまとっていながら、フォースなる作品世界内のキーワード、キー概念に基づき、善意と悪意で揺れる人間たちを躍動感ある画で描き続けている。用事は何か忘れたが、とにかくミレニアム・ファルコンの珍道中なんだ。善悪の構造はきっかけ、外枠に過ぎないのだ。その珍道中の過程で、善悪や恋、ジャンゴ・フェットとボバ・フェット親子、ジャバ・ザ・ハットなど、多くの個人を描いていくのだ。一見、硬直的な帝国打倒の話に見えるこのSF寓話は、弱き個人の揺れる心を描いている、まさに本当の現代的寓話なのだ。スタートレックはその営業的あり方が帝国主義的な苦境に立っているけれども、スター・ウォーズはその骨子が、帝国主義の根幹たる、弱き個人に対する寛容さに基づいているのだ。いやぁ、しかし、ディズニー版が面白くない。残念だ。

一言で言うとだ。全部逃げているのだ。逃走している。作品内でも、作品の有り様も、闘争しながら逃走している。ダメカ。

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投稿者: Hiyokomaru

こんちはっ! こっそり頑張るSOHOライター、ひよこ丸だよっ。 こう見えても、もう不惑のオジサンなんだ(汗 いつか立派な雄鳥ライターになるんだっ!

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