大和徒然草子

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甲子園球場に閑古鳥が鳴いていた時代。いかに阪神は関西屈指の人気球団となったのか?阪神タイガースの歴史を読み直す(1)

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連日満員の甲子園球場

 

関西のプロ野球ファンの多くに馴染みある光景となっています。

阪神タイガースは関西では抜群の人気を誇る人気球団で、相手チームがどこであろうと、内外野のマンモススタンドに大勢の阪神ファンが連日詰めかけます。

今や関西では当たり前のようになった光景ですね。

 

しかし、このような状態は、実は近年になってから、1985(昭和60)年あたりからということを皆さんご存じでしょうか。

 

論より証拠ということで、阪神が史上初めて年間の観客動員数100万人を突破した昭和37(1962)年の状況をみてみましょう。

この年の日本シリーズは、阪神東映フライヤーズ(現在の北海道日本ハムファイターズ)との間で争われました。

 

東映パリーグ初制覇。

阪神は2リーグ分裂の際、毎日に主力を大量に引き抜かれて戦力低下したため長らく低迷した時期をようやく脱し、分裂後、セリーグ初優勝という年です。

 

阪神は初めての日本シリーズ

今ならチケットは発売即完売、ネット販売のサイトやチケットサービスの電話が繋がらないという状況になるかな、と思います。

 

とくにこの年の日本シリーズは第7戦にまでもつれ込む大熱戦で甲子園球場では第1戦、第2戦、第6戦、第7戦が行われました。

 

シリーズの展開は、阪神が2連勝のあと、東映が引き分けを挟んで4連勝、東映が初の日本一に輝いて終わっています。

 

では、実際の動員数を見てみましょう。

ウィキペディアによると、甲子園球場の観客動員数は以下のとおり。

10月13日(土)第1戦  35692人

10月13日(日)第2戦  35995人

10月20日(土)第6戦  21214人

10月21日(日)第7戦  29192人

 

おや?

と、思った方も多いのではないでしょうか。

当時の甲子園球場は詰め込めば6万人の観客を収用できたことを考えると、満員には程遠い数字です。

実際に当時の場内を見ることができたなら、入れ物が大きいだけに、がらがら、とまではいかずとも、空席がかなり目立ったのではないでしょうか。

今なら平日のナイターでもこの観客数、とくに最後の2試合は非常に少なく感じます。

雨の日か、シーズン終了間際の消化試合かといった数字でしょう。

 

全て土日の試合で、それも初の日本シリーズという条件を考えたとき、現在の感覚では信じられない数と言えるのではないでしょうか。

とくに阪神不利な情勢とはいえ、最後の2試合の観客数は惨憺たるものと言えるでしょう。

ちなみに東京で行われた3試合で3万人を割った試合はありません。

 

日本シリーズがこの有様では、シーズン中はどうだったのでしょうか。

昭和37(1962)年のセリーグは、阪神大洋ホエールズ(現横浜DeNA)がシーズン終盤まで優勝を争った年でした。

そんなシーズン終盤、9/29(土曜)、 9/30(日曜)に甲子園では国鉄スワローズ(現ヤクルト)を迎えた3連戦が行われています。

9/30の日曜日はダブルヘッダーで2試合を行いました。

ちょうど大洋との優勝争いも佳境を迎えていたこのときの観客数は下記のとおり。

9月29日(土)  6000人

9月30日(日) 第一試合10000人

       第二試合18000人

出典)井上章一著『阪神タイガースの正体』より

 

ちょっとまってくれ、あまりにひどい!と言いたくなる数字です。

優勝争いの渦中、今なら平日でも連日満員札止めとなるでしょう。

週末の試合ともなれば、現在ではオープン戦でも、この観客数より多いかもしれません。

優勝争い+週末という好条件にもかかわらず、甲子園球場はガラガラの状態で試合を行っていたのです。

 

ところで阪神は同シーズン、9/22、23の週末にも甲子園球場で試合を行っています。

このときの相手は読売ジャイアンツで、9/23の日曜日はダブルヘッダー

各試合の観客数は以下のとおりです。

 

9月22日(土)  50000人

9月23日(日) 第一試合45000人

       第二試合50000人

出典)井上章一著『阪神タイガースの正体』より

 

ほぼ満員の入りです。

この年の日本シリーズより、シーズン中の読売戦のほうが客入りがいいというのは、今の感覚でいうと異様に感じられますね。

 

この傾向は2年後の昭和39(1964)年に阪神が2度目のリーグ優勝を勝ち取った年も現れます。

この年の優勝争いの相手も大洋でした。

終盤まで阪神はずっと2位につけ、9月30日甲子園での最終戦で逆転優勝という劇的な年で、ファン心理で言えば連日球場に足を向けたくなる、そんなシーズンといえるのではないでしょうか。

こんな年の最終盤、9月の甲子園球場主催試合の観客数は以下のとおりです。

9月1日(火)対読売 43000人

9月3日(木)対読売 37000人

9月4日(金)対読売 50000人

9月6日(日)対中日 第一試合12000人

          第二試合19000人

9月8日(火)対広島 6000人

9月10日(木)対広島 6000人

9月12日(土)対広島 12000人

9月26日(日)対大洋 第一試合25000人

               第二試合31000人

9月29日(火)対国鉄 16000人

9月30日(水)対中日 第一試合33000人

               第二試合35000人

出典)井上章一著『阪神タイガースの正体』より

 

一目瞭然で、やはり読売戦の観客動員が群を抜いています。

優勝争いをしていた大洋戦や、優勝決定戦でもある最終の中日戦でも観客数は読売戦に及ばないのです。

この数字が何を物語るかは明らかです。

要するに、当時の甲子園球場はいわゆる阪神ファンだけで満員になることはなかった、優勝争いや阪神の成績よりも、読売戦に興味がある観客がいなくては満員にすることはできなかったということです。

 

この年の日本シリーズは観客動員の上でさらに惨憺たる結果となります。

対戦カードは対南海ホークス(現ソフトバンク)戦。

初の関西勢同士の対決となり、最終第7戦までもつれる熱戦となりましたが、各球場の動員数はウィキペディアによると下記のとおりです。

10月1日 第1戦(甲子園球場)19904人

10月2日 第2戦(甲子園球場)19190人

10月4日 第3戦(大阪球場)29932人

10月5日 第4戦(大阪球場)30107人

10月6日 第5戦(大阪球場)26962人

10月9日 第6戦(甲子園球場)25471人

10月10日第7戦(甲子園球場)15172人

 

南海の本拠地である大阪球場での盛況ぶりに比べ、甲子園球場の不入りは壊滅的といえるでしょう。

特に第7戦の動員数については、現在に至るまで日本シリーズ終戦の動員記録ワーストで、残念ながら今後も破られることがない不滅の記録となるでしょう。

この記録的不入りの原因としては、10月8日に予定されていた試合が雨天中止になってしまったことで、開催が10月10日の東京オリンピック開会式と重なってしまったということがあるものの、それにしてもひどい数字です。

今ならたとえ裏にオリンピックがあろうが、サッカーワールドカップがあろうが、日本一を決める試合、それも初の日本一がかかる試合を阪神ファンは優先させるのではなかろうかと思われます。

しかしながら当時の阪神ファンにはそこまでの熱のこもったファンが今の割合ほど多くはなかった、もしくは絶対数が少ないので熱烈なファンの絶対数も少なかったか、もしくはその両方であったといえるでしょう。

 

また、大阪球場の盛況からも、当時の関西におけるプロ野球ファンの比率で、阪神ファンが現在のような主流では決してなかったこともお分かりいただけるのではないでしょうか。

 

ここまでのお話で分かっていただけたと思いますが、2リーグ分立から12~14年を経た段階での阪神は、観客動員の多くを「読売戦」に依存するチームであったことがお分かりいただけたと思います。

 

特に読売のV9時代、阪神主催試合の総動員数に占める読売戦の比率は「九年間の平均値を出すと五十五パーセントにたっする」(井上章一著『阪神タイガースの正体』より引用)ほど、阪神は経営的に読売依存の高い球団でした。

 

ちなみに度々数値など参考にさせてもらっている井上章一さんの著書『阪神タイガースの正体』によると、読売V9期の他の4球団の観客動員数に占める読売戦の割合は次のとおりです。

スワローズ 52%

ホエールズ(現ベイスターズ)47%

ドラゴンズ 38%

カープ 34%

 

阪神の場合、甲子園球場という入れ物の大きさも観客動員に占める読売戦依存を高めた要因の一つではあったと思いますが、読売戦依存度が突出して高い球団であったことが明らかです。

 

これらの数字は球団経営上、読売戦を最重要視する阪神球団の基本ポリシーを裏打ちする数字として注目に値すると思います。

 

1950年の2リーグ分立時、阪神は毎日の新規参入を認め、パリーグに参加する動きを見せたもののセリーグ加入し、読売戦を手放さなかったことが、それほど人気がなかったころの球団経営を支えました。

 

また、記憶に新しいところでは、2004年近鉄オリックス球団合併に伴う球界再編問題で、阪神が示した姿勢、1リーグ制反対、読売のパリーグ参入反対は、21世紀に至るも根強く読売戦重視のポリシーが貫かれていたことを示唆します。

※もっともこの頃は観客動員よりもテレビ放映権が大きかったと思われます。まだ2004年当時読売戦は、ほぼ全試合地上波中継がぎりぎり行われていた時期でした。

 

熱っぽく、大半は「読売ぎらい」で占められているであろう阪神ファン(私もその一人)とは対照的に、冷徹でときに卑屈なくらい読売に追従する阪神球団のコントラストにおかしみを感じるのは私だけでしょうか。

そういう阪神球団に「読売追従とはけしからん!」と思う向きの阪神ファンもおられるかもしれませんが、冷徹な経営でいまだに球団を存続させてくれていることに、私は素直に感謝したいと思っています。

 

現在では、阪神は押しも押されぬ人気球団となっています。

「好きなプロ野球球団は?」という様々な調査で全国では読売に次ぐ不動の2位にあり、関西では随一の人気球団となりました。

 

どうしてこのような状況になっていったか、次回以降でお話していこうと思います。

 

参考文献)井上章一著『阪神タイガースの正体』朝日文庫

 

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