大和徒然草子

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筒井順慶(9)順慶死後の筒井氏と国人たち

皆さんこんにちは。

前回は本能寺の変後の困難な時局を乗り切り、36歳の若さで筒井順慶が世を去るまでをご紹介しました。

 

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今回は筒井氏と大和国人たちのその後をご紹介します。

 


伊賀への国替え

 

1584(天正12)年、順慶亡き後その跡を継いだのは、従弟で養子となっていた21歳の筒井定次でした。

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筒井定次

妻には織田信長の娘を迎えていたといわれ、軍学、文芸、茶道にも通じた人物であったといわれます。

順慶の葬儀が終わった10月21日、定次は再び小牧・長久手の戦いに参加するため伊勢方面へ出陣。この出陣では臣下の松倉右近が活躍するなど、筒井勢も奮戦したことがうかがえます。

11月には織田信雄羽柴秀吉と単独講和を結び、伊賀と伊勢半国を秀吉に割譲。

信雄の戦線離脱で戦の大義をなくした徳川家康も秀吉と和議を結び、小牧・長久手の戦いは収束しました。

 

翌1585(天正13)年3月、秀吉は小牧・長久手の戦いで背後を脅かされ続けた紀州の寺社、惣国一揆勢力を討伐すべく、紀州攻めを開始します。

定次も大和国衆を引き連れ参戦し、激戦となった千石堀城(大阪府貝塚市)の戦いでは最前線で奮戦します。

場内に籠る鉄砲隊の猛烈な砲撃で定次を含む秀吉勢は大きな被害を出しますが、筒井勢の放った火矢が城内の煙硝蔵に引火、大火災となります。

これをきっかけに城内が大混乱に陥り、千石堀城は落城。その後、根来寺粉河寺を焼き払うなど、その活躍を秀吉から大いに称賛されました。

順慶のときより、活躍がなかなか派手ですね。

 

紀州攻めが一段落すると、秀吉は次の目標を四国、長宗我部氏に定め、6月末に定次は先鋒に任じられ、総大将羽柴秀長率いる主力軍の一員として堺から阿波に出陣します。

 

阿波には長宗我部軍の主力が展開していましたが、讃岐、伊予方面からも攻撃を受けた長宗我部勢は序盤から劣勢に立たされました。

緒戦の木津城が陥落したのち、7月中旬には一宮城が陥落。

結局長宗我部元親は7月末には降伏して土佐一国を安堵され、四国攻めは1か月ほどで終わりました。

 

さて、四国攻めの最中7月に関白となった秀吉は、閏8月に領国内の大規模な国替えを行います。

この国替えで畿内は羽柴一門と近臣で固められることとなり、大和へは弟の秀長が和泉、紀伊とあわせて100万石の大禄で封じられます。

定次は隣国の伊賀へ20万石で移封されることになりました。

筒井氏による支配で、興福寺をはじめとした寺社勢力と各国人衆との関係はほぼ断絶されつつありましたが、筒井氏の伊賀移封により、その流れは決定的になったといえます。

閏8月19日には高取城、続いて23日には郡山城が秀長に引き渡され、24日には定次は国人衆を引き連れて伊賀へ出発しました。

ここに筒井氏をはじめ、鎌倉時代以来、大和の中世を支配した大和国人たちの多くが大和を去り、名実ともに大和の中世に終焉が訪れたといえるでしょう。

 

この伊賀移封は左遷ととらえる向きもありますが、必ずしもそうとはいえないと思います。

大坂に本拠を置く羽柴政権としては、隣国でなおかつ大国でもある大和に、旧勢力の外様大名を配置し続けるわけにはいかず、定次は早々に移封されることは必至であったと考えられます。

その移封先とされた伊賀は大和の隣国であり、伊勢、近江など、畿内と東国を結ぶ重要な国です。

そこを外様であるうえに若年ながら任されたというのは、定次の力量を積極的に評価しての配置であったと考えられると思います。

定次は先代の順慶が秀吉に臣従して以来、家督を継ぐまで長らく人質として秀吉のもと、その近習となって過ごしています。

外様とはいえ、この間秀吉恩顧の武将として育っており、秀吉としても期待する子飼いの若手武将として畿内への入り口といえる伊賀を任せたんじゃないでしょうか。

期待の証拠としては、伊賀移封に伴って定次は従五位下伊賀守に叙任されただけでなく、秀吉から羽柴の姓を与えられてます。

秀吉の「期待してるぞ」「箔つけてやるからしっかりやってこい」という叱咤が聞こえてきそうなはからいです。

さらに石高20万石は、大和の筒井の直轄領18万石からは2万石の加増となり、十分に栄転といえるでしょう。


豊臣恩顧の大名として

 

伊賀に移った定次は、新たな本拠地の築造を始めます。

天然の要害であることに目をつけたのは、かつて天正伊賀の乱一揆勢が立てこもり、焼亡した平楽寺とそれに隣接する旧伊賀守護仁木氏の館跡一帯でした。

この地に定次が新たに築城したのが上野城です。

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伊賀上野城模擬天守

定次は寒村であった上野の町を城下町として整備、発展させ、現在は伊賀市中心市街となっています。

新領国の経営にまい進する定次ですが、1586(天正14)年までに、嶋左近をはじめとした多くの有力家臣たちが筒井家を去っています。

定次の寵臣であった中坊秀祐らの台頭と専断が、旧臣たちとの軋轢を生んだともいわれていますが、もともと独立心の強い国人出身の家臣が多く、定次が近世型の上意下達式の主従関係を志向する中で、彼らを引き留めきれなかったんじゃないでしょうか。

戦国大名から近世大名に移る中、黒田長政後藤又兵衛藤堂高虎と渡辺勘兵衛など、あくが強い武将たちはしばしば主君とそりが合わず出奔しますが、定次と嶋左近も同様だったのでしょう。

筒井家中の不和はその後もくすぶり続けますが、これが後々定次に悲劇をもたらすことになるのです。


1586(天正14)年9月、秀吉は九州平定戦が始まる中、豊臣姓を賜ります。

翌1587(天正15)年元旦、秀吉は年賀の席で諸大名に九州攻めの部署を発表し、定次も秀長率いる日向方面軍に参加することになりました。

3月に1,500の手勢を率いて出陣し、日向高城攻めなどで活躍します。

1588(天正16)年には他の有力諸大名と並んで豊臣姓を下賜されています。

1590(天正18)年、秀吉の天下統一の総仕上げというべき小田原攻めにも手勢1,500を率いて参陣し、東海道から進軍して小田原の前衛拠点であり、北条氏規が籠る韮山城静岡県伊豆の国市)の攻撃に参加します。

ちなみにこの北条氏規の子孫は、後に河内狭山藩1万1千石の大名として、明治まで後北条氏社稷を守ることになります。

関東に覇を唱えた北条氏の命脈が、遠く関西の地で保たれたのは、なんとも興味深いですね。

韮山城は豊臣方4万に対し、3,640という10分の1に満たない兵力ながら4か月以上持ちこたえ、最後は徳川家康黒田官兵衛の説得で開城し、ついに落ちることはありませんでした。

1592(天正20)年から始まる文禄・慶長の役には3,000の兵を引き連れ名護屋に布陣しましたが、朝鮮へ渡航はしなかったようです。

秀吉死後、1600(慶長5)年に勃発した関ケ原の戦いでは東軍に与します。

会津討伐中に蜂起した西軍側に上野城を奪われましたがこれを自力で奪回。

関ケ原の本戦にも間に合い、2,850の手勢を率いて前線で奮戦しています。

対陣する石田方の武将となっていた嶋左近は、敵陣に翻る筒井の梅鉢紋をどのような思いで見つめたことでしょう。

関ケ原で見事勝ち馬に乗った定次は伊賀上野20万石をまもり、筒井氏は2代にわたって天下分け目の戦いで生き残りを果たしたことになります。

 

しかし、家中でくすぶり続けた不和が、ついに定次に牙をむくことになります。

1608(慶長13)年、定次はこともあろうか寵臣であった中坊秀祐に不行状を幕府に訴えられ、突如改易。

大名家としての筒井氏はここに消滅します。

改易の理由はいろいろと推測されていますが、豊臣氏との緊張状態が徐々に高まる中、20万石という大禄で伊賀という要地にあり、豊臣恩顧の大名と目されていた定次を除くことが大きな目的であったのだろうと思われます。

実際に定次のあとに伊賀に入ったのは、家康の信任篤い藤堂高虎でした。

改易された定次は鳥居忠政のもとに預けられ、1615(慶長20)年3月5日、大坂冬の陣で大坂方に内通した疑いで、嫡男順定と共に自害を命じられました。享年54。

大坂城から放たれた矢の一つに筒井家で使われていたものがあり、その矢によって内応を疑われたということですが、難癖もよいところでしょう。

思わぬ苦戦で徳川方も疑心暗鬼に陥っていたということかもしれません。

定次は後世、嶋左近との不和や家臣に訴えられて改易されるなど「暗愚」であったと評価されることも多いですが、若くして伊賀という要地を任され、秀吉の天下統一に向けた主要な合戦でもきっちり結果を残し、関ケ原でも時勢を見極め家康につくなど、決して暗愚な凡将であったとは思えません。

むしろ家康に危険視されるほどの将器があったからこそ改易の上、最後は命まで奪われたのではないでしょうか。

 

大和国人たちのその後

 

中世大和に割拠した国人たちの筒井氏伊賀転封後の動向を最後にご紹介したいと思います。

 

・箸尾氏

大和では筒井、越智、十市、古市と並ぶ古くからの国人で、筒井氏が大和守護の時代には筒井氏に次ぐ大禄を誇りました。

筒井氏の伊賀転封には従わず、大和に残って秀長、増田長盛に従いますが、関ケ原では西軍についたため改易されます。

大坂の陣では旧筒井系の浪人たちを糾合して大坂城に入城し、戦死したとも大和に逐電したともいわれています。

 

十市

定次の時代には筒井傘下となっており、十市藤政は重臣として上野城の城番を任されるほど重用されましたが、定次改易後は帰農し、上田と家名を変えます。

藤政の義理の叔父遠長は、伊賀に同行せず十市郷に残りましたが、大坂の陣大坂城に入り没落しました。

なお、現在多くの江戸の町屋が残ることで知られる奈良県橿原市今井町の惣年寄筆頭格の今西家は、十市氏の一族で、その邸宅「今西家住宅」は戦国時代の構造洋式を残す八棟造りで国重要文化財に指定されています。

 

・布施氏

定次に従って伊賀に同行しますが、定次改易にともない浪人となります。

大坂の陣大坂城に入り、その後没落することになります。

 

・井戸氏

定次に従って伊賀に同行し、定次改易後は浪人となります。

その後、徳川家臣となり大坂の陣でも軍功をあげて関東に領地を与えられ、旗本として残ります。

 

・松倉氏

定次の伊賀転封に従い右近重信は名張城主8千石に封じられます。

のちに子の重政は秀吉に仕え五條に領地を得て筒井氏から離れます。

関ケ原では東軍、大坂の陣では徳川方につき、その軍功で肥前日野江に4万石に加増転封され、かつての筒井家中では最大の石高を得ることになります。

しかし転封先で圧政をしき、次代の勝家のとき島原の乱が勃発。

勝家は反乱惹起の罪を問われ、江戸時代の大名としては唯一斬首という刑を受け、松倉家は改易されました。

 

・福住氏

当主の福住正次は伊賀転封時に定次と折り合いが悪く福住に逼塞しました。

伊賀の筒井氏改易後、正次は家康に召されて筒井定慶を名乗り、1万石を与えられて郡山城の城番となりますが、大坂の陣に際して大阪方の攻撃に城を放棄し逃亡。

このとき自害したとも福住に逼塞したともいわれ、1万石の領地も失われます。

正次の弟の順斎は別途、家康に仕えており、定慶の没落後に福住に領地を与えられ「筒井」の家名を存続させました。

この旗本筒井氏は幕末まで家名を存続させ、日露和親条約の交渉にあたった筒井政憲(政憲自身は久世氏からの養子)が著名な人物として知られています。