大和徒然草子

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筒井順慶(6)「ブラック家中」織田家での奮闘。大和国衆の中心大名になるまで。

皆さんこんにちは。

 

松永久秀との長年にわたる抗争がようやく決着し、筒井順慶織田信長の配下大名として各地を転戦することになります。

 


転戦の日々

 

松永久秀がほろんだ直後の1577年10月20日、順慶は石山本願寺攻めの付け城である河内の森河内城(大阪府東大阪市)に勤番するよう織田信長から命じられます。

明智光秀丹波攻略に出陣するため、その代わりを命じられたものですが、信貴山城落城が10月10日ですから本当に休みなしですね。

翌年1578年4月には播磨へ出陣します。

これは三木城主、別所長治が織田から離反して毛利輝元についたことから始まった戦いへの参加でした。

6月には神吉城(兵庫県加古川市)攻めに織田信忠のもと、明智光秀滝川一益らとともに参加し、2週間余りをかけて落城させました。

そのまま明智光秀とともに丹波攻めに参加して8月下旬に大和へ帰国しています。

帰国から1か月余りのちの10月7日、大和国内で順慶に従わない戒重、大仏供(だいぶく)の両氏を討伐するため十市城へ出陣したのを皮切りに、10月9日からは吉野の一向衆を攻め、上市、下市、飯貝以下の吉野各郷をことごとく焼き討ちにしました。

12月には摂津有岡城兵庫県伊丹市)主の荒木村重が謀反を起こすと、順慶は信長の命で明智光秀らとともに羽柴秀吉の援軍として再び播磨への出陣を命じらます。

長期籠城戦となった三木城を包囲する付け城の普請や補給物資の搬入などを行い、翌年正月に大和へ帰国しました。

1年のほとんど休みなく陣中で過ごしたといってよいくらい戦いの連続です。

松永久秀荒木村重も「音を上げた」のかもしれない、聞きしにまさる人使いの荒さで、織田家中で働くことの大変さがうかがえる年ですね。

まさに「ブラック企業」も真っ青です。

順慶は懸命にそれに応え続けます。

 

1579年4月には再び播磨への出陣を命じられ一か月半ほど軍役について5月下旬までに帰国しています。

10月15日には摂津有岡城の総攻撃にも参加し、このときは筒井家中にも多数の死者が出ましたが、11月ついに有岡城は陥落しました。

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摂津有岡城

この頃は信長の本願寺攻めがいよいよ最終盤という時期にあり、石山本願寺をはじめ、別所長治の三木城、荒木村重有岡城で壮絶な籠城戦が繰り広げられていた時期です。

このため、畿内の信長配下の大名は交替で攻囲戦への参加を余儀なくされており、順慶も各地を転戦することになったわけです。

翌1580年正月、三木城がついに落城して播磨はほぼ信長の勢力下におかれることになりました。

これによって畿内で信長反抗する勢力はついに石山本願寺を残すのみとなったのです。

本願寺討伐に連動してか、閏3月に順慶は奈良中の釣り鐘を鉄砲鋳造のために徴収しています。

僧侶でもあり、寺社を大切にするイメージも強い順慶なんですが、このあたりは信長配下の武将としてやることはやるといったところでしょうか。

または、順慶だからこそ奈良の寺社も渋々ながらも従ったのかもしれませんね。

8月、石山本願寺はついに開城して10年に及んだ石山合戦はついに終結しました。


「国中一円存知」と郡山城主、筒井順慶の誕生

 

畿内や播磨における順慶の活躍を信長も評価したのか、石山合戦終結後、信長は大和一円支配の中心に順慶をすえます。

 

石山合戦終結直後の8月、信長は順慶に大和一国について郡山城を除くすべての城を破却するよう命じました。

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郡山城。順慶時代の遺構は現在発見されておらず謎に包まれている。

郡山城を除くすべての城を破却するということは、順慶の居城である筒井城も破却せよということです。

筒井城ではなく郡山城を大和の中心に据えようと着想したのは信長なのか、もしくは順慶なのかはわかりません。

信長の着想であれば、交通の要衝にありながらも地形的に城郭としての発展整備に限界があり、洪水の懸念から城下のこれ以上の発展が望めない筒井城ではなく、郡山城に目を付けたのはなかなかの慧眼です。

 

あるいは順慶は前年から筒井城の大規模改修に取り掛かっており、筒井城に限界を感じていたのかもしれません。

それで事前に信長から、「一城残すならどこ?」と聞かれて「じゃあ郡山で」となった可能性もあります。

 

とにもかくにも8月16日から20日にかけ、筒井城を含む大和国平野部、いわゆる国中(くんなか)地域の主要城郭はことごとく破却されました。

とにかく信長、やれといったら急ですね。

やってしまう順慶もすごいのですが、重機もない時代に本当にこんなスピードで壊せるものなんでしょうか。


自身の居城である筒井城も破却した順慶ですが、すぐに郡山には移れなかったようで、11月になってようやく郡山城への入城と「国中一円存知」を朱印状により認められました。

この間、いったいどこにいたのやら。まあ、防御設備は取り払われ、すっかりただのお屋敷になった旧筒井城にいたのかもしれません。

何はともあれ、信長から郡山城とともに「国中一円存知」の朱印状を得ることができた順慶は、新たな居城郡山城に移り、大和の国衆を自らの与力に組み込むこととなります。

実際にこの頃、順慶は反筒井であった多くの国人たちを、信長の上使として大和に来ていた明智光秀滝川一益とともに処刑し、大和国内の国人衆統制をすすめていきます。

これまでの大和国内の争乱では敗れても東山中や他国に逃げ込めば命までは取らないことが多かったのですが、信長の支配下にはいってしまうと逆らう者はなで斬りです。

 

やはり信長は怖いですが、なあなあの「中世」的な処置がまかり通っていた大和に「近世」的な苛烈な処置が順慶を通じて持ち込まれてきたといえるでしょうか。

32歳でまだまだ若い順慶は、なんとか信長のやり方についていけました。

 

少し前後しますが、9月、信長は大和の寺社を含めた全領主に対して検地の差出を命じ、10月には完了させます。

これは各領主の石高を把握して石高に応じた適正な軍役負担を求めるための措置で、順慶を司令官とした大和国内の軍制が確立しました。

郡山城を除く城郭の破却と検地の完了をもって、大和国は本格的に信長の領国に組み込まれ、郡山城の順慶を通じた支配体制が確立することになったのです。

 

しかし順慶に「国中一円存知」の朱印状を与えながら、検地は直接やるところがいかにも信長らしいところです。

「俺(信長)の代官の順慶のいうことは聞け。でも、土地はあくまで俺のもの。」
というわけですね。

順慶は大和国内の検断権や軍事統率権は与えられましたが、処断した国人たちの領地を自領に組み入れるにあたっては、改めて信長から与えられており、大和国内の知行宛行権はあくまで信長のものでした。

 

それでもこの時点で順慶の所領は18万石、与力となった大和国衆の所領も合わせると45万石となります。

戦国時代の兵力動員力は100石あたり2~3人といわれていますから2.5人で計算すると単純計算で11250人。

実に1万以上の大軍を動員できたことになり、織田勢の中でも指折りの大将にのし上がったといえます。

 

さて、信長から突如として本拠地を郡山城に移すよう命じられた順慶。

当時の郡山城の規模は極めて小さく、順慶は大規模な改修を始めます。
明智光秀も普請の応援に来るなど、織田政権を挙げて大和の中心城郭にふさわしい規模への改修を行います。

順慶時代の郡山城の改修は史料によると1581年から1583年の「天主」完成まで続くことになるのですが、今までの郡山城の発掘調査で実のところ順慶時代の遺構は全く見つかっておらず、その実像は謎に包まれています。

おそらく秀長以降の現在の城跡の下に埋まっているのでしょうが、解明される日は来るのでしょうか。

今後、城跡整備が行われた際の発掘調査に注目したいと思います。

 

 

 

天正伊賀の乱と武田攻め

 

大和国内は順慶のもとにほぼ治まったものの、大名となった順慶の転戦はまだ続きます。

 

 

1581年9月、順慶は信長の命により織田信雄を総大将とする伊賀攻めに参加しました。

第2次「天正伊賀の乱」への参戦です。

織田軍は伊賀に6か所から攻め寄せましたが、順慶率いる軍の主力は笠間口(笠間峠)から伊賀に侵攻しました。

 ちなみに現在の笠間峠は、「険道」と名高い県道781号線。

Googleストリートビューすら三重県側に入れない険しい道です。

この峠を越えて名張方面に進撃した順慶ですが、すでに村々の者たちは比自山城(三重県伊賀市)に籠っており、反撃を受けることなく村を焼きながら比自山城まで進軍し、別ルートで進撃してきた蒲生氏郷らと比自山城を包囲しました。

この比自山城の戦いで順慶は伊賀勢の夜襲を受けて大損害を被ります

 さすがは「忍者の国」。奇襲はお手のものというところでしょうか。

しかし多勢に無勢で最終的に伊賀惣国一揆軍は信長に降伏し、10月の中頃に順慶はすべての軍を大和に引き上げます。

天正伊賀の乱では非戦闘員も含めて信長軍による組織的な虐殺が行われていますが、順慶の軍勢もこれに加わっていました。

とにかく信長配下になってから、敵も味方もたくさん亡くなる血なまぐさい戦いの連続になりますね。

 

翌1582年2月には、武田攻めへの出陣を命じられ、明智光秀の軍勢の一員として参戦します。

前年2月、正親町天皇の叡覧のもと、盛大に行われた「馬揃え」では明智光秀とともに大和衆は馬場入りしているため、そのころには順慶は光秀の軍事指揮権のもとにあったと思われます。

よって今回の信濃・甲斐への遠征でも順慶は光秀と行動を共にしました。

順慶にとっては今までで最も遠方への出征となりましたが、武田方に内応者が続出したこともあり織田軍は快進撃を続けます。

3月11日には「天目山の戦い」で武田勝頼、信勝父子は自害。

ここに甲斐武田氏は滅亡します。

順慶の率いた軍勢は4月7日に大和への帰国を果たしましたが、順慶自身は駿河経由の信長の帰国に随行したため、4月21日にようやく大和に帰国しました。

この時きっと初めて順慶は富士山を見たことでしょう。

今でも関西人は富士山を見てテンションが上がる人が多いと思いますが、教養の深い順慶ですから、古くから和歌に読まれた霊峰の姿に、いたく感動したのではないでしょうか。

「モーレツ」な信長の要求に何とか応え、有力大名となった順慶。

いよいよ彼に「その日」が近づいてきていました。

 

 次回はこちらです。

www.yamatotsurezure.com

 

 参考文献

 

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