不調を改善するためには何が必要なのか?
身体の不調の種類は実に様々です。
重い、痺れる、だるい、思ったように動かない、ジクジク痛い、ズキズキ痛む、鈍い痛み、刺されるような痛み・・・
痛い!という症状ひとつを取ってみても、その痛み性質や痛む部位、どんな原因によって痛みが出ているのか?その理由は千差万別です。
それは、たとえ一見同じ病状に見えていても、実は原因がまったく異なることがあります。
いえ、実際には同じ原因や経路から発生している痛みなど、どれ一つとして存在していません。
例えば、長時間の家事やデスクワーク・・・無理な運動によって「五十肩」を発症する方はとても多くいらっしゃいます。
当院にも肩を挙げると痛い!と言われる方は結構な頻度で来院します。
五十肩の最大の特徴は、腕を水平に上げたり、後ろに回すと肩の前面や上面からズキッっと痛みが走ることです。
この、「肩を挙げると痛い!」という症状には、「五十肩」という病名が付けられています。
それでは、この五十肩と呼ばれる症状は皆、同じ原因によって起こっているでしょうか?
例えば、肩の筋肉自体が過負荷によって傷んでしまった方もいれば、慢性的な血流不足によって肩の骨が変形してしまった方、または首の神経が炎症を起こすことによって肩に痛みが走っている方もいます。
中には感染症や栄養不足、自己免疫疾患による免疫異常によって五十肩を発症する方までいるのです。
肩と一見関係がなさそうな「肋骨」が脱臼を起こし、この外れてしまった肋骨が肩の筋肉を押さえつけてしまうことで、肩の痛みを発症する方もいます。
これらは全て五十肩という同じ結果を引き起こす原因となります。
しかし結果だけを見ても、その原因がそれぞれ全く違うのです。
栄養不足で五十肩になっている方にどんな矯正テクニックを使っても肩が治ることはありませんし、逆に骨のズレによって発症している場合、どんな高価なサプリメントを摂取したところで、肩の痛みが治ることはないでしょう。痛み止めならば痛みを一時的に誤魔化せるかもしれませんが。
例えば、腹筋の緊張異常によって骨盤や体幹のバランスが大きく崩れている方がいます。
この方は、「腹筋の線維委縮」によって肩の筋肉に大きな負担がかかっていました。
働けない腹筋の力を、肩の筋肉で代償、肩代わりしてもらうことで補っている状態です。
ただでさえ日頃から過負荷がかかっている肩の筋肉をもみほぐし、血流を改善しても、その痛みの改善は一時的なものとなってしまいます。
それでも痛み止めやマッサージを繰り返して無理に使い続けていると、今度は限界を越えた肩の筋肉が急に痛み出したり、もしくは負担がさらに延長である首に波及し、頸椎捻挫や変形、神経圧迫を起こし始めるかもしれません。
こうなってしまうと厄介です。最善の施術を行っても、完治まではかなりの時間がかかります。
このようなケースの場合、真っ先に行うべきは腹筋の再生と筋力の回復なのです。
本来、肩の筋肉は腹筋ほど強くありません。容積にも限界があるため、腹筋の代わりを務めることは出来ないのです。
インフルエンザの治療薬をコロナウイルスに使っても、それで病気が治ることはありません。
同様に、肩が痛い、腰が痛いからと言って、マッサージや矯正など、一律の治療をしていても、原因を改善できなければ痛みは治らないのです。
効果的な治療を行うために必要なのは、なぜ身体が悪くなったのか?何が起こって痛みを発生しているのか?
正しく診断することが何よりも大切なのです。
痛み止めは薬局に行けばいくらでも売っています。処方箋さえ出してもらえれば薬はカンタンに手に入れることが出来ます。
しかし、「どのような病気なのか?」「原因は何なのか?」が分からなければ、飲むべき薬の見当がつきません。
誤った処方をしてしまえば、病状を悪化させることもあるでしょう。
整体や接骨も全く同じです。
マッサージ、鍼灸、整体、カイロ、骨盤矯正・・・
「どんな種類の治療を受ければ良いのか?」よりも、「どこを治療する必要があるのか?」を見極めることが最も大切なのです。
腰痛、肩こりを放置するリスク
腰痛、肩こりは、日ごろからその痛み、辛さに悩まされている方がとても多い疾患であり、時には国民病とも言われています。
なぜ肩や腰を壊す人がそんなに多いのでしょうか?
その理由は、人が日ごろから腰や肩を傷めるような動作を頻繁に行って生活しているためです。
人間はほかの動物とは違い、生活のほどんどを二足歩行で暮らしています。
場合によっては座りっぱなし、立ちっぱなしの生活を繰り返しているため、頻繁に酷使される腕や肩、そしてずっと全体重を支えなければならない腰には、当然ほかの動物よりも負担がかかります。
例えば、車のメンテナンスを日ごろから怠っていると、エンジンやギヤ、クラッチなど、頻繁に動く部分が真っ先に壊れます。
アクセルブレーキを乱暴に操作しているとタイヤがどんどんすり減るでしょう。
日ごろから愛用しているハンドバッグでも同じことが起こります。
チャックや取手部分など、頻繁に使うアクセサリーはよく壊れますが、普通に使い続けている限りは、胴部分が真っ先に破れるようなことはまずありませんよね。
人間の肩や腰は、全体重を支えつつ手足の負担までも支える役割を持っており、身体の中でも特に酷使されている部位なのです。
人の身体も車やバッグと同じように、頻繁に負担がかかる部位、大きな荷重がかかりやすい部位は、故障を起こしやすいのです。
肩腰は、もしも一度ケガを負ってしまうと、なかなか休まる暇がありません。
そのため、肩や腰は一度傷めてしまうと、完治するまでに長い期間がかかってしまうのです。
軽い肩こりや筋肉疲労による鈍い腰痛の場合、軽い施術やストレッチ、マッサージで筋肉をメンテナンスすれば、その場であっという間に症状が取れてしまいます。
しかし、それはあくまで、「症状が軽い場合」です。
痛みを数か月、ないしは数年放置してきた肩こり、違和感があるにもかかわらず、無理に仕事を続け、痛み止め等でなんとか誤魔化してきた腰痛…
長年患っている症状ほど、一度きりの治療や軽い運動だけでは治りません。
壊れた充電コードを無理に抜き差しして使い続けると、スマートフォン本体の充電端子まで壊れてしまいます。
糖尿病を気づかずに長い間放置してしまうと、失明や内臓障害、手足の切断を余儀なくされることもあります。
一度失明してしまった目は、たとえ糖尿病が完治しても治ることはありません。
故障した身体を放っておくと、そこが原因となってどんどん身体が壊れてしまうのです。
同じように、重症の肩こりを放っておくと、首や背骨の変形、神経障害、血流が止まった筋肉の断裂による五十肩など、重い病気に罹りやすくなります。
そして、一度変形してしまった骨はカンタンには治りません。
最悪の場合、どんなに治療を受けても、ゆがみが一生治らないこともあるでしょう。
著しく変形してしまった骨や、切れてしまった神経、筋肉は、残念ながら完治させることができません。
しかし、どうせ治らないからと言って放っておくと、ますます多くの病気を招き寄せてしまいます。
気づいた時が、身体を治すチャンスです。
これ以上悪くならないように、そしてさらに健康な身体を作ってゆくために、筋肉・関節のメンテナンスを日々意識するようにしましょう。
なぜ人は怒るのか?
人間は、怒る生き物です。
一生を通して、一度も怒ったことがない人はいないでしょう。
他者から悪口を言われた時、邪魔された時、失礼な態度を取られた時、恩を仇で返された時、病気で身体が痛むとき・・・
怒る理由は様々です。
しかし、怒りが起こるその根本の理由は突き詰めてしまえば、「自分の思うとおりに物事が進まなかったから」です。
人間は、常に過去の経験から学び、経験から未来を予想して生きています。
未来を予測する力である「想像力」を用いて、我々は生きるために必要な経験や知識を蓄えることができます。
この記憶力と想像力は予期できる問題を解決するために必要不可欠な素晴らしい能力です。
しかし、それらの予測はあくまでも今まで経験してきた「経験則」を土台として作られるものです。
我々の一生・経験は、宇宙の寿命の長さを考えればほんの一瞬の出来事です。
そんな一瞬の経験だけで、未来の全てが見通せる筈はありません。
我々は未来を完璧に予測することはできません。
将来、いったい何が起こるかは判らないのです。
予想外の出来事に遭遇したとき、今までの経験や想像は役に立ちません。
自分の理解の範疇に収まらない大事件も起こりえます。
我々はそんな予想外の出来事に出くわした時、大きな危機が迫っていると感じます。
「こんなはずはない!」
「想像していた結果と違う!」
怒りとは頭の中の予想と実際の現実、この差異により湧き上がる危機感、恐怖により作られるのです。
自分の理解が及ばない現実。これは今まさに目の前に迫っている危機です。
人間は、この危機的状況を、自分の理解の及ぶように、理想通りの現実に変えようとします。
現実の軌道修正を試みるのです。
思い通りにならない恐怖、危機的な現実。
これらに打ち勝ち、自分の理想通りに軌道修正しようとする意識。
これが怒りとなって顕れます。
言ってみれば、怒りとは困難や危機を乗り越え、生き残るために欠かせない衝動のひとつなのです。
怒りを治める方法
怒りが収まらない人、衝動的に怒ってしまうために悩んでいる人がいます。
中には、怒りに振り回される自分に悩んでいる方もいるでしょう。
しかし、怒りという感情は自分の想像してきた「妄想の未来」「理想の未来」が自分を傷つけた結果として生じるものです。
すなわち、怒りだけを無理に抑えようとしても、それは溢れる湯船の表面を掬い続けるようなものです。
きりがありません。根を絶つ必要があります。
怒りは非現実的な空想により生まれます。
怒りっぽい人は、実は「妄想たくましい」、「空想の世界を生きている」のです。
自分が「こうであって当然」「これが常識」「こうするのが当たり前」と勘違いしている、「自分の非常識な妄想」を見つけましょう。
そして、それを手放しましょう。手放すことができれ、怒りは自然にコントロールできるようになるでしょう。
生きる意味 生存欲と自殺衝動
人は、時に生きる意義やその目的を失うことがある。
そんな時、時としては死を選ぶことも個人の選択の自由にも思える。
しかし、仮に自殺衝動や虚無への希求が湧いた時。
その「死にたい」と内から湧き出る衝動は、果たして本当に自分の意志なのだろうか?
もしもそれが「本能」や「思い込み」によってコントロールされた結果だったとしたら?
果たしてその衝動に従う価値はあるだろうか?
感覚の喪失は、自己の喪失と等しい
我々人間は何のために存在するだろうか?
生物はいったい、何のために??
哲学者の中には、確固たる崇高な目的があって我々は存在していると主張する者もいれば、逆にそのようなものは存在せず、我々はそこらに転がっている、ただの石ころと同じものだと主張する者もいる。
互いの主張は双方ともにもっともらしくは聞こえるが、しかし反面彼らの主張を確たるものとして証明するに至る証拠は、今のところ一切発見されていない。
未来永劫、それらの証拠が発見されることはないかもしれない。
それこそ、意識を持った「神」の存在でも証明されない限り。
そもそも、我々がこのような問いを抱かずにいられないのは、詰まるところ我々が「死」という運命から逃れられないためだ。
死は生物がみな等しく持っている共通のゴール、エンドポイントであり、生物である限り逃れられない宿命でもある。
「死」は、生という苦痛からの永遠の解放とも言えるし、永遠の無と永遠の苦痛の始まりであるともいえるかもしれない。
「存在すること」に対する希求。それが満たされないであろう死は、直感的に考えても恐ろしいものだ。
我々は生物的な「感覚」(視覚や嗅覚、触覚など)を得ることで、初めて、自身が今ここに存在している実感することができる。
そのため物理的、もしくは機能構造的には「自分」という構造そのものは、本来存在していないと言える。が、個が保有する感覚が「自分」という「現象」を構築しているという事実は違いない。
故に我々にとっては、これらの「感覚が破壊される」こと、即ち「死」が自分を含めた一切の世界を失うことと等しいのだ。
生物的に存在する理由
死は恐ろしい。しかし、回避することはできない。
この永遠に終わることのない苦痛に対し、自然界はひとつの答えを恵与してくれる。
自然界の生物は、各々が生き抜く為の方法論こそあれど、実のところ何らかの目的を持って存在しているわけではない。
生き残った者が繁栄し、それ以外の者は消失していく。ただそれだけの事実が支配する世界だ。
ゆえに意図的にこの流れに逆らうことのできる我々は、「ただ生存する」という生物的本能から解放された存在であり、生きる目的を自分自身の意志で自由に決められる希有な存在だと言える。
しかし反面、我々の根幹が生物であるという事実には変わりがなく、死から逃れられないという宿命も変わりない。
そう、生命の存在意義は「存在すること」そのものだ。
それ以上でもそれ以下でもない。
「生存する」という道理を外れた生命は、自然界から淘汰されるように出来ている。
死を安易に享受する者は、自然界では容赦なく淘汰される。
生に対する執着が強い者が選別され、生き残る。この選択は太古より世代を経て繰り返されてきた。
生に対する執着がより強い者だけが生き残るがゆえに、「死」はより大きな苦痛、そして恐怖として経験されるのだ。
地上の生物はすべからく、そうした長い歴史の中で淘汰を繰り返し進化してきた。
意識は生命といえるだろうか?
我々の「意識」の根底は生命に支えられている。
生物としての肉体、そして肉体を構成する細胞がなければ、我々はまた存在することさえ許されない。
しかし、果たして我々は「生命」そのものなのだろうか?
今一度、問わなければならない。
何故ならば、我々は時として「生き延びる事を放棄」するからだ。
例えば、自己嫌悪に陥る事や、幸福という感情を追求すること。これらの感情は「生存すること」そのものとは無関係だ。
寿命が縮んででも喫煙や飲酒を優先する人もあれば、刹那的な幸福を味わうために人生を投げ出す人もいる。
精神的満足を得るために、命を投げ出してしまう人もいる。
食欲や睡眠欲など、生存のために不可欠な欲求を捨ててしまう人さえもいる。
もしも、自分の魂をロボットに移植すれば永遠に生きていられるとしたら?
おそらく、「生き続けたい」と思うならば移植を選択する人は多いに違いない。
その選択が、生物としての死を意味するにも関わらず。
詰まるところ、我々は生物的な「死」が怖いわけではなく、自分の作り出した世界を喪失することが恐ろしいのだ。
生命の目的に逆らうことは悪か?
我々が仮に生命の目的に逆らったからとしても、それ自体が悪とは言えない。
全ての人間を機械に入れ替えたとしても、何かしらの存在から我々に懲罰が下されることもないだろう。
故に、仮に誰かが自殺したとしとも、言い換えればそれは個人の勝手である。
自然界では誰かが特定の役割を担うことによって循環が保たれている。
そして誰かがその役割を放棄しても、空いた穴には必ず代わりの生命が充てられる。
変わりの候補はいくらでもある。これが自然の自己回復作用である。
自然から与えられた役割を放棄した末に待っているものは「自然界からのリストラ」だ。
もしも何らかの不満や鬱憤を晴らすために、己を自死に追い込むことで精神的充足を得ようとしたのならば、その先に待っているのは「自然界からの淘汰」なのだ。
生物は、全ての種が「存在する」という共通の目的を持っている。
生命は存在し続けるために、互いに争い、淘汰し合い、喰い喰われ、生存するという目的に適う者のみを選別してきた。
目的を放棄した生物は、人間を含めて未だ次々と生まれ続けている。しかし、この世界からはすぐに排除されてしまうのだ。
奇妙な結論ではあるが、生物にとっても「生存すること」そのものは、本来生きる目的としては定まっていない。
むしろ、宇宙の法則に「生存すること」を強要されている存在なのである。
生命もまた、宇宙の奴隷に従事することで、はじめて存在することが許されているのだ。
生存に逆らうことが幸福をもたらす保証はない
生きる目的が判らない。死にたくなる。
この感情は、何かを失い湧き上がってきた感情だろうか?
または誰かに隷属させられた結果だろうか?
それとも強い敗北感だろうか?
では、死んだ者はただの敗北者でしかないのだろうか?
生物的な視点から見れば、生き残った勝者もまた生命としての目的に逆らえない奴隷と同じ、即ち敗者である。
生命は宇宙の法則から永遠に逃れることができない、敗北者なのだ。
一見、勝者に見える者は、実は皆等しく敗者なのだ。
しかも、敗北していることに気付いていない。
故に、敗者であるが故に生きる目的を失う必要もないし、また死ねば敗者という訳でもない。
それらは、「人間」という枠組みに囚われているが故に湧き上がってくる感情に過ぎない。
人間社会における「勝者」も「敗者」も、すべからく「人間社会」という枠の内に在る囚人なのだ。
「生きたい」、「死にたい」という情念は、我々が人間であるから、また生命であるが故に生じる感情なのだ。
何かに留まっていたいという想い、執着心がそうさせる。
もしも、生きることが苦痛だと感じるのであれば、人間という歪んだ枠にどっぷり漬かっているが故である。
しかし、死ぬことが苦痛だと感じていても、それもまた同じことである。
湧き上がる衝動。それは、何かに支配されている証拠だ。
そして、支配されていることにさえ気づいていない。
「生か死か」そんな概念に拘るのは、宇宙広しといえども生命くらいなものなのだ。
もしも、あなたに自殺衝動があるならば、今一度問う。
生きることを放棄する。それは自分に本当に幸福をもたらす選択だろうか?
生命を放棄することが自体が悪いことだとは言えない。
しかし、生命を放棄することは果たしてあなたの自由意志による選択なのだろうか?
失った命は戻ってこない。これが宇宙普遍の法則である。
失えば考えることも出来ないだろう。
もしも無知故に選択を誤っていたとしたら、後悔した時には既に手遅れなのだから。
根本から苦痛を治すために必要なこと【体と心】
自分が現在抱えている悩みは、原因が解消されることがなければ、その悩みもまた解決されることはありません。
今回は、そんな話です。
体調不良に陥った身体、そして不調の回復することがない心。
人間は心身の病によって苦痛にあえぎ、安楽に過ごせずに悩まされるものです。
生きる上で全く苦しみを持たない人はいません。
どのような境遇の人でも例外なく、大なり小なりの心身の悩みを抱えて生きています。
様々な苦痛
生きる上で突き当たる壁や、様々な問題があるでしょう。
例えば、お金がない。
人間が現代社会で生きていくためにはお金は絶対必要なものです。
足りなくなれば生きていくことはできません。しかし、必要以上に沢山持っていても様々なトラブルに巻き込まれます。
身体が痛い。
肩の筋肉がガチガチに固まってしまい、腕を動かすだけでもとても辛い。
ただ日常を過ごしているだけで身体の痛みに悩まされていては、やりたいことをやるにも、やるべき仕事も手につきません。
痛みのせいで気が散って、とてもほかの作業に集中することができません。
心の苦しみ。
心の悩みもまた、他の苦痛と等しく、とても苦しいものです。
いつも自分自身が無価値に感じる。存在意義を感じることができない。
ただ自分の存在を消してしまいたくなる。周囲から疎んじられる苦痛。
そのような心の苦痛があれば、生きるための気力がわいてこなくなるばかりか、そもそも生きることそのものを放棄してしまいたくなるでしょう。
心、体、環境…これらは一見するとまったく別個の種類のものに見えますが、苦痛をもたらしているという意味ではすべて共通のものです。
苦痛を解決する方法
そして、これらの苦痛を解決するためには、二通りの方法があります。
それは、今まさに発生している苦痛を一時的に食い止めること。
そして、苦痛を引き起こす根幹を解決し、火元を断つことです。
お金がないために発生している苦痛を止めるためには、お金がなければなりません。
逆に言えば、お金さえあれば、その時点で苦しみは止まります。
銀行でお金を下ろす。ローンで借りる。働いてお金を稼ぐ。もしくは、誰かからお金を融通してもらう。
お金がないことで発生する苦痛は、お金が手に入れば治まります。
しかし、その手に入れたお金を使ってしまえば、またお金がない苦痛は始まります。
たとえ一時しのぎのために多額のお金を金欠で悩んでいる人に渡しても、そのお金を使い果たしてしまえば、また同じ苦痛が再発するのです。
身体でも、同じことが起こります。
肩が痛い、苦しい。あまりにも痛いので、サロンパスやロキソニンで痛みを止めます。肩をマッサージでほぐします。すると、見違えるように肩が軽くなり、スッキリします。もう、痛みに悩まされません。
しかし、数時間経ちしばらくすると、また肩回りがガチガチに張ってくる感覚があります。痛み止めの効果も切れてきます。
するとどうでしょう。また肩の痛みは元通り。痛くてたまりません。また当座をしのぐためには、痛み止めを飲み続けるしかありません。
心の問題も同じです。いつも寂しい。人間関係がうまくいかないことに辟易している。
なかなか認めてもらえない。
この苦痛を誤魔化すために、パチンコにのめり込みます。
パチンコを続けている間は楽しい。興奮できる。日常の苦痛を忘れられる。
しかし、パチンコを止めてしまえば、また現実の自分に引き戻される。また苦痛だらけの日常に逆戻りしてしまいます。
苦痛の根幹を取り除く
お金がない、という苦痛を解決するためには、お金を得るための手段を獲得しなければなりません。
職を探し働く、もしくはそれに準じる行動を起こす必要がありますよね。
しかし、お金を借りるほうが手っ取り早いものです。決して行動を起こした瞬間からその苦痛が取れるわけでもありません。
しかし、努力の結果が実って安定した仕事を獲得することができれば、お金がない!という苦痛に苛まれることはなくなります。
身体の苦痛、肩こりも同じです。肩こりを引き起こす原因となる体幹の筋肉を改善するための運動や、ストレッチ、そして悪い姿勢(スマホ首や長時間の悪姿勢の読書など)を改善する習慣を身につければ、肩こりに悩まされることは無くなります。
しかし、そのためには今までの悪習慣を絶ちきり、従来の生活スタイルを変えなければなりません。
心の問題も同じです。
他人と折り合いが悪いために疎外感を感じるのでしょうか。
すべて、自分の扱いが不当に悪いために発生している苦しみでしょうか?
周囲の人間関係をガラリと変えてしまえば、すべて解決するでしょうか?
時としてはそれが最も良いな選択です。
しかしもしかすると、自分自身の人との付き合い方、考え方に大きな問題があるかもしれません。
もしも自分自身にこそ大きな問題があったならば、たとえ今の人間関係が大きく変わったとしても、また同じような問題がいずれ噴出してくるでしょう。
自分にとって最も身近にいる人間、すなわち自分自身の態度や性格は、依然として変わっていないのです。
自分の在り方を変えるために他人との関係を変えることは有意義ですが、すべてを「他人のせい」にして自分の在り方に固執してしまうと、また似たような人間関係を引き寄せてしまいます。
苦痛を解決するための共通課題
心や身体、そして人生の問題を根幹から解決したいなら、今までの自分の行動パターンを変えること、そして変えたパターンを継続することが必要です。
誤った行動パターンを省みずに繰り返してしまうために、苦痛は繰り返し発生し続けます。
慣れきってしまった行動パターンに執着していると、また同じ苦痛を作り続けるのです。
人間は、習慣化された行動を繰り返すこと安心を感じます。
たとえそれが苦痛を伴ったはずのものでも、同じパターンを繰り返すことには苦痛をあまり感じないのです。
しかし逆に、習慣を変えることに対しては大きな苦痛を感じます。
たとえ問題が悪化していたとしても、習慣を変えることにより起こる苦痛の方がはるかに大きく感じるのです。習慣を変えることは危険だ。未知の危機があるぞ、と。
そうして同じ行動パターンにしがみついている期間が長ければ長いほど、状況は刻々と悪化していきます。
苦痛を根幹から解決するためには、遅かれ早かれ「苦痛の源泉である自分自身のあり方」を変える必要があります。
一時的に苦痛を避けることが悪いわけではありません。
他の問題に集中しなければならない時期もあります。
しかし、抱えている問題に永遠に蓋をしていれば、いずれ必ずその問題はより大きな苦痛となって顕れるようになります。
もともと金遣いが荒い人にたくさんのお金を渡しても、その人がお金の使い方を改めようとしない限りは、また貧乏のどん底に逆戻りしてしまいます。
しかし、立ち直るための資金がなければ、貧乏から脱出することもできません。
虫歯にならないためには、歯を磨く習慣を付けなければいけません。
しかし、一度虫歯になってしまった歯は、その後どれだけ歯を磨いても元通りになることはありません。
現在抱えている問題を乗り越えるためにはお金や薬、そして娯楽は必要です。しかし、同時に苦しみの発生源を解決しなければ、また状況は元の木阿弥になってしまいます。
自分のあり方を変えること。これが苦痛を脱するために必要な課程なのです。
いくら神仏に祈っても、誰かに依りかかっても、自分が変わらない限りは、抱えている問題の種が解決されることはないのです。
発達障害から見る、生きる苦しみ【コミュニケーション】
コミュニケーションに問題を抱える人は、社会に大勢います。
そもそも、何を問題とするかという点においても個人によって様々です。
場合によっては、それは個性と捉えられることもあるでしょう。
しかし、一般的な健常者の視点から見れば、明らかに常識の欠落している人間というのは、何かがおかしい、会話がズレている、態度や仕草が異質などの様々な違和感が感じられるものです。
健常者同士では当たり前のようにこなせる日常会話も、コミュニケーションが困難な人にとっては、会話の内容や意味が理解、特にジェスチャーや感情を受け止めることができないため、日常生活のやり取りにおいて様々な困難を生じるようになります。
彼らは、この「健常者にとって出来て当たり前」のコミュニケーション力を身に付けることが出来ません。
コミュニケーションというものは、お互いの相互作用によるものですので、一方的にどちらかに問題があるから障害となっている訳ではありません。
しかし、99人の目が見える人の中に、たったひとりだけ目の見えない人がいれば、社会的に不利な立場に置かれることは言うまでもないでしょう。
問題となる原因は種々多様ですが、性格由来のコミュ障に限って言えば、大抵は他人に合わせることができない、他人に興味がない、他人の心を理解する意欲が湧かない、または他人の存在を感覚的に理解できない、他人との適切な関りを持つ経験の圧倒的な不足など、他人に注目し、他人とのコミュニケーションを取るための意欲や能力、経験の欠如が見られることが特徴です。
他人に注目することが出来なければ、その大切さや礼儀、作法、会話力を身に付ける大切さ、機会は勿論のこと、その意義さえも理解できないでしょう。
我々は幼少時より無意識のうちに社会に馴染もうとする本能があるため、独力で様々な話術やコミュニケーションを身に付けます。
しかし、これらを学ぼうとする意欲が生来より全くなければ、社会生活に齟齬をきたすことは想像に難くないでしょう。
このようなタイプの発達障害者からすれば、他人に夢中になる人々の気持ちはまったく理解できないでしょうし、他人はただ自分の行動を制限し、束縛したがるだけの邪魔ものだと感じられても不思議ではありません。
感覚的には、会話がまったく成立しない獣の群れと暮らしているようなものです。
人に注目する、人の気持ちを理解するという能力は、彼らにとっては到底理解不能の異星人が使うテレパシーや超能力のようなものです。
しかし、人が人として社会で暮らし、満足に生きていくためには、コミュニケーション力は絶対不可欠な能力であることは言うまでもありません。
友人関係の構築や仕事の獲得、他人を通して学ぶのみならず、買い物から器物の扱い方まで、人間の生活はコミュニケーションを通さなくては不可能です。
それぞれの社会的役割や立場によって要求されるコミュニケーション能もまた異なるものではありますが、特にグローバル化された現代においては、コミュニケーションの比重はより高まってきています。
このように、コミュニケーション力が壊滅的に劣っている人は、現代社会を生き抜くことが非常に困難を極めますが、その障害のあり方も、それは個人によって様々です。
文化や慣習による周囲との違いがこれらを生むこともあれば、本人の持っている身体的特性、脳の障害などによってコミュニケーションそのものを直観的に理解することができない場合もあります。
例えば、対人関係の距離を置くことに対して問題を持つ人にも、2通りタイプが挙げられます。
- 他人の心情を理解できない人
- 他人の社会的立場を理解できない人
人の心情を理解できない人は、他人の心情を慮ることができません。
そのため、そのような人にとっては、社会的立場のみが自他の優劣を決定し、命令する側を決定することが対人関係の全てになります。
そして、他人の都合を鑑みようとせず、心を損なってしまうために、恨みや顰蹙を買ってしまいます。
例えば、会社での上下関係を優先しすぎるあまり、周囲から反感や恨みを買っていることに気付けない。
長年高い地位に胡坐をかいていた結果、その地位を失った時に応酬を受けてしまう。
下の者は上の命令にただ従順に従うことが当然だと思っている。
これは健常者と言われる人々にさえ、度々見られる事象です。(当人がもともと発達障害の傾向を持っていたとも言えます。)
例えばこのように、自分の表面的な地位を得ることだけに近視眼的に執着し続けた結果、他の様々なものを犠牲にしてしまうのです。
逆に、他人の心情ばかりを重んじた結果、社会的な立場を蔑ろにしてしまう人。
彼らは可愛そうな人には同情的です。慈悲心に溢れ、他人にすぐに手を差し伸べようともしますが、逆にすぐに他人の持ちものを欲しがってしまいます。
人間が社会を保つうえで、立場を重んじる、境界を引くという所作も、また大切な能力です。
先生や年長者を敬うことを始め、他人のテリトリーに土足で立ち入ることを躊躇う、失礼を働かないように気を使ったり、他人に余計な気苦労を負わせないように距離を置く。
自他の境界をしっかりと引くことができない人は依存心が強くなってしまい、自分の受け持つべき問題と他人の責任を負うべき問題の区別が付けられません。
自分の立場を利用して預かり知らぬ第三者に迷惑をかけたり、逆に高い立場の人に無理難題を陳情して顰蹙を買ってしまうかもしれません。
場の全てを自分が支配し、牽引していないと気が済まない、という状態になってしまうこともあります。
このような人々は、恐らく自力では自分達がバランスの欠いた状態であると自覚することは難しいでしょう。
彼らに共通しているのは、対人関係の「バランス感覚が欠如している」という点です。
例えば、身体の「平衡感覚」は内耳の三半規管が担っています。この三半規管に損傷をきたし、「バランスを取るための平衡感覚」を失ってしまうと、人間はまともに立つことさえできなくなります。
この「平衡感覚」は人間であればほぼ皆が等しく当たり前のように持っている感覚ですが、もしもこの感覚が失われてしまうと、日常生活さえもまともに過ごすことが難しくなります。
対人関係を構築するためのバランス感覚は、五感などの器官由来の感覚には含まれません。
しかし、一見すると身体は健康なように見えて、このバランス感覚が様々な理由で欠落してしまっている人は、意外と多いのです。
遺伝上の問題であることもありますが、その大半は生育環境由来によるものです。
これらの感覚は共通言語もなく、互いに確認する方法も確立されていません。
そのため、自分がまさか障害を持っていたなど医者から知らされることもありませんし、もしも事実だったとしても、その事実を拒絶してしまう人もいるでしょう。
そんなものは個性のうちだと考えることもできます。
しかし平衡感覚が欠如した人は、それが個性だと言い切れるでしょうか?
少なくとも、それが個性だとしても、自分がそのような状態にあるのだという自認は、その障害を個性へと昇華させるために必要な行為です。
日頃自分が持っている様々な「感覚」、そして他人との「感覚の相違」。
ここにスポットライトを当て、内観(観察)を行うことで、自分の特徴や傾向、場合によっては大きな弱点が見えてきます。
自分の弱点を直視するのは、辛いことです。
しかし、もし自分の持つ障害に苦しんでいたとしても、周囲が自分に合わせてさえくれれば問題が解決するというケースは、現実的にはほとんどありません。
自分の足は自分で動かさなければどうにもなりません。目を背け、サボってきたのは自分なのです。
障害を克服するためには、自力で立ち上がる努力と勇気が必要です。
障害があろうとなかろうと、人間ならば誰しもが人生で克服すべき何らかの問題を抱えているものです。
そのための支援を貰うことはできても、最終的に自分の問題は自分自身で解決しなければなりません。
アドラーの心理学でも、この点はよく取り上げられていますね。
他人の抱える問題は、他人が自力で解決しなければなりません。自分が抱え込む必要はありません。
であるならば、自分の問題は自分が解決する以外にないのです。
人生を通して自分に何が欠けていたのか?どのように乗り越えたら良いのか?苦痛と正面から向き合い、そして乗り越えることができれば、それは今後の人生を通して生きる自信にも繋がります。
こればかりは、年齢は関係ありません。放っておいた年数の分、成長が止まってしまっています。
むしろ年齢が培った余計なプライドが、自身の成長を阻害してしまうかもしれません。
苦痛の原点を他人に求めるのではなく、自分自身の内面に求めることは、自己を成長させる為にとても大切なことなのです。
私は障害を持つ人を差別したいわけではありません。
障害を持つ人が、その障害を自分が持っていることを自認できているか?
障害を克服するためには、この点が極めて重要なのです。
私自身も自分に障害を感じることは日常茶飯事ですから。
誰しもが、ある程度は障害者です。
しかし、自分の持つ「生きる上での障害」を自認できていない人は、自分の生き辛さや苦しみ原因を、大抵は他人に求めてしまいます。
善と悪について6【善意による悪行】
世の中、様々な善悪の判断基準がありますが、実際のところ善悪の基準は曖昧なものです。
悪行が善行となることがあれば、必要悪も世の中には存在します。
逆に当然、善意が結果として悪行となることもあります。
サボテンという植物があります。
サボテンは、主に乾燥地帯や砂漠に好んで生えており、生きるためにはほとんど水を必要としません。
逆に、水があまりにも多すぎると、根腐れを起こして枯れてしまいます。
しかし、サボテンを育てるためには水を与えすぎてはいけない!という知識を知らない人は、他の植物と同じようにサボテンにも水を与えすぎてしまうでしょう。
サボテンに水を与えた人は、純粋に善意で施しをしているわけですが、結果としてサボテンを枯らし、死に追いやってしまいます。
食べ物の好き嫌いが強すぎて偏食の傾向が強いと、ビタミン、蛋白、ミネラル・・・様々な栄養素が不足し、栄養不良になってしまいます。
過度な偏食を長期に渡り繰り返した結果、骨粗鬆症や失明、意識混濁など様々な弊害が起こることが知られています。
しかし、だからといって何でも食べることを強要すると、命に関わることもあります。
子供の好き嫌いを無くさせようとして、善意で給食を完食させようする先生。
その子供はそばアレルギーであるにも関わらず、無理に給食のお蕎麦を食べることを強要してしまいました。
結果、その子供は呼吸困難を起こしてしまいましたが、病院でなんとか一命を取り留め、事なきを得ました。
老衰間近の重篤なご老人。彼を活かすためには人工心肺装置と投薬、医師のバイタル管理が必須です。たとえ死にそうだとしても、その老人を見捨てることなど善意が許しません。
しかし、その老体を生かすために、一日500万円の資金が健康保険から支払われます。
医師の人件費、薬品と装置の費用は決して安いものではありません。一人を生かすために他の人々に莫大な金銭的負担を強いることは善行と言えるでしょうか?
「猫が可愛そうだから」という理由で、何も考えずに餌を無尽蔵にばら撒く人がいます。
餌を沢山もらった結果、その野良猫は子供をどんどん増やします。
餌を与え続けた結果、飢えた猫は減るどころかむしろ増える一方です。
しかも、増えた猫達が近所にウンチやおしっこを撒き散らし、現在も近隣住民に迷惑をかけ続けています。
強権的な支配者を打ち倒し、市民の平等と公平を尊重し、真の平和と安寧を築こうと尽力した男がいました。
彼の名を、ポルポトと言います。彼が持っていたのは、純粋な善意でした。
彼にとっては、人間同士の格差を生み出すような教育、支配体制のすべてが敵でした。
彼にとって教育というのは、人間同士の格差を拡大するためだけに存在していたのです。
現実世界に本当にあるべき天国を築こうとしたのです。あるがままの原始の生活に帰る。彼は原始共産主義という思想を打ち立てました。
彼にとっては世に君臨する支配者、インテリのすべてが敵でした。追放するだけでは飽き足らず、原始共産主義のために存在することが許されない人間を全員殺したのです。
結果的に国からは農耕・医療・文明や書物といった近代文化がほぼ一掃されました。
近代的な知識を持つ国民のほとんどが虐殺され、無知の子供のみが残されるという結果のみが残りました。
動物を殺して肉を食べるような残酷な事はできない。完全菜食主義、ヴィーガンの思想は善意一色です。
しかし、人間が正しく育ち、身体を正しく成長させるためにはタンパク質が必須です。何も考えずに無理に菜食ばかりをしていれば、肉から取れるであろうはずの必須アミノ酸はどうしても不足してしまいます。
正しい知識もなく生まれたばかりの幼児にヴィーガン食を強要し、善意のうちに、無意識に子供を餓死させてしまう人が、近年のアメリカでは続出しています。
彼らは子供を虐待した無慈悲な親として捕まりました。
根性さえ鍛えれば勝てる。そう思い込んでいた熱心なチームトレーナーがいました。
根性を身につけることが最優先!
彼は、根性を鍛えるためならば学生を殴ることも辞しませんでした。
結局、暴力を働いたとして学生の親族から訴えられてしまい、居場所を失い、学校を辞職することとなりました。
どんなに善意で行動を起こしたとしても、それが必ず願った結果になるとは限りません。
特に、狭い視野で狭い範囲しか見ていなかったり、特定の善だけに執着し、起こした行動の結果を自分で受け止めることができなければ、結果から目を背けた分だけ、その責任から逃れることは出来なくなってしまいます。
赤信号を見ていなければ、渡っても良いことにはなりませんよね。
自分が為した行為に対してその結果の責任を直視し、責任を取ろうとしなければ、自分が悪行を働いている事にさえ気づくことができません。
無知は罪である。と申します。
どのような善意があったとしても、その行動は無知であれば悪となり、善悪の判断基準を知らなければ善悪の区別をつけることもできません。
痛みを知らなければ、人を殴ってもそれを悪いことだと理解できないのです。
真の意味で善行を成そうとするならば、自分の行動に対して自分が責任を持つ姿勢が重要です。
自分自身が引き起こした結果を正しく見定めることが出来なければ、後の自分の行動を修正することもできません。
たとえどんなに悲惨な結果になったとしても、そこで反省し、修正した時にこそ、自分の善意を貫く意思と真価が発揮されるのです。