最恐スポット「山の牧場」中山氏の疑問への回答(3/26加筆) | ANIREISHA~アニメ、霊的スポット、旧車等~

ANIREISHA~アニメ、霊的スポット、旧車等~

一部のアニメ、ミステリースポット、廃墟、漫画、旧車とミニカー、日々のこと等

※3/26夜、当記事は一部加筆・修正した。

【先入観は捨てよ】

昨日のブログでは次回、西日本最恐スポット「山の牧場」での霊の感知法を紹介する、と記したが、それより先に同スポットを世に広めた怪談蒐集家、中山市朗氏等が抱くいくつかの謎について回答(考察)したい。

 

(1)  使用感のない牛舎

当該牧場「但馬朝日牧場」(通称「朝日牧場」)を運営していた「但馬乳肉協同組合」は、1970年に設立された後、資金繰りの悪化や経営者等の交代により、何度か休業している。そして再開した際、建物を増改築したり、設備を新規導入することがあった。

 

1970年、例の神戸の医師が経営者になったものの、道楽的に運営していたため、ほどなく経営から撤退した。それからも何度か経営者が変わるたび、休業、再開を繰り返し、1982年、旧和田山町からの要請を受け(指定管理者制度のようなものか)、新たな経営者が施設を一部改築し、牧場を再開させた。この体制で1998年の廃業まで続く。

 

中山氏が最初に訪れた1982年は、まさに新体制で牧場が再開に向けて準備していた時期。だから牛舎の鉄柵がピカピカ等、使用感がなかった。

(2)  階段のない二階建て建物

これについては前回も説明したが、1990年、北野誠氏の番組取材に於いて、牧場の従業員は二棟ある階段のない二階建て建物(事務所棟と宿舎棟)の、その間に空中渡り廊下を擁す建物がかつてあったことを証言した。

 

 

しかしこの証言について中山氏や仲間の放送作家たちは、その建物の跡地に土台となる基礎が見当たらないことや、1982年時は、宿舎棟の一階部の上に庇があったこと等を理由に、事務所棟と宿舎棟は最初から独立した建物で、渡り廊下はなく、従業員は嘘をついている、と決めつけている。

 

上れない2階は監禁部屋だとか、荒唐無稽な説も出ているが、取材時の従業員の顔や態度を見る限り、嘘をついているようには見えない。それに何と言っても、事務所棟寄りに一部基礎があることが動画(2010年代だったか)で紹介されていた。空中渡り廊下が宿舎棟の庇上部まで達し、そこで外壁のドアを開け、中に入るようになっていたのだろう。

私は過去、車道がない所にあるツリーハウスや小屋、ログハウス等を何度も見たことがあるが、この空中渡り廊下を擁す建物のデザインが思い浮かぶ。西の事務所棟と東の宿舎棟の、それぞれ二階外壁にあるドア同士を、屋根付き空中渡り廊下で結び、その中間の支柱部から南に階段を地面まで伸ばす。

 

 

これならば、各棟に階段がなくても、それぞれの二階に上がることができる。撤去されたのは、台風や豪雨で背後から土砂に押し流されたのかも知れない。新たにその建物を再建するより、各棟の一階の天井をぶち抜いて、簡易階段を付けた方が安上がりだったのだろう。

 

(3)  建設資材の運搬法

牧場の各建物の中で、一番大きな建設資材は、牛舎の屋根のアーチ部の鉄骨。その長さ12メートル。中山氏たちはこの巨大資材の運搬法が謎だと言っているが、私からすれば謎等どこにも存在しない。

中山氏たちは、牧場に到る道路は普通車がぎりぎり通れる幅員しかなく、索道を設置したとしてもその痕跡がなく、ヘリコプターを利用するにしても費用対効果がない、との見解だが、そもそもこの認識が誤り。

 

 

国土地理院の地形図を見て貰いたいのだが、県道から牧場までの道路は二重線で記載されている。普通自動車や2トン車しか通れない道路は一本線の実線。二重線には三種類あり、一番道路の幅員が狭いものは、幅員3.0~5.5m、二番目は5.5~13.0m。

 

紙媒体の当該地形図は持ってないから、どの二重線かは分からないが、牧場へ向かう道路は確実に4トン以上のトラックが通行可。それなら12mの鉄骨も運搬できる。牧場が建設された1970年代初頭から現在まで、道路の拡幅は殆ど行われていないと思うが、土砂崩れの際、復旧時に少し広がった可能性はないこともない。

こう言うと中山氏は「そんなアホな。スカイライン(日産)がギリギリ通れる道幅だったんやで。」と反論することと思う。が、それは道路の両側に雑草や雑木が繁茂していたから、そのように感じただけ。また、コンクリート舗装されたことでやや幅が狭く感じるようになったかも知れない。しかし国土地理院の地形図と航空写真は嘘をつかない。

 

 

(4)  牛が少な過ぎる

牛舎の規模に対して、牛の数が少な過ぎる、という指摘もあるが、ここの牧場の牛は普通の牛ではなく、種牛。だから頭数が少なくて当たり前。それに常時何頭か牛を貸し出していたことも考えられる。

 

不釣り合いな大きな牛舎があるのは、開業当初の医師が道楽的に運営していた牧場だったからだろう。工事も建設業者ではなく、素人が行ったような杜撰なもので、違法建築に該当する。

また、中山氏や北野氏が行ってなかった時期、牛舎の一棟を貸し出していたことも考えられる。種牛専門牧場になったのは、1982年に但馬乳肉協同組合を受け継ぎ、1998年まで運営していた組織体制時。

(5)トイレが多過ぎる

中山氏が最初訪れた時は牧場にトイレはなかった。これも牧場再開に向けて改装中だったことが考えられる。しかし前回説明したように1990年には牛舎に小便器が20~30、大便器が2基ほどあった。

 

これを異常だと中山氏等は考えているが、牧場の従業員は、研修やキャンプ利用者のためだと説明していた。この牧場は経営者が変わってからは軌道に乗っていたようで、品評会等で何度も優秀な成績を修めている。当然、全国から視察や研修要請があったことだろう。

 

キャンプは地元の小学校の教育の一環、という以外に一般利用もされていた時期があった様子。研修とキャンプが重なった時のために、便器の数が多かったことが考えられる。小学校は分校と本校が合同でキャンプを行っていたから、人数もある程度いたはず。

(6)女性が暮らしていた痕跡

前回述べたように、その後、宿舎棟の2階には女性用ベッドやファンシーケース等が置かれ、北野氏が何度目かに訪ねた際は、ベッドの上に鍼灸院の名刺が置かれていた。但し、記載の電話番号、郵便番号、住所等は皆、出鱈目だった。

 

中山氏等はこんな不便な立地と住みづらい建物に女性が暮らしていたことは謎でしかない旨、語っていたが、以前、火垂るの墓の疑似聖地記事で写真を紹介したように、2010年代に高知県南国市の海軍の防空壕を訪れた時、やはり中高年女性が暮らしていた痕跡があった。2000年代半ばにはそんな痕跡はなかった。だから「こんな所で女性が暮らすはずはない」という先入観は捨てるべき。

イベントバナー

しかし女性が宿舎棟で暮らしていたとは限らない。前のオーナーの医師の知り合いの鍼灸師が、頼まれてここで牧場関係者の知り合いの中高年女性たちに対して施術していた、ということも考えられる。

 

(7)キャデラック・リムジン

過去、牧場にキャデラックのリムジンが2台止まっていたことを根拠に、反社が牧場を助成金詐欺に利用していたとか、UFO目撃者を拉致するメン・イン・ブラックが出没していた等の説もあるが、これも先入観によるお門違いの説という他ない。

私も何度かあまり人が入らない山奥の林道(終点は行き止まり)で黒塗りの高級車を目撃したことがあるが、一部の金持ちの中には、そういう車好きがいる。ただそれだけのこと。品評会等で毎回好成績をおさめていた牧場の経営者なら、分限者であることは間違いない。

 

他にも囁かれている小さい謎は沢山あるが、取り上げるまでもないだろう。

次回こそ、霊の感知法を紹介したいが、既に前回の記事でネタバレしているから、投稿する意味はないか。

意味はなくても記事を投稿して欲しい、という人は次のバナーをクリックミー。

ブログランキング・にほんブログ村へ