昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§48.斑鳩文化圏と法隆寺の創建。

 さてお気付きのように、図.47bでは定説に違えて法隆寺の瓦を一番最初に掲げました。それは、もし法隆寺が川原寺の後に出来た寺ならば、おそらく法隆寺式の瓦と言うよりも斑鳩文化圏そのものが存在しなかったと思われるからです。なぜなら、川原寺に続く薬師寺、藤原宮、紀寺、大官大寺、そして平城宮は全て川原寺式の蓮弁文様を持つ瓦が使われているからです。つまり、川原寺式にはそれほどの強い力があるのです。また、このことは、川原寺式以前とはいえ法隆寺式が広がったのは、法隆寺式にも強い力があったということを同時に教えてもいるのです。
 そもそも法隆寺は官寺です。しかも大和を遠く離れた奈良の時代、法隆寺はなおもその伽藍の規模を拡大し続けています。それは、この寺が奈良の時代に於いても官寺の源流としてなおも位置づけられていたからではないだろうか。そして、なによりも川原寺式が成立する以前に斑鳩文化圏は成立していたということです。
 では、それならば斑鳩文化圏が成立するにはどれほどの時間を必要としたのだろうか。思うに、川原寺造営開始以前に少なくとも10年以上の歳月の隔たりが必要ではなかったろうか。これは前章でも述べたことですが、寺がほぼ完成するのに10年以上を要します。薬師寺は天武13年(684)以降の造営で、文武2年(698)に僧衆を住まわせていますから、完成までに14年ということでしょうか。ところで法隆寺の場合、薬師如来光背銘から667年に薬師像が寺に収められたことが分かります。つまりこの時期の法隆寺には、少なくとも金堂は完成していたということになります。
 当時、寺の造営は、普通金堂を先に建てています。大官大寺では、そうであったことが発掘調査の結果から確かめられています。では、金堂の完成にはどの位の時間を要するのだろうか。薬師寺では持統2年(688)に無遮大会が行われています。おそらくこの時期に金堂が完成したのだと思われます。これは造営開始より4年目という事になります。そうすると、法隆寺の造営開始は663年以前ということになりそうです。
 そうなると、薬師寺が684年以降、川原寺が673年以降、そして法隆寺が663年頃ということになり、ほぼ10年の間隔で官寺が作られた事になるようです。そして、これにかかわっているのが東宮聖王と小治田大王天皇、つまり斑鳩文化圏は天武の太子時代の賜物ということになります。またそうであったからこそ、やがては廃れていることになる法隆寺式の瓦がこの時期に限って西日本に広がっていったということなのでしょう。

西海防衛と寺と山城

 さて、法隆寺の造営開始が663年以前ということになるのですが、この663年という年は朝鮮半島白村江での羅唐同盟軍との最後の戦いの年、日本の百済救援策が失敗に終わった年でもあります。『日本書紀』によれば、百済滅亡の年(660)に天皇駿河国百済救援のための船を作らせています。そして天皇は、その翌年の正月早々九州に向けて出立しています。そして、日本はこの年から663年までの3年間に3万以上もの百済救援のための将兵を半島に送り続けたのです。思うに、この戦いは日本の古代史上最初で最後の最大規模の征戦、しかも敗退だったと見えます。そして日本は、この敗退の年の翌年から、西日本の各地に水城や山城を築き、さらには都を近江大津へ遷して羅唐同盟軍の侵入に備えています。
 ところで、羅唐同盟軍の侵入に備えて西日本各地に築いたのは水城や山城だけだったのだろうか。思うに、寺もまたそうではなかったか。『日本書紀』には、天智6年(667)11月に、倭国の高安城讃岐国山田郡の屋嶋城、対馬国の金田城を築くとあります。この天智6年、つまり667年というのは法隆寺金堂薬師如来像の出来た年でもあります。そして法隆寺は、平群谷を挟んで高安城の東に位置し、大和の西の要の地にあります。思うに、西日本に築かれた法隆寺式の創建瓦を持つ寺の多くはこの時期に創建されたものではないだろうか。
 白村江での敗退後、日本は国土防衛に心血を注いだ。おそらくは、神仏にも頼ったことでしょう。伊勢神宮、そして出雲大社、それらはこうした緊迫した状況のなかで生まれたのではないだろうか。おそらく、こうした緊迫した状況は、690年の武周王朝の成立、あるいは大宝2年(702)の遣唐使の派遣まで続いたのではないだろうか。都を遠く離れた東国に立つ那須国造碑に永昌元年(689)という唐の元号が刻まれています。これは、当時の日本がいかに唐の動向に気を遣っていたかの表れと見えます。つまり、こうしたなかで法隆寺を手始めとして西日本の寺が出来ていったということです。
 それにつけても、また国を護るためとはいえ、山城の築造に寺院の建立、西日本の民の苦労は如何ばかりであったろうか。天武はその5年(676)に西国にある封戸の税を東国に替えさせています。おそらく、民の負担の軽減と山城や寺院の管理運営に当てたのだと思います。

 さて、本来なら吉備池廃寺並みの伽藍規模を誇ったであろう法隆寺。また、本来なら大官大寺並みの伽藍規模を誇ったであろう川原寺。しかし、普通規模の伽藍となった法隆寺と川原寺。思うに、それも以上述べたことによるものだとすれば、当然の結果と言えるのではないだろうか。また、壬申の乱で東国の民を動かしたのも、あるいはそうしたことと関係があるのではないだろうか。また、「古事記序」や『日本書紀』は天武の偉業を大きく伝えるが、天武の営んだ飛鳥浄御原宮は難波長柄豊碕宮に比べて規模も小さく朝堂も揃ってはいない。まるで時代が逆行したかのようにも見えるが、これも又そうしたことによるものだとすれば、やはり当然の結果というものなのかもしれません。
 ところで、飛鳥浄御原宮という呼び名は天武の末年につけられた名前です。それ以前は如何呼んでいたのだろうか。後の岡本宮か、それとも高市宮か。また、天武は如何呼ばれていたのだろう。後の岡本天皇か、それとも武市天皇か。