昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

敗戦国日本。(どこ吹く風 d12 社会と意識)

 勝てば官軍、負ければ賊軍。この言葉ほど明治維新と直結した言葉はない。言葉の意味は、たとえ道理に合わなくとも、戦いに勝った者は正義となり、負けた者は不義になるということ。そして、明治維新薩長土肥軍に負けた幕府軍が噛み締めた言葉でもある。

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 あれは二十代そこそこ、そう今から50年近くも前1970年頃のことです。私は会津生まれの男と東京の片隅でふと知り合ったことがありました。男は私の出身地を聞くと、何故か握手の手を差し伸べ私の手を強く握り締めました。
 また、それから十数年ほど経った頃ですが、私は郡山出身の老人と知り合ったことがあります。老人は私の出身地を聞くと、会津生まれの男と同じように、私に握手の手を差し伸べ私の手を強く握り締めました。
 私が生まれ育ったのは四国の愛媛です。明治維新の折、西日本で唯一賊軍とされた県です。しかし、私は彼らに会うまではそのことは知りませんでした。それどころか、司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』等から、愛媛を明治維新に貢献した県とまでも思っていたくらいです。
 それにしても、明治維新より百数十年を経て尚且つ「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉を噛み締めていた男と老人の無念と郷土への愛の強さ、思うにこれこそが人の歴史というものかもしれません。
 思うに、男も老人も私にとっては見ず知らずのうちに酒を酌み交わした仲でしかありません。しかし、彼らが無言のうちに私の目を見つめ、私の手を強く握り締めたことを私は今でもはっきりと覚えています。そして、このことを思い出す度に、なぜか三波春夫のチャンチキおけさを口ずさんでしまいます。

月がわびしい 露地裏の  屋台の酒の ほろ苦さ
知らぬ同士が 小皿叩いて チャンチキおけさ  おけさ切なや やるせなや

 ところで、最近再び韓国との関係が悪化しているということらしいのですが、沖縄の基地問題と同様に時が解決してくれるというものではないようです。思うに、そこには加害者と被害者という立場の違いと、そして歴史認識の違いがあるようです。

 立場が変われば、考えも変わる。刑事ドラマでは、窮地に追い込まれ犯罪に走った犯人の常套句です。また、被害者が加害者となったり加害者が被害者となったりすることも刑事ドラマではよく見かける筋書きです。しかし、韓国と沖縄の場合、立場が変わることは先ずあり得ません。それが歴史というもです。
 歴史が変わらない限り、日本と日本政府のおかれた立場は変わりません。しかし、日本の場合、歴史認識は変えられるのではないだろうか。私の歴史認識が変わったように。
 私の歴史認識会津の男や郡山の老人と会うことで大きく変わりました。私がこのブログで通説とは違った歴史を述べるのも、このことがきっかけの一つとなっているのです。思うに、歴史を変えることはできないが、歴史認識は変えられる。歴史認識が変われば歴史の矛盾が見えてきます。そして、矛盾を見つけ出せば、あるいは歴史が変わるのかも知れません。

 さて、1945年(昭和20年)8月14日、日本政府はポツダム宣言の受諾を連合国側に通告をしました。そして同年9月2日には、日本政府は東京湾内に停泊する米戦艦ミズーリの甲板で降伏文書に調印をしました。ここに、明治維新より80年近く続いた東京幕府は瓦解した。
 この時、日本人が噛み締めた言葉は「国破れて山河あり」だったという。しかし、極東軍事裁判からも分かるように、この時の日本が噛み締めなければならなかったのは、嘗てこの政府が旧幕府軍になめさせた「勝てば官軍、負ければ賊軍」ではなかったか。

 朝鮮が日本より解放されて70年余り。また、朝鮮動乱後の韓国からだと70年に少し足りません。まして、沖縄に至っては本土復帰より50年にも満ちません。
 白河以北一山百文の罵声の中で、薩長土肥の官軍に蹂躙された賊軍奥羽越列藩同盟。思うに、この勝てば官軍負ければ賊軍という明治維新より百数十年を経て、なお無念を噛み締めていた男や老人がこの日本に居たことを日本は知っているのだろうか。…

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なぁーんも なぁーんも
寛容 寛容
へば 寛容

何事も寛容寛容へば寛容、誠惶誠恐、頓首頓首。