昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§1.記紀の中の遺物を拾え。

 これは、古代雑記の第一弾として書き始めたものです。そのため、前置きが少々長くなりますことを先ずお詫びしておきます。

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 とうねんとって二千云百云十歳、実は何を隠しましょう、私はかの有名な東方朔なのでございます。大昔より長きに渡り、この世の嘘と偽りを頭の禿げるほど目の当たりにしてきた爺チャンにございます。

 さて、これから私が申し上げますことは、わが友のそのまたの友でありまする太安万呂が編纂したとされる、あるいはそうではないとされる『古事記』と『日本書紀』についてであります。題して、『太安万侶の遺産 記紀の設計図』とさせていただきました。また、あつかましいことではございますが、ペンネームを斑鳩東方朔とさせていただきました。
 なお、斑鳩東方朔と名乗りますのは、柿食って千数百年を斑鳩で暮らしてまいりました所以にございます。ただ、なにぶん遠い昔のこと、千数百年も前のことでございます。多少の記憶違いはあろうとは思いますが、「講釈師、見てきたように嘘をつき」などでは決してございません。また、そうはならないように誰もが目にし、耳にすることのできる資料だけをを用いまして、「記紀」の中にある歴史の論理、即ち嘘と偽りの決まりごとについて一億分の一の立場から述べさせていただきたく存じます。嘘と偽りの決まりごとがわかれば、「記紀」の中の史実もまた見えてくるものなのでございます。

 思うに、歴史は勝者が書き残す。いかなる歴史書に対しても言い切ることのできる決まり文句ではあります。しかし、なぜ書き残さなければならなかったのでしょうか。勝者の悲しい性なのでしょうか。三千年近くを生きてまいりました私ですが、残念ながらこの勝者の悲しい性を端的に表現した決まり文句を耳にしたことは一度もございません。
 思いますに、歴史が勝者の歴史であるということは変えようのない事実であります。しかし、世は常に移り変わり行くもの、勝者もまた移り変わり行くものにございます。勝者といえども、勝者として振舞っていられるのは生きている間だけのこと、死んでしまえば敗者も同じ、どれほどの多くを書き残そうと、すべてが正確に伝え残されるというわけでは決してございません。しかし、それにもかかわらず、世界にはたくさんの歴史が残されています。無論、「記紀」もまたそれらの一部であります。…≪著者挨拶にかえまして≫

干支という遺物

 今日、『古事記』には偽書説、『日本書紀』には改竄説が存在します。「記紀」は今もって不可解な書物とされています。しかし、考えてみれば世は移り行くもの、ましてや嘘と偽りのはざまで暮す者のいたしますこと、それもいたしかたのないことにございます。それに、たとえ偽書にしろ改竄にしろ、これもまた立派な資料でございます。「記紀」を読み解く上で大事なことは、その最新の資料つまり最終的に出来上がったのはいつ頃か、そしてそのときの勝者すなわち主役は誰なのかということなのでございます。

記紀」の顔

 我々に語りかける「記紀」には口もあれば、当然顔もあります。それが素顔であるかはともかく、それは神武天皇の顔であったり聖徳太子の顔であったりもします。しかし、神武天皇聖徳太子が「記紀」の主役というわけではありません。主役は、「記紀」の中には存在しておりません。最初にも述べましたが、彼らはたとえ架空の者であったとしても「記紀」の中ではすでに過去の存在で、勝者ではありません。また、誰もがよく言う『日本書紀』の主役は天武天皇、というのも間違いです。なぜなら天武天皇にもやはり素顔があるからです。素顔がありながら素顔が見えない、それは偽りの仮面を押し付けられている敗者だという証に他ならないのです。

 周知のように、英雄や聖者の話、人を感動させる悲しい話や美しい話、それらのほとんどは作り話です。「記紀」もまたその例外ではないでしょう。しかし作り話からでも何らかの事実は引き出せます。作者の考え方、素材の使い方。少なくともこの二つは引き出せるはずです。
 「記紀」の作者の考え方は、神武や天武そして聖徳太子等の物語を読めばあるていどは解ります。しかし、物語は仮面そのものであって、素顔ではありません。素顔、素顔の素材を見つけなくてはなりません。幸いなことに物語をすべて取り除くと残るものがあります。それが素顔の素材です。

素顔の素材

 その素材とはいったい何なのか。それは干支であります。周知のように、『古事記』は崩年の干支が注記された物語風の史書です。一方、『日本書紀』は暦日の干支に物語記事を付け加えた日誌風な史書です。ところで、こうした物語中に埋もれている干支、何かに似ているとは思いませんか。物語の中に埋もれているもの。堆積物の中に埋もれているもの。そう、これは考古学でいう遺物にあたるものです。遺物はそれが化石であれ、骨であれ、加工された石器であれ、それ自体にうそ偽りはありません。干支もまた同じです。

 さて、素材がわかりましたので、先ずはその素材の吟味をいたしましょう。吟味と申しましても、今日残っている「記紀」はすべてが「写本」本です。正否を決めようというのではありません。どの干支を用いればよいかということであります。幸か不幸か、『古事記』には崩年干支しかありません。その是非はともかく、すべてを利用するほかはありません。逆に、『日本書紀』には数え切れないくらいの干支があります。しかし、都合のよいことに、太歳紀年の干支が程よくありますのでこれを利用いたしましょう。
 なお、『古事記』の干支の誤写は復元できませんが、『日本書紀』ではそれが可能となります。太歳紀年干支のある箇所は特別に記事が多く、そのため暦日干支もまた多くなっています。つまり、暦日干支はその年特有のものですから、それに合う年を探すことで復元が可能となるわけです。また、太歳干支のほとんどは天皇の即位元年に当たるため、歴代の天皇の治世とつき合わせることによっても復元が可能となります。

 最後に、素材の使われ方について考えてみましょう。これは、干支という化石骨をどのように並べれば恐竜の骨格標本のようにできるかという問題でもあります。これが可能になりますと、足りない素材も補えますし、余分に紛れ込んだ素材をも取り除けます。そして何より『古事記』と『日本書紀』の見えなかった関係も見えてまいります。

1500と1年分の長方形の世界

 「記紀」は今日では冊子本として書店に並んでいますが、本来は巻物でした。『古事記』は三巻より、『日本書紀』は三十巻よりなります。今これを縦に引き伸ばし、横に順次左方向に並べていくと、『日本書紀』の場合右端に神代紀上、左端に持統紀がきます。一巻の用紙の長さを等しくすれば、きれいな長方形ができることになります。
 そこで、この長方形を時間に直してみましょう。神代紀はわかりませんが、持統紀一巻は十年です。十年に三十巻をかけると三百年の長方形となります。無論、これは答えと云うものではありません。また、実際の一巻の長さはまちまちです。しかし、素材の並べ方としてはこういった方法が先ず思い浮かぶのではないでしょうか。

 思いますに、崩年干支の載る『古事記』は死者の書、即位元年を太歳表記する『日本書紀』は生者の書ということなのでしょうか。いや、それとも『古事記』は墳墓、『日本書紀』は宮殿としたほうがいいのでしょうか。いずれにしても、「記紀」は現実の遺跡とは違い、荒らされることなくその姿を今日まで保っています。土の中に眠る生の証言には劣りますが、まずは、これらの化石を博物館の恐竜標本のように組み上げてみましょう。

 「記紀」の骨格は非常に単純です。次のような79行19列の長方形の干支年表の中に収まります。

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 なお、詳しい説明は次章以降に順を追って述べていくことになります。それで、ここではこの干支年表のあらましを述べておきます。年表は左上端の西暦紀元前717年甲子より始めり、右下端の紀元784年甲子までのちょうど1500と1年分の干支年表となります。
 さて、この年表は太安万侶の死後六十年あまりも続きますが、安万侶の生まれる前の千数百年分に比べればたいしたものではありません。なにせ、安万侶は過去も未来も知っていたのですから。
 今日、過去や未来を知ることはアインシュタインの『相対性理論』をもってしても不可能です。しかし、安万呂の時代にはこれらを知るすべがあったのです。そのすべとは暦法のことです。計算によって太陽や月の未来や過去の位置を導き出す、当時の人々にとって暦を作るということは未来や過去を知るということでもあったのです。彼らは干支や暦法を操るなかで、太陽がめぐるがごとく、月がめぐるがごとく、過去や未来もまためぐりまわって来ると思いついたのです。つまり、この干支年表には過去と未来が詰まっているのです。

 ところで、『日本書紀』には紀元前667年甲寅より暦日干支の記載がありますが、当時の日本に暦があったのでしょうか。言うまでもないことですが、当時つまり太古の日本に暦はありません。従って、『日本書紀』の編纂者は、膨大な量の暦を用意しなければなりませんでした。しかも彼らは、紀元前677年甲寅から、『日本書紀』が必要とするよりも更に多い、紀元720年庚申までの暦を用意したのです。
 養老4年5月癸酉。『続日本紀』は、この年『日本(書)紀』が出来上がったとしています。しかし、それは正確ではありません。『日本書紀』が最終的に成立することになっていたのは養老四年の庚申の年ではなく、同五年の辛酉の年だったのです。無論、これにはわけがあります。また、必要以上に暦を用意したことにもわけがあります。それは、『日本書紀』の真の主役が聖武天皇であり、この書の成立を待ち望んでいたのは元明太上天皇自身だったからです。