差があるからこそ

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多くの人は「 差別 」を無くせば、みんなが幸せになれると思っています。

遥か昔からそう教えられてきたので、疑うこともしないと思います。


しかし今、これだけ熱心に「 差別 」を無くそうとしているにも関わらず、人々の心がどんどん荒れていくように思いませんか?

「 差別 」出来ないことで、お互いを追い込んでいるようにも感じます。


前回も書いたように、この社会では「 各々の都合の良い部分だけの差を取り払う 」ことをやっています。

それが、ある場面では解決することでも、別の場面では問題になってしまうこともあります。


そのため、どのように「 差 」を取り払ったらよいか、という答えを出すことができません。

その答えを出すためには、まず「 差 」について知る必要があります。


元々「 差 」というのは、自分と自分以外の違いを認識するためのものです。

もし、自分と自分以外に違いがなかったらどうしますか?


人間しかいない世界に、「 人間 」というものは存在しません。

同性しかいない世界に、「 同性 」というものは存在しません。


自分しかいない世界に、「 自分 」というものは存在しません。

よって「 あなた 」という、「 個 」だと認識するための違いがないのなら、居ても居なくても気づかれることはありません。


違いのない同じ人が何人居ても、皆同じだから区別はつきませんよね(^^;

つまり違いがあるから「 区別 」でき、自分だけの「 個性 」というものが表現され認識できるのです。


このように「 差 」というのは、本来自分だけの表現をするために必要なものなのです。

しかし、表現することを肯定できないとき、そこに「 苦しみ 」が生まれます。


この「 苦しみ 」を無くしたいという想いの多くは、外側への「 差 」を取り払おうと訴える行為へとつながります。

そして多くの人が、それぞれの苦しみを「 差別 」だとして訴えることで、複雑に絡み合って益々複雑にしていくのです。


「 苦しみ 」は自分が造ったものなのに、自分で処理せず他人に処理をさせようとしてしまうんですね。

それで「 表現することを肯定できない 」というのは、自分の内側にある「 何か 」との「 差 」を取り払うことができないからです。


その「 何か 」は、人それぞれなので各自にお任せします。

いずれにせよ「 差 」というのは、あなたがあなたらしくなるために、なくてはならないものだということを、知っておいてください。


ただ、内側の「 差 」を取り払わない表現は、「 我田引水 」になりやすいのでご注意ください。

もし内側の「 差 」がすべて取り払われたなら、「 表現する 」ということや「 肯定する 」ということの真の意味を知り、「 差別 」することの無意味さも知ることになるでしょう(^^