fc2ブログ

江戸八百八講

富士塚
05 /25 2022
平安の昔からあった富士山信仰が、庶民を熱狂させたのは江戸中期。

それは、行者・食行身禄の弟子の高田藤四郎(日行青山)が、
師と富士講発展のため、富士塚を築造したころだったという。

岩科小一郎氏の「富士講の歴史」(名著出版 昭和58年)によると、

「藤四郎は師の没後3年目に「身禄同行」という講を起こし、
師の33回忌にあたる元文元年(1736)をめどに富士塚築造を発願。


しかし出来たのは発願から43年後、師の没後46年目のことだった。
その藤四郎の死後、弟子たちによって、
講は「身禄同行」から「丸藤(まるとう)講」と改名した」

この講は身禄直系ということで広く講仲間を集め、各地に枝講ができた。

藤四郎こと日行青山が戸塚村(新宿区高田)に築造した「高田富士塚」
jpegOutput (3)
「江戸絵本土産」広重が・国立国会図書館デジタルより

ちょうどそのころ、
人々は飢饉や物価高騰で疲弊。世の中は打ち壊しや一揆で騒然。

そんな時、身禄が残した
「世直し」「四民平等」「男女は同じ人間なり」
という教えが庶民を惹きつけた。

富士講は江戸八百八講といわれるほど増え、富士塚も各地に築造。
※講組織の実際の数は約130講ほど。

富士塚は破却されたものを含めると都内に約60。
近県のものを合わせると約200ほどだったという。

こちらはブログ「ITOWOKASI」のplateauさん撮影の、
敷島神社の富士塚「田子山富士」=国重要有形民俗文化財=です。

高さ約9m。明治5年築造。築造者は高須庄吉(藤山晃行)。
敷島富士塚
埼玉県志木市本町・敷島神社

大きくて立派なだけではなく、登山道沿いに小御嶽神社や石祠、
大天狗、小天狗などを配した本物そっくりの富士塚です。


また、
地元の方々の手厚い保存整備と広報活動の素晴らしい所で、
その熱き思いと行動力が随所に見られます。

富士講にはそれぞれ「講印」という、その講の印があります。
富士山登拝のとき、この印を菅笠に付けるので「笠印」ともいいます。

こういうものです。
img20220427_09310469 (2)
img20220427_09293788 (3)
調査報告 第4集「富士講と富士塚」ー東京・埼玉・千葉・神奈川― 
神奈川大学日本常民文化研究所 1979よりお借りしました。

で、私はplateauさんの写真を見ていて、あれ?と思ったんです。
※赤丸をつけさせてもらいました。すみません。

敷島神社の富士塚の「御胎内」入り口です。
敷島胎内

赤丸の中は「講印」です。

これは高田富士塚を築造した日行青山の講印
「丸藤(まるとう)講」の印です。

ですが、
この敷島神社の富士塚築造者は「丸吉(まるきち)講」なんです。

だから当然、「丸吉講」の印のはず。なのに、なんでよその講印なの?

でも今度は、
同じ市内の羽根倉浅間神社「羽根倉富士嶽」を見てみると、
ここは日行青山の系統の「丸藤講」なのに、碑は「丸吉」の講印。

「丸吉講」の富士塚に「丸藤講」の印があって、
「丸藤講」の富士塚に「丸吉講」の印がついている。

あれれ。なんで?

「羽根倉富士嶽」です。明治13年築造。高さ約6m。危険なため立ち入り禁止。
羽根倉塚
埼玉県志木市上宗岡・羽根倉浅間神社

富士塚についてにわか勉強の私、わからないことに突き当たり、
そこで、地元保存会の方に教えを乞いました。

答えてくださったのは「田子山富士保存会」の重鎮の方です。

質問 「こんなふうに、
    違う講組織の印をつけることはよくあることなのでしょうか。

    どちらかが枝講なのでしょうか」の疑問へのお答えがこちら。

 「よくあることです。元講、枝講の関係ではありません。
   同じ地区にある講が親睦のために連合体をつくることもあったそうで、
   そういう組織を「睦(むつみ)」と呼んだようです」

質問 「羽根倉富士嶽の築造にも携わった上宗岡「まるとう講」八代先達の
    星野勘藏は、講祖・高田藤四郎と同じ「日行」という行名ですが、
    これもよくあることですか」
とお聞きした答えがこちらです。

 「よくあることとまでは言えないが、星野勘藏はかの有名な狛俊學から
   この行名をいただいたという記録があるから、
   相当評価されていた人だったと思われます」

こちらは
「田子山富士塚」の動画ですが、初めのころに「星野勘藏」が出てきます。


富士塚は富士山が望見できるということが、
築造場所の基本的条件だったそうですが、

この富士塚からも、ちゃんと見えました。

「田子山富士保存会」の方とのやりとりはまだ続きます。

にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

こんにちは

都内の富士山(?)には、いくつか登りました。
覚えていないのですが、大昔は周囲の景色が見えたでしょうね。
今は周り中にビルや集合住宅などが出来て殺風景に。

江東区の元富ヶ岡八幡にあったような記憶がありますが・・・

one0522さんへ

複数の富士塚に登られたんですか。
羨ましいです。
おっしゃるように、元八幡にもあります。
次々回で取り上げます。
あそこにはたくさんの力石と富士山登頂記念碑、
お伊勢さんとかいろいろありますね。
深川の富岡八幡神社にもあると本に書いてありますが、
何度も行きましたが、気付きませんでした。
今度、これを書いてきて、
富士5湖周辺からの富士山もいいなあと思いました。

勉強になりました。

おはようございます。
私も力石の名前(くらいは失礼^^;)は知っておりましたが色々と奥が深い事を知りました。
奥秩父に来て力石の実物を見たのは初めてでした。

過去記事を 幾つかですが読ませて頂くと
宮司さんでも「力石」という言葉も知らない方がいらしたり
邪魔だから?と石段にされてしまったり、
もうどれが力石だったかわからいとか。。。。。。

そんな中で
>しめ縄も掛けていただき、当時より大切にされていてホッとしました。
と お言葉をいただきました。
私も嬉しかったです。
勉強になりました。ありがとうございました。
これからもどうぞ宜しくお願いいたします。

ちしゃ猫さんへ

コメント、ありがとうございます。
また拙ブログをお読みくださったとのこと、嬉しいです。
力石はすでに過去のものですが、でもこうして次世代へ繋げて行ってくださる。
何だろう、この石、というだけでもどこかに繋がっていくと思っています。
昔の人は石を見て、これは山の石、こっちは川、これは海の石と言い当てます。
ご自分が持った石は大事にしていました。

奥秩父には登山や川の遡行などでお邪魔しました。
自然の豊かさも素敵ですが、歴史の深い所という印象があります。
貴重な甲斐犬さんの姿、楽しく拝見させていただいております。
今後ともよろしくお願いいたします。

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞