徳川家康、大国主命 (大黒様)ご利益

大黒さん


徳川家康公は大黒さまを崇敬していたというお話
 太閤秀吉が三面大黒さまを福の神として信仰したことは、秀吉の念持仏としたと伝わる京都、円徳院の三面大黒天像秀吉型などが伝わり、よく知られているが、徳川家康公にいたってはあまり知られていない。
 徳川家康は、ある時大黒さまの夢を見てこれは吉夢だとして、奈良の甲冑師に命じて大黒頭巾形の兜(かぶと)を用いた具足を造らせ、これを御霊夢形といって大切にしたという。天正十二年(1584)に家康が羽柴秀吉と小牧、長久手で戦ったとき、勝川という所でこの具足を着けて戦い大勝利したので勝川の具足と名付けられた。
 また、家康は天正十年に信長に招かれ上洛した帰りに、明智光秀が本能寺で信長を襲ったでのあるが、身の危険を感じたのか、三河に帰る途中に漢国神社に大黒頭巾形の兜がついた具足を奉納している。
 晩年の家康は肥満していて自分を大黒天のように福々しく描かせ耳も大黒耳のように福相として頭巾を被らせている。二百七十年も続いた天下泰平の江戸時代を開いた立役者には大黒様のイメージが似合ったのであろう。
 家康の大黒崇拝は、大黒様が、そのルーツがインドの神様で、全てのものを破壊し、また救うマハカラ、シバ神の化身という忿怒形(ふんぬぎょう)の恐ろしい顔をした神であったが、日本に伝わってにこにこ顔の福徳を強調した福の神に変わっていく過程での中世頃の戦闘神として信仰された例である。


随筆「耳袋」、大国主命 (大黒様)ご利益


大黒さん



江戸時代、大黒に祈ったら床下から金が出てきた話
  
江戸時代の後期、下級武士から勘定奉行・町奉行まで出世した根岸肥前守鎮衛(やすもり)が書いた随筆「耳袋」の中に「大黒に祈りて福を得し事」というのがあります。
 元禄の頃、浅草に善五郎という大変正直な者がいて、大黒様を念じていたが霊験がないままでいた。あるとき、夢に大黒さまが現れ傍らに金銀財宝がたくさんあるのを見て、「私は長年大黒天を祈念しているから少し私にも恵んで欲しい」と頼みました。
 その後、夢のお告げに随って色々なことがあり家の床下の土中から金三百両が出てきました。夫婦はこの金を元手として懸命に働きましたので程なく裕福な身となったということです。


http://www.geocities.co.jp/Hollywood/8261/reiken/daikoku.html


豊臣秀吉、大国主命 (大黒様)ご利益


大黒さん



三面大黒天というのは、秀吉の出世守り本尊として知られています。

秀吉は挫折ばかりの少年時代に三面大黒天に出会います。直感で自らの守護神と定め、身近にその肖像を置くようになってから運が開けてどんどん出世し、最後には天下人にまでなります。どんな願望も聞き届けてくださるという大黒天にさらに、毘沙門天、弁財天が加われば願いは次々と叶えられるのですね。


http://www.miyako80.co.jp/60002112a/archives/2784


三面大黒天


豊臣秀吉の少年時代は悲惨でした。尾張国中村(現在の名古屋市中村区)の百姓の子として生まれた秀吉は7歳で父と死別し、母の再婚相手から虐待される不遇の少年時代を送ったといいます。寺に預けられたもののすぐに追い出され、帰り着いた家では貧しい家計を支えるため薪を刈る重労働の日々。15歳の時わずかな金を渡されて家を出て、木綿針の行商をしながら放浪します。
最初に仕えたのは今川氏配下の松下加兵衛という武将です。秀吉は一生懸命働いて目をかけられたものの、先輩たちに疎まれて陰湿なイジメに遭います。蔵からの盗難を防ぐ対策を立てたところ、盗んでいた先輩たちが「あのサル(秀吉)が真犯人だ」と逆に濡れ衣を着せたのです。秀吉は孤立無援となり、何の落ち度もないのにリストラされてしまいました。再び放浪の身となった後は職を転々としながら食いつないでいたといわれます。


そんな辛く苦しい挫折ばかりの少年時代、偶然出会ったのが三面大黒天です。秀吉は強力な三神が三位一体となった三面大黒天を見るなり「これは凄いぞ!」と直感します。そして自らの守護神と定め、常に身近に三面大黒天の小像を置くようになりました。この出会いが彼を変えました。


とつぜん運が開けたのはその後です。当時まだ尾張の小大名にすぎなかった織田信長に仕えることになり、天下人への第一歩を踏み出したのです。


http://www.j-reimei.com/sanmendaikokuten.htm