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夏の北風 終話(前)



終話(前) ここが原点

 二度目の奥秩父も好評で次回また参加したいと言う者が多かった。前々回の
参加者の中からも声が上がっていたことと、加えて新規の希望者もかなりな数
になっていたから、次回は百名を軽くこえる勘定になる。そうなると校庭と校舎の
両方を使わないとまかなえない。
 七月初旬。梅雨の明けた夏空だったが今日は南岸をかすめて低気圧が通過
するということで夕刻からの雨が予想されていた。
 その日はショップが休みの平日。恵子はショップからも遠くない瀬田のマンショ
ンの寝室で目覚めていた。時刻は朝の七時過ぎ。目覚めてみるとベッドの隣り
に瀬田がいない。ネグリジェ姿で起き抜けた恵子。リビングへ回ると、ロータイプ
のソファとテーブルのセットのところで瀬田がノートパソコンを見入っていた。

「おはよっ」
「おぅ、起きたか、おはよう」
 恵子はそのままキッチンに回ってコーヒーを支度する。瀬田はパジャマ。何も
飲まずにパソコンに食い入っていたのだった。
「どうしたの? メールでもあった?」
「そうなんだ。村の川端さんからなんだが、以前にも話した校舎の裏から山に
入ったところにあるという、いまでも飲める水が流れる沢のことで」
「ああ、はい、それなら聞いてる」
「でね、その場所までは校舎から歩いて二十分ほどもかかり、途中に崖もあっ
て危険ということだったんだが、その崖のところに鉄柵を造ったと言うんだよ。
沢の両岸に拓けた場所もあるから一度観ておいてくれないかって。森の中で静
かだそうで、下草も処理したからいくつかテントも張れるだろうって」

 しかし今日は恵子を連れて横浜スタジアムへ行く予定。プロ野球は交流戦を
終えたオールスターまでの前半戦の決戦続き。シーシャインズはホームに大阪
パンサーズを迎え撃つ。しかし雨予想。中止になるなら、それはそれで仲間た
ちとゆっくりできたのだが・・。
 コーヒーを淹れながら恵子は言った。
「じゃあ秩父は来週にする?」
「ふむ、それでもいいが・・どんなところか観ておきたい。次のキャンプが迫って
きてる。良さそうなら組み込んでやりたいんでね。ウチだけの特徴を出さないと
ライバルは多いから」
 ・・と、瀬田は思案。そして置き時計を横目に見て携帯電話を手に取った。
 相手は西浦。瑠美との新居にいるはずで、この時刻なら二人は揃っているは
ずだと考えた。しかし生憎、つながってみると二人は西浦の実家にいた。結婚
準備ということではなく瑠美の妊娠。懐妊が確定して報告に行っていると言うの
である。
 であるなら、お祝いを兼ねてプライベートで奥秩父に行ってみたい。そんなこ
ともあったからよけいに観ておきたい山奥だった。

 それでその次、山田にかける。明日なら予定はないと山田は言った。
『あ、そうだ、じゃあ瀬田さん、彼女がいいかも。古谷さんです。何かがあって木
金と休むって言ってた気がするし。連絡してみましょうか?』
 ということで優子が呼ばれ、明日はショップを山田と優子に委ねておける。
「よし今夜だ。今日は約束もあるしハマスタへ行くよ。そのまま発とう」
 恵子ははにかんでうつむいた。プロ野球のスター選手が揃う中で夢のような
婚約報告。考えただけで頬が熱を持ってくる。
 それから二人はシャッターの降りたショップを覗き、棚卸しをしながら発注を
整理する。予想どおり昼下がりになって雨が豪雨に変わってくる。南岸をかすめ
る低気圧だからか関東南部では雨が強い。今夜から明日にかけて関東北部に
あたる秩父では、曇っていてもさして降りは強くないと予想図で確認した。
 四時になって電話を入れる。相手は一浦大輔。言下に言われた。
『いいよ、すぐ来い。もはやプールだ、中止だよ』
 試合は中止。とは言っても選手には練習もあり、とりわけ今季はAクラスで折
り返せるかどうかの瀬戸際。選手はみんな必死だった。
「着替えて出よう」
「うん。でも夢みたい・・」 と言って恵子は羞恥。
 瀬田は生成りのサマースーツ。恵子も花柄のミニワンピース。化粧もきっちり
整えて、なのにおんぼろジムニーなのだからミスマッチもいいところ。ワイパーが
高速メトロノーム。球場までの移動中に中止が発表されたのだった。

 横浜スタジアム、そのブルペン。
 瀬田投手にとっての聖域のような場所。監督、コーチ、一軍選手のすべてが
集まる。見違えるほど逞しくなった瀬田にミラレス監督も一浦コーチも、皆が眸を
見開いてうなずいている。ホッとできる瀬田の姿。戦力外となった仲間への想い
はチームに共通する感情だった。
 ゴミひとつ落ちていないブルペン。瀬田は、おそらく最後となるマウンドに立た
されて、隣りに恵子を寄り添わせる。
 瀬田は皆を見渡して言った。
「会えて嬉しい。ここは懐かしい。失踪したりして心配させてしまったけど、いま
はご存じのようにキャンプのショップをやっててね、いいお客さんにも恵まれてい
る。今日は僕のために集まってもらって嬉しいよ。紹介します、婚約者の佐野恵
子さん」
「えっえっ・・佐野恵・・は?」
 ハマの44番が思わず言って、周囲の仲間に笑われて小突かれる。瀬田も笑
った。明るい笑みだ。
「そのとおり! ヒジョーにおしいわけだよコレが。はっはっは」
 皆が声を上げて笑った。瀬田は言う。
「えー、陰日向なく僕とクラブを支えてくれる女性です。どうぞお見知りおきをな
んだが、手を出しやがったらぶっ飛ばすぞっ」
 皆がドッと沸いた。ハマの18番を背負った男、一浦コーチが笑いながらうるう
るしている。瀬田も涙が揺れていた。
 監督からの花束贈呈、一浦投手コーチからのはなむけの言葉・・と試合前の
セレモニーのような展開でコトは進み、一浦は、この後食事にでもと誘ってくれた
のだが瀬田は断り、そして皆を見渡し言った。
「落ち着いたらナイターでも観に来ますって。いまはそれどころじゃないはずで
しょ。是が非にもAクラス、応援してる。みんなありがとう、オフにはウチのキャン
プにもぜひ」
 おおぅ! っと声があがったのはよかったのだが、瀬田は言ってから失敗した
と舌を出した。奥秩父がたいへんな騒ぎになる。

 スタジアムを出て、雨は相変わらずのスコール。瀬田はふぅぅっと息をついた。
「・・終わったな」
「え・・終わった?」
「選手だった俺がいま終わった。キリがついて今度こそさっぱりしたよ。逃げ出
すようなカタチになっていたからね」
 恵子は何も言わず瀬田の腕をしっかりとった。
 二人はそのまま高速イン。奥秩父の家を目指して走る。そのとき時刻は六時
に少し前。着替えのほか、ほとんど何も積んでいないジムニーだったが、必要な
ものはすべて向こうの家に置いてある。
 途中で夕食を済ませ、瀬田宿の家に着いたのは夜の九時過ぎ。高速を北上
する間に雨はやみ、しかし黒い斑雲がのたうつ蛇のようにもがいていた。
 瀬田宿の家。このあたりには街灯さえなく雲が覆えば漆黒の闇。ダイナモ・ラ
ンタンを手に外に出た。そう言えば、あのとき植えた花の種が家をすっかり取り
巻いてカラフルに咲いている。家の横では夏の長ナスが実っていて、恵子と二人
で笑って見ていた。
「ナスだもんなぁ・・それもちゃんとしたナスだし」
「あははは、ほんとね、立派なナスだわ、ちゃんと成ってる」
「ひとつ毟って焼いてみるか?」
「だね・・ふふふ、笑っちゃう、美味しそうなんだもん」
 瀬田と二人きりの古い家は、常爺さんの家についで二度目のこと。こちらはさ
らに不便であり、電気がなくて明かりはオイルランプだけ。カマドで薪。薪ストーブ。
トイレはボットン便所。そんな景色が私たちの原点なんだと恵子は思った。

 部屋にあがって座卓でコーヒー。瀬田は家の中を見回して言った。
「落ち着ける」
「そうね、ほっとできる」
「練馬で育った。子供の頃からこうした暮らしを知ってたわけじゃないんだが、こ
こに来ると原点に戻れた気がするよ」
「そう思う? 私もいま、それを考えてたところなの。私たちの原点だなって」
 瀬田は言葉でなく、微笑んでうなずいて、恵子をそっと抱き寄せた。
「・・ねえ」
「うん?」
「とっくに気づいてるでしょ? 愛するのはどっちかなって思ったの。千早かなっ
て。それでもいいけど」
 瀬田はちょっと苦笑した。でもすぐに声となった。
「愛していくべき一人の女。恵子。そうとしか言えないね」
「うん、わかった・・嬉しい」
 そのときだった。二人で座る手前の部屋から、間に薪ストーブを挟んだ向こう
側の六畳に、ぼんやりと白く浮き立つ老婆の姿。瀬田の腕に横に崩れて体をあ
ずける恵子もまた顔を上げて見つめていた。千早には見えて当然の霊の姿な
のだから。

 老婆は穏やかに微笑んでこちらを見ている。瀬田は心の中で問いかけた。
愛していくのに恵子も千早もないはずです。ただ一人の女性、実体ある恵子が
すべて。それでいいんですねと問いかけた。老婆は微笑み、うんうんとうなずい
ている。
 恵子の中の千早は声を発しない。恵子の中で千早との会話があったとしても
俺にとっては一人の女性。これは運命だと感じていた。
 老婆から眸をはずし、もたれかかる恵子をうかがうと、その気配で恵子が顔
を上げて見た。眸が合った。恵子は言った。
「話してるの・・あなたを愛する心はひとつ・・ずっと寄り添って行こうねって」
「ああ、それでいい。気にすることじゃないからな。心配なのは恵子がそれを気
にすること。恵子は千早、千早は恵子、ただ一人の女性だよ」
「ありがとう。愛してるわ」
「ふふふ、うむ俺も」

「キャンプも好評だし、よかったわね」
 と、ふいに恵子が話題を変えて、瀬田はぽんと恵子の肩を叩き、恵子が離れ
た。
「それだよ問題は。村人たちの気持ちもわかるが下手に開発すると失敗する。
明日山へ入ってみてだが、飲める水も汚されるとおしまいだからな」
「期待されてるのよ、それだけ」
「そこが大きな勘違いってヤツでね」
「勘違いって?」
「まず、この家を守る。打ち捨てられた分校を活かす手伝いはする。しかしそこ
まで。ビジネスとして開発し過ぎ、ダメになっても責任は持てないからな。キャン
プだけでは壁に当たる」
「そうかもしれないね。大勢呼んでだって、そのときだけのことなんだし」
「そういうことだ。しかもここは冬には厳しい。雪と凍結。都会のドライバーでは危
険すぎる。その沢をどうやって活かすのかだよ。テントは禁止、ここでキャンプす
るときのオプション程度に留めておきたい。そのへんをわかってくれればいいん
だが」
 それまで裕福とは言えなかった山村に観光収入の道が拓けた。きっかけは瀬
田宿。焚き付けたカタチになるだけに責任はあると考える。瀬田はこの土地を踏
み荒らしたくなかった。瀬田宿だけなら自信はある。整備して一般に開放したとき
どうなるか、一抹の不安がつきまとう。

 まったりした時間を過ごし、気がつけば時刻は十時半を過ぎていた。瀬田は
風呂を沸かしにかかる。大きな檜の浴槽に手押しポンプで冷水を張り、家の裏
手の焚き口で火をつくって沸かしていく。恵子は焚き口にしゃがんで、赤い焔に
揺れる男の横顔をぼーっと見ていた。
 夏場の湯はぬるくていい。適度に沸かして火を落とし、恵子が先に、少し遅れ
て瀬田が追う。
「はじめてだな二人きりは」
「ええ・・でも能登で一度」
「そうだった、似たような家だしね」
 逞しい男の腕が恵子の白い裸身を抱きくるむ・・。

 ※今夜はしっぽりR18ゆえ、ふたたび省略・・。

 翌朝、九時になって、村の川端が軽トラでやってきた。そのとき瀬田と恵子は
パンを焼いた軽い朝を済ませていたが、気を利かした川端が、奥さんの手料理
を弁当にして持ち込んだ。自分の分との三人分。目指す沢でひろげようと思った
らしい。川端は村の中で担当者にさせられていて、板挟みといった感じ。それだ
けに気を使ったのだと瀬田は思った。
 三人で家を出て、家の前の舗装路を少し歩き、そこから山へと分け入った。い
まはまだ獣道。キャンパーでなく登山者であればテントも持ち込めたのだろうが、
大人数用の大きなテントは運べないし、そのほかバーベキューのコンロなども
運べた道ではなかったのだが・・。
 途中、傾斜がきつく、あるいは岩場、土床に戻ったと思ったところで右側に高
さ二十メートルほどの垂直に切り立った崖があり、その際に人一人が歩ける岩
の道筋が二十メートルほど続いている。その岩を穿ってコンクリートで補強した
鉄パイプが打ち込まれ、腰ほどまでの高さがあるガードレールのような柵がつく
られていたのだった。
 つまりは難所。そこを過ぎてしまえば道筋はふたたび森の中へとのびていて
傾斜もゆるく、しばらく歩くと今度は急傾斜の下りになって、その先に沢が見えた。
岩の間を縫って流れる、ひとまたぎの沢。水は透き通って、真夏ではないいまな
ら水は氷のように冷たかった。
 そしてその沢伝いに岩場を歩くと、流れを挟んだ向こうとこちらに平らに拓け
た林床がひろがっていて、下草が刈り取られて綺麗にされ、背後の木々の枝葉
もうまく剪定されていた。
 恵子が言った。
「綺麗だわ、なんて素敵な場所なんでしょう。妖精でも出てきそう」
 川端は得意顔。
「でしょ? えーえー、そう思うんです、ここなら喜ばれるかなって」

 黙ったまま横目を向けた瀬田の思いを想像し、先に川端は言うのだった。
「わかります、おっしゃりたいことは重々。ですからご相談したくて観てほしかっ
たんです。秘境とまでは言いませんが、これほどの景色の中に、たとえばトイレ
とか、そんなものをつくってしまえば台無しですしね。しかし村としては、せっかく
あるものを活用しない手はないだろうってことになってて」
 川端の意思ではない。わかりきったことだった。
 沢を挟む両岸ともに小さなテントなら四つ五つずつは張れるだろうが、まさに
森の只中で焚き火は危険。瀬田宿で言うなら斉藤レベルの登山経験がある者
でないと、ここで泊まるというわけにはいかないだろう。トイレもそうだしゴミの始
末にも気を使う。急な雨で増水することもあるだろう・・と考えると、キャンプのオ
プションとしてのハイキングが精一杯。ここを目玉に客を呼ぶのはムリだと思え
た。瀬田は考えを川端に告げた。
 川端はしきりにうなずき、ため息をついた。
「登山者ですか、なるほどね・・確かにそうかも。お客さんを泊まらせるとなれば
私らの誰かが付き添っていないといかんでしょうし」
「だと思いますよ。オプションとしてハイキングというなら賛成しますが、野営は
ちょっと。ここまでの道筋も安全とは言い切れない。たとえば毒蛇は?」
「います、マムシが」
「でしょうね。であればなおさらで事故でもあればそれまでですから」
 川端は肩を落とした。
「そうでしょうね、やっぱ。急な雨で山崩れなんてあろうものならおしまいです。
村の者を付き添わせるにしても私と・・まあ一人二人はいるにはいますが厳しい
のは確かですし」

 と、それまで黙って聞いていた恵子が言った。
「慌てないことですよね」
 川端が恵子を見た。
「これだけの景色は財産なんです。瀬田宿には冬山の経験者もいますから次
回ちょっと連れてきて相談してみますから。こういうところだけに、しっかりした
指導者がいないとキャンプのレベルでは語れない」
 瀬田も川端も揃ってうなずく。
 それから下草を処理された林床にシートを敷いて、川端の持ち込んだ弁当を
ひろげる。スチールカップに沢の冷水をくんで飲んでみる。美味い。素晴らしい水
だった。
 朝方少し曇っていたものが、いつのまにか快晴。自然の真っ只中できらめく沢
を見渡しながら川端は弱く言った。
「お恥ずかしいんですが我々みんな必死なんです。この土地の良さを知って欲
しいのと、そのうちできれば移住してくれる人でもいればと考えましてね。現金収
入という点でも瀬田さんには脚を向けて眠れない。信じられない。皆がそう思っ
て分校でのキャンプを観ている。だったらもっとと欲が出る。私は反対したんです
が、魅力は多い方がいいだろうってことになって」
 瀬田は川端の肩に手を置いた。
「呼ぶ気になれば呼べるんですよ。野球のオフに選手を誘ってとなると千人や
そこらは充分呼べる」
「千人ですか・・そんなにたくさん?」
「呼べますよ。ファン感謝デイともなれば球場がいっぱいになってしまうんです
から。赤木の方でサッカーファンを集めたってかなりな数だ」
 川端は呆然としている。人出が欲しくてならない。気持ちはわかる。
「ですが、その後なんです。スポンサーでもつかない限り維持できない。てんで
ばらばらにやってきて荒らされたらそれっきり。ここは慌てず一歩ずつ歩んで行
きましょうよ。焚き付けたのが僕だけに敗戦投手になりたくないし」
 川端は力強くうなずいた。
「わかりました、おっしゃるように慌てずということで」

 瀬田は言う。
「次回ももうすぐ。百人規模です。そのとき山を知る者を連れて来て相談します
から。で、とりあえずなんですが」
「あ、はい?」
「次回のキャンプの翌日にオプションでハイキングを設定してみたいんですよ。
村の事情も正直に告げて、いくらかでも参加料を別にいただく。たとえばそうで
すね、おにぎり代とか名目を考えて。環境を維持するための寄付みたいなもん
ですか。それでそのとき参加者からも意見を訊く。とにかく一歩ずつ進めましょう。
で、川端さん、もうひとつ」
「はい?」
「僕自身が村人だってことを忘れないでくださいね。みなさんと一緒に考えさせ
てもらいますから」
 川端はまたしても呆然として瀬田を見つめた。あの廃屋は瀬田の持ち家。そう
だった、この瀬田もまた住人だったと気づいたような面色で。
「ありがとうございます、そう言っていただけると涙が出ますわ。わかりました、
今度こそ説得します。素人がちゃちゃを入れるのはやめようってキッパリと言っ
てやる。欲をかくなと」

 そして瀬田宿の家で二日目の夜。もう一晩を過ごし、明日の朝早くに発つつ
もり。布団をしまう押し入れのある薪ストーブの奥の部屋に、布団を離さず並べ
て敷いて静かな夜を過ごしていた。

「むぅぅダメか・・走らない・・ダメなのか・・」

 瀬田のかすかな寝言に恵子はハッとして眸を開けた。球が走らない、俺はも
うダメなのかとうなされる。投手にとっての聖域、ブルペンに立ったことで口惜し
さが呼び覚まされているのだろう。

『戦ってる』
「そうね、もがいてる」
『まだまだ続くよ』
「きっとね・・まだまだね」
『口惜しさはつきまとう。でもだから、お兄ちゃんは素敵なの。立ち向かうのよ。
逃げない人だわ。挫折を知って強くなり、器がずっと大きくなった』

 薄闇の中、横寝になって瀬田を見つめる恵子。その恵子の上半身からちょっ
と身を起こして見つめる白く透き通った千早の姿がダブって見える。二人の女
はたまらなくやさしい笑みで瀬田を見ていた。

『たまらないよね』
「たまらない」
『愛してるのよ』
「愛してくれるわ」

 恵子の上半身からズレて見えた千早がすーっと恵子に重なって、恵子はそっ
と手をのばして瀬田の肩に静かに添えた。

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