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月島温泉

  月島開運観世音   東京都中央区月島3-4-11





 昭和二十六年陽春、柴崎輔氏の呼びかけにより西仲通り商店街有志の発願で観音堂を柴崎輔氏の敷地内に建立し、特に信州善光寺より一光三尊善光寺如来像と開運観世音菩薩像を奉還し、月島開運観音堂を創始する。

 建立以来半世紀五十年の歳月を経て、今日に至ったたところ敷地全域の再開発計画により、一時移転をするに至る。

 平成十三年九月、再開発事業完成に当り、観音堂を敷地の中心に設置する。
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灯台

  高山稲荷神社   東京都港区高輪4-10-23





 高山稲荷神社は京都伏見稲荷大社の御分霊・正一位福聚稲荷大明神の御分霊を祭祀している。
 往時の文献によれば今から凡そ五百年前、当地域に神社の建立を御勧請し神社を建立したと記されている。当時高輪の地形は小高い丘陵で、社殿は二百数十段の石段の山峰に位置し山上の神社故、高山神社と称されたと伝えられている。

 現在の社殿前方、品川駅一帯は見晴らすかぎり海辺がつづき、遠く房総方面より往き来する舟の目標(灯台)となったものと記されている。

 明治初期毛利公爵が当地に邸宅を構えるに及び同家より広大な敷地の寄進があり、境内からの眺望は目を見張るものがあったと思われ、明治天皇が京都より江戸への遷都に際して当所で御休息・御野立をなされたと伝えられている。

 大正十二年、関東大震災後国道の拡張に伴い約十五米の境内を失い参道も(旧参道は現在地北側約三十二米先の石畳道路に面しており南方へ向って石段を昇った)現在の方位に移ったが、歴史の流れと共に社殿の損傷も甚しく、昭和の初期諸先輩の努力により高山神社奉賛会を設立し、氏子一同の熱心な御協力により昭和六年九月吉日社殿の御造営を落成し、現在の荘厳な新社殿を仰ぎ見るに至った。当社は古来高輪南町・下高輪町(旧中町)の鎮守の神として、氏子町民の信望を集め毎年九月十五日を期し賑やかに大祭の行事を執行している。

 昭和六十三年に至り、約六十年間風雪に耐えた神社大鳥居並社殿内外の大改修の必要にせまられ、茲に奉賛会会員並氏子一同の絶大なる御協力・御奉納により改修の完成を見るに至った。
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諏方大明神

  諏方神社    東京都荒川区西日暮里3-4-8





 創立は元享二年(1323)豊島経康が信濃国の諏訪大社から御神体を勧請したのが始まりであるといわれている。御祭神は、〝建御名方命〟である。この神は古事記神話に登場する神で、大国王神の子である。天孫降臨に先立ち高天原から遣わされた、武甕槌神との抗争に負け、諏訪に引きこもり、国譲りを承諾した神である。

文安年間(1444~1449)太田道灌が神領を寄進し、のち江戸時代徳川家光が五石の朱印を与えている。寬永十二年(1635)社殿を現在の協に遷座した。

 明治になり、日暮里・谷中の総鎮守として、近郊の人々が霊験あらたかな御神徳を敬い、参拝している。昭和に入り、廿年(1945)三月の戦災を受けたが、昭和二十七年復興した。

 なお「諏訪」とせず、「諏方」と使っているのは古来の表記であり、かつては神社名には、この方が多かった。現在は全国で一万有余あるうち、三~四社のみになったとのこと。本社では所有する元禄時代の軸に、「諏方大明神」と記されている。よって、「諏方神社」 の社名を続けている。
 
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Tag:第五區 

牛頭天王

  素盞雄神社   東京都荒川区南千住6-60-1





 開祖となる黒珍(こくちん:修験道の開祖役小角の高弟)の住居の東方小高い塚上に奇岩があった。
 黒珍はそれを霊場と崇め日夜斎戒礼拝すると、平安時代延暦十四年(795)4月8日の夜、小塚の中の奇岩(瑞光石)が突如光を放ち二柱の神様が翁に姿を変えて現れ、「吾はスサノオ大神・アスカ大神なり。吾れを祀らば疫病を祓い福を増し、永く此の郷土を栄えしめん。」と御神託を授け、黒珍は一祠を建て鄭重にお祀りし、当社が御創建された。

 次いでスサノオ大神の御社殿を西向きに御造営し6月3日、アスカ大神の御社殿を南向きに御造営し9月15日、それぞれ御神霊をお遷し致し、4月8日「御創建疫神祭」・6月3日「天王祭」・9月15日「飛鳥祭」の祭禮日が定まった。江戸時代享保三年(1718)、類焼による両社炎上のため、同十二年に相殿(あいどの:一つの御社殿)として二柱を祀る御殿(瑞光殿:ずいこうでん)を新たに建築し奉斎した。

 荒川区南千住・三河島(現:荒川)・町屋・台東区三之輪の区内で最も広い氏子区域61ケ町の鎮守で、平成七年には御鎮座千二百年祭が厳粛盛大に斎行された。
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四谷天王社

  須賀神社   東京都新宿区須賀町5





 今の須賀神社はもと稲荷神社であった。その稲荷神社は、往古より、今の赤坂、一ツ木村の鎮守で、清水谷に有ったのを、後寛永十一年に江戸城外堀普請のため、当地(現在地)を替地として拝領し、移し奉ったものと伝えられている。

 須佐之男命の鎮座の儀は、寛永十四年、島原の乱に日本橋大伝馬町の大名主馬込勘由と言う人が、幕府の命に依り、兵站伝馬のご用を勤め、その功績に依り、現在の四谷の中心一円の地を拝領したのを機会に、寛永二十年、神田明神社内に祀ってあった日本橋伝馬町の守護神(須佐之男命)を地元民の総発意で四谷に合祀し、御両社として祀る様になり、俗称四谷天王社と云い、明治維新まで親しまれて来た。明治元年に須賀神社と改称され、明治五年に郷社に昇格、戦後は制度の改正により、旧社格は撤廃された。


 社名の須賀とは、須佐之男命が出雲の国の簸の川上に八俣の大蛇を討ち平らげ拾い「吾れ此の地に来たりて心須賀、須賀し」と宣り給いて、宮居を占め給いし故事 に基づき名付けられた名称。

 往古の御社殿はつまびらかではあるが、戦災前の御社殿は、文化十一年八月に起工し、十五年の歳月をついやして文政十一年十二月に竣工したもの。大正十二年九月一日の関東大震災では江戸名所図会に描かれたままの姿であった。昭和二十年五月二十四年の東京大空襲の折り、御本殿並びに御内陣と境内摂社を残した外一切の建物を失ったが、戦後、氏子崇拝者の赤誠に依って 今日の復興を見ることが出来たのである。
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Author:碑之見輩
とんび・仕事師・江戸消防記念会の奉納物を血眼になって探してます。

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