Rekogei201705  この先どのような未来が待っているのだろうか?
 音楽之友社の看板雑誌(かどうか知らないけど)“レコード芸術”が、この5月号で800号となった。

 600号とか700号目のときも特集が組まれたのかもしれないが、そのころには熱心な読者でなくなってしまっていた私は知らない。

 じゃあ今は再び熱心な読者になったのかというと、そうではなく、たまたま先日、新さっぽろにある紀伊國屋書店(サンピアザの1階から3階へとフロアを替え、新装開店オープンしたばかりだ)で見かけたので買ってしまったのだった。付録付きで1,800円。1,800円といえばDUO1の5階にある鮨処“春冬夏”の“ひばりランチ”より高い。

 この“春冬夏”にレコ芸を買う前に寄ったのだが(そしてただ単に寄っただけではなく食事をしたわけだが)、そしてそれは初めての春冬夏体験だったが、なかなかおいしいお寿司だった。
 ちなみにこのとき私が頼んだのは、みなさんに関心を寄せてもらうことはできないだろうが“特上ランチ”である。

 “春冬夏”という店の名前も悪くない。
 けど、命名した人はよっぽど秋が嫌いだったのだろうか?

  創刊号の付録が“悪魔のトリル”ってぇのも縁起が……
 レコ芸に話を戻すと、付録というのは創刊号の復刻版である。
 この復刻版が、なかなかというほどではないが、そこそこ楽しめた。特に欧文のカタカナ表記に。

 表紙はトスカニーニ。
 なぜトスカニーニなのかというと、このころトスカニーニが振る「悲愴交響曲」のレコードが発売されたからのようで、裏表紙(かっこよく言えば表4)には全面広告が載せられている。

IMGP1318

IMGP1322

 ・遂に成る世紀の偉業!
 ・交響曲-第六番-ロ短調
 ・ユニイークに演奏されてある
 ・彼は未来の、21世紀の感覚の持主だ!

 と、気になる表記が……

 21世紀の感覚がどういうものなのかさっぱりわからないが、なんかすごそうなことは伝わってくる。

 トスカニーニ/NBC響のチャイコフスキーの「悲愴」がどんな演奏なのかは知らないし、今後も耳にすることはないだろうが、この創刊号で木村重雄なる人物は“試聴記”にこう書いている。

 ……
 いま、ぼくの耳のそばで鳴っている「悲愴」は、まさにそれを裏切らない、すっきりした快いひびきである。前に挙げたような後期ロマン派に特有の世紀末的な手ばなしの感傷とか、スラヴ的な泥臭さなどは明快な棒の前に鮮やかに払拭され、「悲愴」ならざるチャイコフスキーの名作「第六交響曲」が、五線紙にとどめられた通りに鳴っている。
 ……


Tchaiko6Bychkov  眉がつながっているのは演奏に関係ないです
 そのチャイコフスキー(Pyotr Ilyich Tchaikovsky 1840-93 ロシア)の交響曲第6番ロ短調Op.74悲愴(Pathetique)」(1893)。

 私もこれまでいろいろな演奏を耳にしてきたが(上の試聴記では“耳のそばで鳴っている”と書かれているが、広告にもあるようなビクターのワンちゃん(ニッパー君)のような状況を想像すればいいのだろうか?)、どうしても好きになれない演奏がある。
 “感心できるところ”がちっともないのである。
 これぞ、性格の不一致、相性の悪さ、分かり合えない2人、ってもんだ。

 ビシュコフが指揮した演奏だ。
 オーケストラはロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団。だが、このオーケストラ(アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団と同一)が悪いわけがない。

 聴いていてイライラしてくるのはなぜだろう?

 1987年録音。デッカ(原盤:フィリップス)。