20170325Suisen  いくらなんでも危険すぎる……
 先日出張で北海道に戻ったときに、札幌市は西区の宮の沢ハイツが崩落しつつあるというニュースをやっていた。

 はっきりとは覚えていないが、この建物の姿に漠然とした記憶はある。

 旧国道5号線(札樽国道。現在は道道の北5条手稲通り)沿いで、ニチロや勤医協の近くだったはずだ。旧5号線に対してからはあまり大きく見えないが、奥行きが長い建物なので記憶に残っているのだ。

 その、道路をはさんで真向いではないとは思うが、岩橋印刷や(たぶんとっくになくなっているだろうが)キッチン“青い橋”があった。

  友だちとみなされていなかった?
 キッチン“青い橋”は当時、むかしの家畜舎をそのまま利用したような建物だった(ような気がする)が、中に入ったことがない。だからどんなメニューがあったのか知らない。

 だが、ここは中学の同級生の家だったのだ。

 店の名の由来は、近くに“中の川”っていう川が流れているので、当時はその川に青い色の橋でもかかっていて、そんなことでつけたのかもしれない(←100%憶測)。

 しかし、この同級生-O君-は、ついぞ私を彼の家に誘ってくれたことがなかった。遊びに行ったら店でなにかご馳走してもらえるかもという夢は、そのまま夢に終わった。

 まっ、家を行き来するほど親しい仲じゃでもなかったけど……(そこで暮らしていたのかどうかもわからないし)。

 おや?
 ネットで調べてみたら、建物はまったく違うものになったが、まだやってるではないか!
 もしや、O君があとを継いだのだろうか?

  憧れの的だったマンション
 宮の沢ハイツは1975年の建築だという。
 となると、私が西野に引っ越してきたときにはまだ建っていなかったことになる。

 そのころに7階建てのあれだけ大きい建物が建つということは、かなり目立ったと思うが、宮の沢方面(当時の住所は手稲東町)は徘徊エリアでなかった私には、建築途中の光景も記憶にない。


 一方、西野には西野ハイツというのがあって、これは1970年築。5階建てだ。
 私が西野に引っ越したときには出来たてに近く、外目から見て「マンションってこういうものなんだ」と思った。

 西野ハイツは4棟からなり、いまはもうすでにないホクレンマーケットのすぐ裏(北西側)に位置し、北東側にはゴルフの打ちっぱなし場があった。
 1976年オープンした西友西野店は、さらに打ちっぱなし場の横(北東側)に位置していた。

 西野の話をすれば、1972年にオープンした、当時の西野のシンボル的総合商業ビルであったカスタムパルコのことを書いたところ、これを読んでくれたサムさんが自分の記事で引用してくれたが、サムさんの方が実に詳しくカスタムパルコのことを覚えており、読んでいてとても懐かしく感じた(私の西野に関する記事は、右サイドバーの検索で“西野”と入力していただければけっこうな数が出てくる。特に旧ブログ(読後充実度 84ppm のお話)に多い→たとえばこんな感じ)。


 余談だが、サムさんは陸別から西野に引っ越してきたというが、名古屋に来る前に帯広に4年住み、仕事でしばしば陸別に行くことがあった私としては、それもまた懐かしく感じる。


 1970年代の西野は驚くべきスピードで変わっていった。

  グラウンドの横で豚が鳴いてたんです
 そのころは手稲東中学校のグラウンドの横には豚小屋があった-そのころは豚専用の配合飼料を食べさせるなんてことはせず、あちこちの家から集めてきた残飯を食わしてしたのでそりゃあなかなか刺激的な香りを清澄な手稲山のふもとの空気に放っていた-のに、それは更地になり、現在は立派なマンションが建っているようだ(西野2条4丁目をグーグル・ストリートビューで見ると)。

 臭いといえば、発寒川だって汚水が垂れ流されていたのでひどいものだった。
 西野地区(私が住んでいたのは手稲東中の近く)で下水が完備されたのは1981年ころになってからだと記憶している。
 もちろん糞尿は垂れ流さないが(市のクリーム色に塗装されたバキュームカーが街を走り回っていた)、生活汚水はそのまま。
 それでも発寒川で釣りをしているおじさんとかいたんだけど……
 もっとも、あのころはまだ住宅の数も今とは比較にならないくらい少なかったから、発寒川もどぶ川にならずに済んでいたのだろう。
 でもって、1981年だか82年にわが家のトイレも水洗になったときには、これでもうお尻を出したままアンモニア中毒で倒れてしまうなんて心配をしなくて良いと、天にも昇る気持ちになった(ということで、写真はイメージです)。

 豚小屋がなくなったあと、細い道をはさんで北東側には大蔵マンションという、マンションも建った(純情だった私は最初、それがマンションという肩書をもつ賃貸アパートのことだとは知らなかった)。ここはいま、空き地となっているようだ(同じくグーグル・ストリートビューで見ると)。


  スケベ同士のあうんの呼吸?
 西警察署が建つ前、そこは墓地だったが、その向かいに木造住宅そのものの外観のやっているのかやっていないのかガラスの引き戸の奥が暗くてわからない本屋-といっても、小学館だか集英社と書かれた金属のスタンドに雑誌を置いているだけ-があった。
 中学生の時に、朝のホームルームで先生が、そこに買い物に行った女子中学生が店の爺さんに触られたとかなんとかだから気をつけるようにと言われた。
 そういう爺さんなら何も言わないだろうと、私はその店で初めて週刊プレイボーイを買えた(西野書店なら店番のお姉さんに叱られるところだ)。

 大雑把にいうと、カスタムパルコの隣は生協、その横には太田理美容室、そしてその横にはウインキーというパン屋ができたが、日糧とかロバとかではないパンが西野でも買えるようになったのは画期的だった(ただしホクレンマーケットにはパン屋が入っていた。そこのピロシキを食べすぎて気持ち悪くなったことがあり、それからというものピロシキは私の苦手な食べ物と化した)。

SchnittkeVcCon 確かウインキーが入っていた建物が、その後マンボウになった。
 マンボウはあまりに人気のため移転し、駐車場のある現在の場所に店を構えている。

 マンボウよりもっと北西側の山の手通りが90度カーブを描いているあたりはリンゴ畑だったが、その手前にはジャイアンツボウルがあった。とはいえ、まだぜんぜんにぎやかなエリアではなく、向静学園という謎の施設があった。きっと静かに向かわせる学園だったのだろう。市営バスの山の手線の一部の便は、西野ターミナル始終発ではなく、向静学園前というバス停を起点・終点としていた。

 今日のところは、そんなわけでシュニトケ(Alfred Schnittke 1934-98 ロシア→ドイツ)の「静寂の音楽(Stille Musik)」(1979)を。

 ヴァイオリンとチェロのための音楽。

 ゴドホフのヴァイオリン、クリーゲルのチェロで。

 1990年録音。ナクソス。

 ってなことはともかく、西野ハイツは全然平気なことを願っている。
 かつては「住んでいる人がうらやましい」と思った、羨望の建物だったわけだから。