神御衣祭の和妙を奉職する神服織機殿神社〜2016冬至伊勢行(15)←(承前)
神麻続機殿神社(かんおみはたどのじんじゃ)へ到着しました。
ほとんど、前の神服織機殿神社の様子と同じですが、当然ながら木々は違っていますので、その差異を堪能できるほど樹木に詳しくなってみたいものと思いつつ、今はまだ私にとって、豚に真珠って感じでしょうか(泣)
こちらでは、この細い参道に接続した道路が広かったため、そちらへ車を路駐させて頂きました。
もちろん、駐車禁止の標識はありませんでしたから(苦笑)
こちらの杜の方が、いくぶん荒々しい感じかも知れません。
同じく、洞窟のような参道です。
目を懲らして見ると、こちらの参道は少し屈曲しています。
来た方を振り返りました。
やはり、胎内へ参入、って感じですね。
こちらも立派な巨木。
やはり空の光は木々に遮られ、参道は薄暗いままです。
神宮なので注連縄はありませんけれど、その前に祭壇のような四角く刳り抜かれた岩が置かれていますから、ご神木かと思われます。
参道の屈曲した先へと進みます。
榊でしょうか?
たぶん自生ではなく、植えられているのかと思えますが…
そして、御敷地へと辿り着きました。
今度は先に、本殿と八尋殿を一緒に撮らせて頂きました。
鳥居をくぐって御敷地へと参入。
こちらの御敷地には、つっかえ棒で支えられた巨木が立っています。
神服織機殿神社にはなかったものですが、もしかしたら、そちらにも元々あったかも知れません。
それほどまで意図された相似関係が、これら両社にはあると思いますので。
ともあれ、今回は探索を後にして、先に本殿からお参りをりさせて頂きます。
なお、サチエがずっと猫背で下を向き、元気なさそうに見えるのは、足元の白石の中からお気に入りを探しているからです(笑)
こちらは境内奥を望み、末社八所のうちの四社。
けれども、ここ神麻続機殿神社では四社が横並びで、左の一社だけ少し大きくなっています。
どうにかその意味を知りたいと思いますけれど、どうなんでしょう…
そして八尋殿。
こちらでは、神御衣祭(かんみそさい)に供進される荒妙(あらたえ・麻布)が奉職されます。
さてここで、斎宮歴史博物館1〜2016冬至伊勢行(11)にて申し上げていました、これら2つの機殿神社は斎宮との関係に重要な意味があるということについて、少しご説明してみたいと思います。
まず、日本神話における機殿の意義とはどのようなものであったか、振り返ってみますと、こんな↓シーンが思い浮かびますね。
早稲田大学図書館古典籍総合データベース『八頭ノ大蛇』チヤムバレイン[編述]鮮斎永濯[画]
この、まるで荒くれた山賊みたいに暴れている悪党は、言わずと知れたスサノオで、場所はアマテラスの機殿です。
ですから、怯えた3女性のうち左の黄色っぽい服を着たのがアマテラスかと思われます。
ただし、この挿絵は海外向けに日本神話を紹介する冊子にあったものですから、ちょっと記紀神話と違っており、本当はスサノオ自ら機殿の中で暴れたのではなく、屋根を破って皮を剥いだ馬を放り込んだという、さらに禍々しいお話しです。
そこで、古事記と日本書紀での記述を、現代語訳で引用させて頂きますとこのようなことです。
天照大御神(アマテラスオオミカミ)は神聖な機織り小屋で神にささげる服を織らせていました(原文:天照大御神、忌服屋に坐して、神御衣織らしめたまひし時)。
スサノオはその小屋の屋根をぶち破って、逆に皮を剥いだ馬を放り込みました。すると機織りをしていた女性が驚いて、女性器を機織りの部品の一つ(梭=ヒ)で突いて死んでしまいました。
日本神話・神社まとめ/古事記/天照大神と素戔嗚尊/素行不良が過ぎる
(前略)
衣服を織る齋服殿(イミハタドノ)にアマテラスが居るを見ると天斑駒(馬)の皮を剥いで、建物の屋根に穴を空けて投げ入れました。するとアマテラス驚いて、機織りの機械の部品の「梭(ヒ)」で傷を負ってしまいました。(後略)
(前略)
稚日女尊(ワカヒルメ)※が齋服殿(イミハタドノ)で神の服を織っていました。スサノオはこれを見て、斑駒(マダラコマ=マダラ模様の馬)の皮を逆に剥いで、建物に投げ込みました。
ワカヒルメは驚いて、機織り機から転げ落ちて、持っていた機織りの道具の「梭(ヒ、もしくはカビ)」で体を突いて死んでしまいました。
(後略)
日本神話・神社まとめ/日本書紀神代上/第七段一書(一)稚日女尊の死と日矛と鏡
(前略)
日神(ヒノカミ)が織物の神殿に居る時に、斑模様の馬を生きたままに皮を剥いで、その神殿に投げ込んでしまいました。
(後略)
日本神話・神社まとめ/日本書紀神代上/第七段一書(二)-1日神が臭くなる
ということで、これらにて注目したいのは、スサノオの蛮行や誰が死んだか怪我を負ったか今回さて置き、何よりアマテラスが機殿にいた、ということです。
特に古事記では「神聖な機織り小屋で神にささげる服を織らせていました」とされていますから、アマテラスは神への奉斎品を自らの機殿で監督し奉職していた、ということになり、それによってアマテラスと機殿と斎王、これらの強い関係が見えて来ることになります。
つまり、アマテラスは高天原を統治する最高神であるとともに、自己より以上の神々を祭祀する司祭者でもあり、さらにはその祭祀に用いる奉斎品の奉職者であって、それら天上における司祭と奉職の任を、次の天下において嗣いだ者が斎王である、ということになると思います。
そしてもちろん、斎王による司祭の場は神宮ですが、もし奉職も行っていたとすれば、その場は当然ながらこれら2つの機殿=八尋殿であったということになります。
そのため、斎宮は伊勢の地に創建され、さらに機殿は八尋殿として斎宮の近くに設営された、ということになるのだろうと考えられます。
そのような斎王のつとめとして、司祭では年に3回、6月と12月の月次祭と9月の神嘗祭で神宮へと赴かなければなりませんでしたけれど、他に機殿での奉職があったとすれば、それよりもっと頻繁に八尋殿へと行き来しなければなりませんから、機殿は斎宮の至近でなけらばならなかったことになります。
そのため、前回にも引用しましたが、
機殿の由緒は古く、皇大神宮御鎮座当時に、五十鈴川のほとりに宇治の機殿を建て、天上の儀式にならって大御神の和妙を織ったことが伝えられ、その後天武天皇の御代に紡績業の盛んな現在の地に移されたようです。
ということで、機殿はもともと五十鈴川の宇治にあったということと、初期の斎宮=磯宮(いそのみや)もその近くとなる五十鈴の川上にあったことが符合します。
斎宮の起こり
(前略)
垂仁天皇の時代、豊鍬入姫の姪にあたる皇女倭姫命が各地を巡行し伊勢国に辿りつき、そこに天照大神を祭った。この時のことを『日本書紀』垂仁天皇紀は「斎宮(いはいのみや)を五十鈴の川上に興(た)つ。是を磯宮(いそのみや)と謂ふ」と記し、これが斎王の忌み籠る宮、即ち後の斎宮御所の原型であったと推測される。
(中略)
天武天皇の時代に正式に制度として確立し(『扶桑略記』は天武天皇が壬申の乱の戦勝祈願の礼として伊勢神宮に自らの皇女大来皇女を捧げたのが初代とする)、以後は天皇の代替わり毎に必ず新しい斎王が選ばれ、南北朝時代まで続く制度となった。
との通り、天武天皇の時代に諸制度が確立し、斎宮が今に残る遺跡辺りへ大々的に新設されると、それに伴い機殿も斎宮近くに移された、ということではないかと思われます。
下に地図を再掲載いたしますので、機殿↔斎宮↔神宮の位置関係を今一度ご確認ください。
このように、アマテラスと機殿と斎王、これらの密接な関係が、私には斎宮理解にとって最重要なポイントのひとつと思われてなりません。
しかし、なぜか斎宮歴史博物館ホームページや櫻井勝之進『伊勢神宮』などではこの点へ触れられていませんし、明和町の日本遺産「祈る皇女斎王のみやこ 斎宮」にも2つの機殿神社が入っていませんから、何か私に勘違いがあるのかも知れませんけれど、いかがでしょう?
参拝の前に、サチエはまだお気に入りの白石を探しています。
神麻続機殿神社(かんおみはたどのじんじゃ) 皇大神宮所管社
祭神:神麻続機殿鎮守神(かんおみはたどののまもりのかみ)
祭神は神御衣祭(かんみそさい)に供進される荒妙(あらたえ・麻布)を奉職(毎年5月と10月の上旬に神職が参向する)する御機殿の鎮守の神、神麻続機殿鎮守神。御機殿は八尋殿(やひろでん)といい、向かって右の萱葺の建物である。社地には小社殿ながら、所管社の神麻続機殿神社末社八所、祭神は神麻続機殿鎮守御前神(かんおみはたどののまもりのみまえのかみ)がご鎮座されている。上機殿(かみはたどの)とも呼ばれている。
サチエを待つ間、境内の奥を望みます。
八尋殿の前に、神服織機殿神社にはなかった御敷地の巨木。
末社の並びも少し違って、気になります。
もし、アマテラスがこのような天上の八尋殿にひとりだけで神御衣を織っていたとしたら、↓こんな感じなんでしょうね。
国立国会図書館デジタルコレクション『素戔鳴尊』保積稲天[著]
ちなみに、高天原におけるアマテラスの役目には、機殿での奉職に並んでもうひとつ、水田の経営ということがあります。
けれど、水田ではアマテラスは奉職しないようで、記紀にもその記述がないようですから、まさに経営ということだけなんだろうと思います。
確かに、身に纏った神衣の尻を絡げて田植えするアマテラスの姿、想像できませんから(苦笑)
そして、この水田経営ということは天下において天皇へと引き継がれ、その班田収授により国の財政を構築して国家が運営されることになります。
つまり、祖神とされたアマテラスの担う聖職のうち、水田経営=国家統治が天皇の役割として引き継がれ、他に本来なら司祭と機殿での奉職も引き継ぐべきところでしたが、それは内親王(天皇の娘)または女王(内親王以外の皇族女性)から卜占で選ばれた斎王へと分担された、ということになります。
それはやはり、アマテラスを女神としたことで、その役割で女性が適任とされる分野を天皇から分離させた、ということかと思われます。
ということは、天皇と斎王の二人一対でアマテラスの正統な後継者ということになるわけで、斎宮が都に次ぐほど大規模に組織された理由も、ここにあると思われます。
しかしながら実質的に、司祭は神宮の神官に牛耳られて斎王は添え物のようですし、斎宮も斎宮寮頭に専横されるままだったようですから、斎王はまさに人身御供で都から遠く島流しに遭ったという状況ではなかったかと思えます。
ですからそのような中、嫥子女王が起こした斎王託宣事件などもありながら、歴代ほとんどの斎王は、忸怩たる思いを抱きながら日々を過ごしていたのではないかと想像してしまいます。
本来、彼女たちは超高位のお姫様として、都で華々しく宮廷生活を楽しめる筈だったのですから。
しかしそこで、彼女たちの思いを晴らせる唯一の自己表現があったとすれば、それは女性としていつの時代にもなくてはならない永遠のステータス、服飾=ファッション、であったかもと考えが至りました。
そうして、ようやく参拝。
サチエはお気に入りの白石ひとつをコッソリと神前の正中に置き直し、私に何を言われるか、様子を伺っています(苦笑)
ともあれ良い子の皆さま、御敷地の白石を勝手に触ったり持ったりしないよう気をつけましょうね。orz
本殿へのお参りが終わって、後ろの方を振り返りました。
ずっ〜と、他に誰もおられないままでした。
ここで写真を撮り忘れましたが、本殿前この右横にある末社二社にもお参りしました。
御敷地の巨木。
ここに立つ意味が、何かあるんでしょうね。
境内奥の末社四社へ向かう途中、八尋殿を振り返ります。
巨木のお陰で、先の神服織機殿神社とは大きく違った印象になっています。
このような八尋殿がもし高天原にも本当にあったとしたら、その現実的な機殿内の様子は、多分↓このようなことだろうかと思われます。
国立国会図書館デジタルコレクション『神代の物語』佐野保太郎・他[著]
さて、斎宮における服飾=ファッションという件についてですが、伊勢の外れで籠の鳥となっていた斎王にとって、身の回りの高級な調度品や装飾品も重要なアイテムであったと思いますけれど、それらのほとんどは遠く産地より取り寄せるしかない筈の物で、細かな自分の好みを注文に入れられるわけではなかったと思われます。
しかし、糸や布による服飾品であれば、何より機殿が近くにあって、斎王は建前上かも知れませんけれど、ともあれアマテラス譲りの機織り専門家であったわけですし、そもそも近隣には和妙・荒妙を奉職する技術を持った人々が多く在住しているわけですから、自分の好みを事細かに伝えてオリジナルの逸品を作らせることは可能だったのではないでしょうか。
何より、それぐらいの自由しか斎王にはなかったでしょうし、それこそが女性にとって時代を超えた必須の自己表現であることを思えば、機殿と斎王を強く結びつけていたであろう関係性について、ことさら思いを馳せずにはおられません。
また、斎宮寮には500人を超える官人がいたということですから、もしそれらの装束が必要に応じ近隣へと発注されていたとしたら、斎宮周辺は常々機織り作業で賑わっていたかと思われます。
少なくとも、かつて上代の神御衣祭では、膨大な量の和妙衣・荒妙衣を奉職しなければならなかったそうですから、この地で紡績・織物業が盛んとなって今に至ったのも、斎宮の存在が大きかったのではないかと思われます。
服部と麻続部
(前略)
近代でこそここでは各一匹を奉織するだけで、そのほかは愛知県の木曽川町(和妙)と奈良県の月が瀬(荒妙)の専門の機業家に委託することになったが、上代においてはすべてをこの鎮守の社の加護のもとで織り立てたことはいうまでもなかろう。その数は『延喜式』によると次のとおりである。
皇大神宮 荒祭宮 計
和妙衣 二四匹 一二匹 三六匹
荒妙衣 八〇匹 四〇匹 ―二〇匹
和妙(にぎたえ)の糸は三河から送られたとしても、荒妙(あらたえ)の方は麻を栽培することから始めなくてはならない。このぽう大な量を、それも大御神の御料としてしかも短時日の間に奉織するとなれば、その奉仕の労は想像を絶するものがあったに相違ない。この時期がくるたびにおそらくは村中がことごとく忌機殿(いみはたどの)と化したことであろう。そうしてみると、今日のあの鬱蒼と茂った杜のなかの唯一棟の御機殿と唯一台の御高機というものは、貴重な象徴的存在ともいわなければなるまい。
(後略)
ただ、もちろんながら、斎王や女官をはじめ斎宮寮の官人たちが、実際どのように装束を調達していたのか、私には分かりません。
もしかして、都から嫁入り道具のようにして持って来たものを何年にもわたり修繕しながら延々と着続けていたかも知れませんし、あるいは都へ発注すれば意外に易々と新しいものを届けて貰えたのかも知れず、もしくは私の想像したように斎宮の近隣で自ら調製していたものなのか、どうなのか…
何しろ、斎宮歴史博物館ホームページで色々と検索してみても、今のところ斎宮の装束に関する情報がほとんどヒットしません。
それでも、博物館には様々な装束の模造品が展示されていますので、それらの拠って立つ資料や根拠はあると思うのですが、未だそのような情報について掲載されていないようです。
ということで、アマテラスと機殿と斎王の関係につきましては、引き続き探求してみたいテーマとなりました(苦笑)
末社四社。
向かって左が境内の奥ですから上座となり、そこの一社だけ少し大きくなっています。
神服織機殿神社では上座から三社が並び、右端に少し小さな一社が上座の方を向いていました。
これらの配置や大きさにも、もちろん何か意味があるんでしょうけれど、まったく手掛かりがありません。
それと、先の二社と合わせやはり六社ですから、末社八所には二社足りません。
ということは、末社八所の「所」とは、「社」と何か意味が違うんでしょうかね?
参拝をすべて終え、境内を見渡します。
鳥居を出て、こちらへも再訪を期して一揖。
これにて伊勢市内での参拝は完了です、、、
とこの時は思っていましたけれど、これら機殿神社二社は松阪市、先の斎宮歴史博物館は明和町ですから、へんばや商店本店の後、すでに伊勢市を出ていたことへ後で気付きました(苦笑)
参道を戻ります。
写真は明度をかなり上げていますので、それなりに木漏れ日で明るく見えますけれど、実際はこれよりかなり薄暗い状況。
逆光のシルエットで迫力ある巨木。
真っ直ぐに伸びる杉の木より、このグネっとした曲がり具合が、伊勢志摩の気候らしく思います。
ふり返って左奥に社務所。
さらにその奥は、おそらくですが斎館かと思われます。
神服織機殿神社では木々が完全に参道を覆っていましたが、こちらは参道の上で木々の茂みが亀裂のように割れていました。
鳥居を出る前に、今一度ふり返ります。
杜を出ると、やはり陽光が眩しいくらいでした。
こちらの境内周辺には、車が通れるような畦道はありません。
時刻は、13:00ごろ。
いつもの冬至なら、すでに瀧原宮の参拝を終え、道の駅奥伊勢おおだいにて昼食を済まし三輪へ向け出発しようかという頃合いですから、かなり進行が押しています。
どうなることか、焦りながらも開き直った気持になって、次の瀧原を目指しました。
(つづく)→ 機殿神社追記、そして瀧原から三輪へ〜2016冬至伊勢行(17・最終回)