日々のさまよい

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2020夏至伊勢行(2)大潮に神前岬の潜島へ初参拝 ←(承前)

 

 

いつもの伊勢行では、おおよそ未明から夕方までビッシリ予定を入れているところ、今回はノンビリ巡ろうという方針だったため、潜島を参拝させて頂いた後の計画がないままでした。

 

そのため、神前海岸の浜辺で撤饌(おさがり)を昼食に頂きながら、海を見つつボンヤリこれからどうしようか考えていますと、鏡宮神社へ行くことを思いつきました。

 

 

というのも、大潮でこれほど潮が引いているなら、鏡宮神社を挟んで合流する五十鈴川と朝熊川も、かつて見たことがないほど水位が下がっているに違いありませんから、今まで知らなかったお姿を拝見できるのでは、と考えたからです。

※上の写真はその時に撮ったパノラマ写真。左右を川に挟まれてこんもり繁った中央の杜が鏡宮神社

 

下の地図をご覧頂ければ分かるのですが、赤アイコンで示した鏡宮神社の横を北へ向け伊勢湾へと流れているのが五十鈴川で、鏡宮神社の立地はとても河口に近く、潮の干満が川の水位に大きく影響する地点であることが見て取れます。

 

 

Googleマップ/鏡宮神社

 

 

 

 

ということで、神前海岸から車で直行し、朝熊神社前に到着しました。

時刻は、大潮の干潮がピークとなった12:03より少し遅れて12:50頃。

 

この右手が、朝熊神社と朝熊御前神社の杜です。

手前から向こうへと流れている朝熊川が、その先で五十鈴川に合流しています。

その朝熊川を挟んだ左の向こう岸が、鏡宮神社の杜となります。

 

今まで、ここで見る川の水量はいつも豊富でしたから、やはり大潮における干潮の影響は大きいものでした。

下に引用した過去記事の写真と見比べれば、その違いがはっきりと分かります。

 

 

日々のさまよい/鏡宮神社の聖なる双鏡へと神は降臨する〜2016冬至伊勢行(9)

 

朝熊橋の上から、五十鈴川の方を望みます。

 

右が先にお参りした朝熊神社の杜、左が今からお参りする鏡宮神社の杜。

足元を向こうへ流れる朝熊川は、この先に見えている五十鈴川へと合流しています。

 

逆に、上で引用した写真のように川の水位が高い場合、その水面にはほとんど波が見えず、ほぼ水が流れていないかのように見えますから、この場合だとやはり満潮の影響をそのまんま受けていることが分かります。

 

 

この、私たちにとっては珍しい干上がった川の様子を、朝熊神社の前からパノラマで撮ってみました。

 

 

 

 

 

ともあれ、先ずは皇大神宮摂社の朝熊神社と朝熊御前神社に参拝させて頂きます。

先の冬至には、ここへ来れなかったため知らなかったのですが、この一年の間に遷宮が成されていました。

おめでとうございます〜!

 

 

 

 

新築して間もない社殿とともに記念撮影。

 

 

 

 

そして、皇大神宮末社の鏡宮神社。

こちらの社殿は、まだ古いままです。

 

 

 

 

河原へと降りる石段横に、「虎石」。

 

今までは、この木柵へ被さるように枝葉が覆っており、その上、足元ぎりぎりまで川面が迫っていましたから、なかなかじっくりと拝見できませんでした。

けれど今回、このようにスッキリと明るい状態で足元に不安もなかったため、初めてまじまじと「虎石」にご対面させて頂けました。

 

そのお陰さまを持ちまして、ずっと知らなかったこの「虎石」という名の由縁を、今回ありがたく知ることができたのです。

詳しくは、後ほどに…

 

 

日々のさまよい/鏡宮神社の聖なる双鏡へと神は降臨する〜2016冬至伊勢行(9)

 

 

水辺の「虎石」。

ただ、どうしてこの岩が「虎石」と呼ばれるのか、今のところ私は知らないままですが…orz

 

 

 

 

河原へと降りました。

三角州がそのままの姿であらわれています。

かつて見た風景だと、ここはいつも川面でした。

 

このように、川の水位にまで影響を与える潮の干満は、月の満ち欠けの周期に合わせくり返されます。

そのため、ここで二面の神鏡を虎石にのせ祭祀が行われていたということですから、その際、鏡に映されたのは月、だったのではないでしょうか。

 

さらには、神鏡は二面とのことですから、神鏡そのものが満月 (望) と新月 (朔) の表象であったとか、あるいはもしかして、月と太陽で一対だったとか…

 

ともあれそのような祭祀にとって、月の満ち欠けに合わせ浮き沈みし、五十鈴川と朝熊川という2つの聖流によって生成されたこの三角州こそ、もっとも相応しい聖地とされたのではないかと思われます。

 

そういえば、「水月」という言葉がありますね。

主に「水に映った月」という意味になると思いますが、そのようなイメージも、この鏡宮と神鏡の祭祀には、込められているように思えます。

Wikipedia/水月

 

 

 

手元の画像で適当に合成↑してみましたけど、こんな感じになりますでしょうか…

まあ、いずれ機会があればぜひとも、このような満月の夜に訪れてみたいと思います。

 

月と鏡はともに他者の像を反映するという相似の機能を担い,心理的にも互いに隣接する観念である。両者は地上の現実世界の反映であると同時に,異次元世界へ と人を誘う扉でもあり,我々のなじみ深い世界にぽっかり空いた未知の世界,夢の世界への入り口である。

 

月と鏡に関する東西考/中村久美(天理大学学報 第6巻第2号)

 

 

 

 

水位の高い時には立てなかった川面の位置にカメラを持って立てましたから、落ち着いて「虎石」と記念撮影。

木柵の根元が朽ちていることで、水量が多い時にはここまで川面の上がって来ることが分かります。

この木柵も、鏡宮の遷宮が成されれば新調されるのでしょう。

 

 

 

 

そうして、せっかく姿を見せてくれた三角州の先まで行ってみます。

 

ここで朝熊川と合流した五十鈴川は、この先700mほどで左右に分岐し、左の本流は河口で瀬田川と合流、右へは五十鈴川派川として二見町の江と松下の間を抜け二見浦へと流れています。

 

 

 

 

鏡宮の方を振り返りました。

右手前にある大きな岩は潮干石、だと思います。

干潮の際、このように姿を現すところから、そう命名されたものと思われます。

 

伊勢志摩きらり千選/鏡の宮(鏡宮神社)

 

 

 

 

五十鈴川の中にも、いくつか大きな岩が存在します。

ウロ覚えでハッキリしませんが、これらそれぞれにも名前があるような記述を、どこかで読んだような気がするんですけれど、どうにも思い出せません(泣)

 

冒頭でも掲載しましたが、この三角州の先っぽから、鏡宮を挟んで合流する五十鈴川と朝熊川を一望するパノラマ写真↓の大型版。

 

 

 

 

 

そして、ここでの最後に、撮影がしやすくなっている「虎石」を、色々な角度から撮ってみました。

そうすると、あれ? もしかして…と気付くことがあり、そのことが最も分かりやすく見えるアングルを探していると…

 

 

 

 

どうでしょう?

こう見ると、「虎石」ってまさに猛獣の虎、だったようですね〜

この絵↓と見比べて頂ければ、分かりやすいと思います。

 

 

宮内庁/これまでの《京都》御所と離宮の栞/其の二十/土佐光文「竹ニ虎」


虎に似た石だから「虎石」。

ちゃんと拝見するまで分かりませんでしたけれど、意外とシンプルな理由だったようです(笑)

お顔はちょっと、虎というより龍に似ているような気もしますけどね。

 

とはいえ月と虎は、古来より定番的なモチーフですから、相性としてはバッチリです。

 

幕末ガイド/葛飾北斎「月みる虎図」


これにて、積年の謎も解決しました〜〜

 

 

 

ということで、この夏至当日はこれにて参拝終了となりました。

この後、割烹大喜山川活魚ととやに寄って夕食を調達、二見浦へ戻るとホテルにチェックインして入浴を済まし、今度は素晴らしい夕陽を遙拝させて頂きまして、ゆっくり過ごしました。

 

ここで思い出したのですが、先日、二見興玉神社から夏至祭斎行の御礼状を頂戴しており、私たちが目の当たりにさせて頂いたご来光の写真を載せておられましたので、ご紹介いたします。

 

 

二見興玉神社

 

 

 

 

そして翌日、未明04:00頃に内宮駐車場へ到着しました。

いつもなら、宇治橋前の内宮A駐車場を利用するところ、コロナの影響で閉鎖されていましたので、おはらい町の少し向こうに離れた内宮B駐車場へ車を入れます。

 

そこから、まだ暗い中を歩いて宇治橋前に着くと、先ずは内宮の向かい側、鼓ヶ岳の麓に鎮座されます饗土橋姫神社から津長神社、大水神社と巡り、開門時刻05:00ちょうどに内宮へ参入できました。

そうして内宮をゆっくりと参拝して後、おはらい町を通って駐車場へと戻りますから、久しぶりに赤福本店へ寄って縁側に座り、ツバメが元気に飛び交う姿を楽しみながらお餅とお茶を頂きました。

 

今回、これにて伊勢市での参拝は完了し、いつも私たちにとって伊勢参りの〆となる大紀町の瀧原宮へと一気に進みます。

 

 

 

 

瀧原宮の参道。

今回、なかなか小さな雨蛙が見つかりませんでした。

 

 

 

 

いつもなら、小さな雨蛙が参道にぴょんぴょん跳ねていたりするのですが、ようやく御手洗場から社殿の方へ少し上がったところの大杉の根元で、この子に出会えました。

 

すると、その大杉の幹にも、少し大きめの雨蛙↓がいるのを発見。

 

 

しばらくじっとしていましたが、それをまじまじと私たちに見られているのを嫌ったか、あるいは何かの理由でそちらの方へ行きたかったのか、急に木を登り始めました↓

 

 

見ていると、結構な速さで木をドンドン登って行きます。

 

 

 

 

そうして人の背丈くらいの高さまで来ると、苔の中でようやく安心したように留まりました。

苔との保護色でやっと隠れられた気分でしょうか?

もしかして、ここにいると、虫など捕食しやすいのかな?

 

理由はよく分かりませんけれど、これほど元気に一気呵成の勢いで木を登る蛙を見たことがありませんでしたから、何だか健気でいじらしく、そのままそっと私たちはこの場を立ち去りました。

 

 

 

 

ということで、「木登り蛙」は、まあ、オマケ的なエピソードですみません…

ついでに、もひとつオマケで、サチエの蛙ポーズを(苦笑)

 

 

 

さて、この後はいつも通り、太陽を追いながら西へと太陽の道を辿って三輪に到り、この夏至伊勢行を満願させて頂きました。

 

今回は特に、私たちにとって思わぬ僥倖といえる出会いに色々と恵まれまして、本当に感謝に堪えない伊勢行とさせて頂きました。

ありがとうございます。

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

 

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2020夏至伊勢行(1)二見浦の朝陽と夕陽 ←(承前)

 

 

二見浦で素晴らしい夏至のご来光を遙拝させて頂いた後、二見→外宮→月夜見宮→倭姫宮→月讀宮→猿田彦神社→伊雑宮→松下社、とぐるり巡って二見浦へと戻り、神前海岸を辿った先の潜島(くぐりじま)へ、初参拝に伺います。

 

 

 

 

昨年の夏至、下の過去記事でご紹介しましたように、神前岬にある潜島の存在を知って以来、いつ行けるものかと思っておりましたところ、

 

日々のさまよい/神前海岸

 

 

天気も良くなり、何しろ夏至で気温が低いわけではありませんでしたが、何やら寒そうなサチエ。

少し風が強かったかも知れません。

 

この海岸の先、神前岬に「潜島(くぐりじま)」という海食洞門があることを、堤防にあった案内看板で初めて知りました。

 

 

 

 

次の機会には、潮の干満を調べておいて、ぜひとも伺ってみたいと思っています。

 

 

今回、夏至伊勢行に先立って調べてみましたら、何とその夏至当日がちょうど朔日(さくじつ/ついたち:陰暦における月初の日)にあたり、月の満ち欠けだと新月で、潮汐(ちょうせき:海面の昇降現象)が大潮となる特別な日だったのです。

 

 

↓神前海岸の堤防にある案内看板

 

神前(こうざき)海岸と潜島(くぐりじま)

Kozaki Coast Kugurijima

 

 神前海岸は海水や磯波の激しい侵食によってできた岩石海岸で、各所に急峻な海食崖が発達しています。

崖面にみられる断層や節理と呼ばれる天然の割れ目などの弱帯には、立石崎の天の岩屋を始めとする海蝕洞が形成されており、特に神前岬の潜島は唯一の海食洞門を成しています。

 この潜島は神格化されており、旧暦6月1日頃になると村民総出で注連縄を作って洞門へと掛け替え、家内安全を祈願しています。

 潜島はこの先800mですが大潮の干潮時でないと行くことができませんので潮時にご注意ください。

 

そして、この大潮とは、

干満の差が最も大きい潮汐作用 (→潮汐 ) をさす。月に2回,月,地球,太陽が一直線上に近く並ぶとき,すなわち,満月 () と新月 () の時期に起る。

 

コトバンク/大潮/ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

 

ということで、今年の夏至はたまたま朔日と重なっていましたから、何とも奇遇で有り難いことでありました。

 

なお、大潮は陰暦ひと月あたり満月 (望) と新月 (朔) の時期に計2回、それぞれ数日にわたり、干満は日におよそ2回、地域によって日程や時刻も違ってきますので、事前に気象庁/潮位表で調べておく必要があります。

 

ちなみに、この夏至を含む6月については、このようなことでした。

 

気象庁/潮位表/鳥羽/06/01〜06/30

上で引用した潮位表で、2020/06/21(日)の月アイコンが濃紺だけの朔(新月)になっており、干潮が12:03に-106cmということになっています。

他に、2020/06/06(土)の月アイコンは濃紺にまん丸の望(満月)で、こちらの干潮は12:14に-119cmです。

それぞれ、朔(新月)はその後2日、望(満月)はその前2日ほど潮位が大きく低いですから、これらが大潮の日となります。

 

なお、このように満潮・干潮がおこる潮汐の仕組みについては、同じく気象庁のこちらのページで分かりやすく解説されています。

 

気象庁/潮汐の仕組み

ただ、この解説だけでは、私にとって理解し辛い点(上図で地球に作用している左向きの引力は月の引力として分かりますが、右向きに働いている遠心力ってのは何?)がありましたから、それについての説明を、この記事末尾に補足しましたので、ご興味ある方はご参照くださいませ。

 

 

 

 

と、前置きが長くなってしまいましたけれど、ようやく神前岬の潜島へ向けて出発です。

画面右奥、神前神社が鎮座されている小井戸口山の裾、堤防の端に小さく見えているのが、神前海岸と潜島の案内看板。

 

時刻は11:00を少し過ぎた頃で、干潮のピークとなる12:03までには引き返せるよう、念のため早い目の出発にしておきました。

万一にも遅くなったら、下手をすると帰れなくなりますから(苦笑)

 

 

 

 

颯爽と歩き出したサチエの遠く後方には、音無山。

その右下の海面に、夫婦岩があります。

 

 

 

 

神前海岸の砂浜が続きます。

大潮の満潮時には、海面がこの砂浜を覆い尽くしてしまうと思われます。

 

 

 

 

さらにサクサクと進むサチエ。

梅雨時にもかかわらず、天候が晴れていて助かりました。

朝のご来光もそのお陰でしたし。

 

 

 

 

次第に山が海の方へと迫って来ます。

波に洗われてきた磯の巨岩がむき出しです。

 

砂浜の上にも巨岩がゴロゴロ点在していますけれど、これらは長い年月のうちに山から転がって落ちた岩なのか、あるいは山そのものが海の波によって切り崩された残骸なのか、どうなんでしょう?

 

 

 

 

上の岩の反対側。

いずれ、遠い将来には波浪によって崩れ落ちるのかも知れません。

 

 

 

 

ポツンと浜に居座る巨岩。

まだゴツゴツとして角が取れきっていませんから、比較的に新しく山から転がってきたものかも、ですね。

 

 

 

 

右手前の小井戸口山の向こうに、神前岬の山が見えてきました。

けれども、この神前岬となる山そのものの山名が、調べたけれど分かりません。

 

ただ、神前岬は神前崎と呼ばれることもあるようで、「岬」は海や湖の水中に突き出た陸地の先端、まさに先っちょというニュアンスですけど、「崎」はもう少し広くその突き出た地一帯を示すようにも思えますから、もしかして、神前岬を擁するこの山そのものを「神前崎」と呼ぶのではないかとも思えます。

 

というのも、この山の頂上には「神前灯台」が建っており、そこの初点灯記念銘板に「神前崎灯台」と刻まれているそうで、この名称違いも、岬を含めたこの山そのものを「神前崎」と捉えれば、まあ合点がいくという感じですから…

 

ともあれ本記事では、神前岬の山を神前崎、と書いておこうと思いますので、もし正式名称をご存知の方がおられましたら、何卒お知らせくださいませ〜

 

 

 

 

左の神前崎(仮称)と右の小井戸口山の間に刻まれた谷間。

これを少し入った左手に、神前灯台へ至るルートがあるとのことです。

 

還暦過ぎの阿乱怒論/神前埼灯台(三重県)

 

 

 

 

谷間の前の海。

これをもう少し先へ進むと、砂浜が終わり岩場となります。

 

 

 

 

そうして砂浜もここで終点となりました。

厳しい磯の岩場が向こうへと続いています。

 

ここ神前海岸は、古来より船の難所としても有名で、

「伊勢の神崎 国崎の鎧 波切大王なけりゃよい」

と謳われてきたとのことです。

 

 

志摩市立図書館電子書籍/難船とその始末 伊勢の神崎 国崎の鎧 波切大王なけりゃよい(古文書にみる江戸時代の志摩 3 )

 

 

 

 

海の中にある岩礁も、もしかしたらこんな感じなんでしょうか。

 

 

 

 

来た方向を振り返ります。

先ほどとあまりパっと見の違いはありませんけれど、この砂浜が満潮の海水で満たされてしまった時のことを想像すると、ちょっとコワイものがあります(苦笑)

 

 

 

 

ようやく岩場の向こうに、白木の鳥居が見えました。

しかしながら、初めてここへ来た私たちには、その先どうなっているかが分かりません。

 

この鳥居へ至るまでの厳しい岩場を前にしたサチエが、「ここまでで、イイよね?」と弱々しく聞いてきます。

けれど、ここまで来て、潜島を目にすることもなく引き返すわけにはいきませんから、ともあれ私が先行し、前へズカズカと進みました。

 

 

 

 

足を滑らせないよう注意しながら、浮き石にも気をつけて進みます。

幸い、岩場は潮の引いた海面よりそれなりに高かったため、足元はかなり乾いていました。

 

 

 

 

鳥居より手前にあった「建設海岸基標」。

左横に、写真では見えにくいですが「終点」とあります。

調べても詳しいことは分かりませんでしたが、どうやら海の縄張りみたいなことを表すようで、この基標を海上境界の基点として、漁師さん達が漁場の区切りとしているようですけど…

正しいことご存知の方がおられましたら、ご教授ください。

 

 

 

 

 

サチエもガンバって付いて来ました。

ご覧のように、岩の合間に滑り落ちたら大変なことになります。

 

 

 

 

そうして、ともあれ鳥居に到着。

少しホッとしていますが、ここからでも、まだ潜島は見えません。

先の分からない不安に、サチエはしばし茫然としたまま…

 

 

 

 

鳥居からも私が先行して進みながら、後ろを振り返りました。

私の様子を遠くで眺めながら、なかなか前に進めないサチエです。

 

 

 

 

鳥居の先に、少し開けた場所がありました。

それでも、潜島は依然として見えません。

 

後で分かることですが、この先を右手に回り込んだ向こうに、潜り戸はあります。

 

ここでサチエを待つ間にパノラマ写真↓を撮ってみましたので、写真が横に寝て少し見にくいと思いますが、ご覧くださいませ〜

 

 


 

 

そうして、ようやく潜島が見えました。

なおのこと、岩場も厳しさを増しているような気がします。

 

 

 

 

サチエもどうにか追いつきました。

ということで、ここでもパノラマ写真↓あります。

 


 

 

 

潜島の海食洞門です。

 

この前に立ってまじまじと眺めていたら、それまでネットの写真や動画で見ていた印象と何か違うことに気付きます。

そう、注連縄がありません。

よく見てみると、左上の岩の間に注連縄の残骸があるようで、その注連縄を下げていたワイヤーはそのまま残っているようでしたが…

 

案内看板には「この潜島は神格化されており、旧暦6月1日頃になると村民総出で注連縄を作って洞門へと掛け替え、家内安全を祈願しています」とありましたから、今年は何か事情があり、未だ掛け替えができていないんだなぁ、などと思っていたところ、そこにイキナリ私たちの後ろから長靴をはいたオジさんが現れ、話し掛けられました。

 

「今年はね、コロナでさぁ、まだ注連縄かけられてないんだよ」

「あ、そうなんですか…」

「だもんで、今度ようやく掛けることになったから、ワイヤーの調子見に来たんだけど、こんなとこまでよく来たね」

「あ、はい、ぜひ一度お伺いしたいと思って、今日が大潮だったんでようやく来れました」

「そう、んじゃぁね」

 

とオジさんは岩場に足を掛け、洞門の上へと登って行き始めましたので、そこで慌てて声をかけ、

「あの、この洞門って、私たちが潜らせて頂いてもイイもんでしょうか? 神聖な場所だと思いますから…」

と尋ねましたら、

「ダメってことはないよ〜」

とお応え頂き、これもありがたや〜〜の出会いでございました。

 

 

 

 

ということで、先ずは海食洞門の前にてお参りをさせて頂きました。

 

お供えには、松下社へ参拝した際、その隣にある「民話の駅 蘇民」で購入し用意していた「五目おこわのおにぎり」とペットボトルのお茶です。

後ほど神前海岸の浜辺で撤饌(おさがり)として美味しく頂きました。

 

そうしてようやく、遠慮せずに海食洞門を潜らせて頂きます。

 

 

 

 

洞門を抜けると、すぐ目の前が伊勢湾の大海原です。

 

 

 

 

洞門を抜けたところで記念撮影。

 

 

 

 

洞門を出てスグの足元。

 

 

 

 

さらに記念撮影。

これが潜島で〜す、のポーズ。

 

 

 

 

洞門の向こうはさらにけっこうな岩場で、歩いて行けるのはここが終点となります。

 

 

 

 

そうして無事に、洞門からの退出となりました。

 

 

 

 

あらためて見上げると、こんな感じでワイヤーだけが残されています。

 

 

 

 

長靴のオジさんは、険しい岩場を慣れた足取りで自在に移動しながら、注連縄用のワイヤーを手繰って調整しておられました。

 

このオジさんと出会わなければ、私たちは遠慮して潜島の海食洞門を潜れなかったと思いますので、有り難いことこの上ないご縁でございました。

私たちが潜島にいた時間は、お参りを含めてもおよそ20分くらいのものでしたから、そのように短いタイミングで、まさにその場所でお会いできたことには、感謝しかございません。

 

この後、神前海岸の浜辺で、座り心地の良さそうな切り株の流木を見つけましたから、そこに二人で座り「五目おこわのおにぎり」とお茶を頂いていましたら、作業を終えた長靴のオジさんが奥さまらしき女性と歩いて来られました。

 

この奥さまは、帰りの浜辺でアオサか何か獲っておられる姿を見かけましたので、ご主人が岩場の高所で注連縄のワイヤーを調整されている間、浜辺でそのようにして待っておられたのだと分かりました。

 

お二人が近づいて来られましたので「ありがとうございました」とあらためてご挨拶をさせて頂くと、奥さまから「あら、イイ椅子があって良かったわね〜」と気さくにお返事を頂戴しました。

 

初の潜島参拝は、岩場が思ったよりかなり厳しいものでしたけれど、その景色は本当に素晴らしく、とてもホッコリと気持の温まる参拝とさせて頂けました。

 

 

 

 

 

■潮汐の仕組み[補足]

 

先にご紹介した気象庁の説明は、このようなことでしたけれど、ここで地球から右向きに生じている「→遠心力」について、よく分かりませんでした。

解説の本文には、「地球が月と地球の共通の重心の周りを回転することで生じる遠心力」とありますが、何のことだかまったくピンときません。

 

気象庁/潮汐の仕組み

なぜなら、一般に月の公転は、地球が不動の中心で月がその周りを回っているという、このような認識かと思いますので、

Volcano Fuji/自然科学と実験/月の自転と公転

そうすると、地球に生じる遠心力は2つだけ考えられて、1)地球の自転によるもの、2)太陽を中心とした地球の公転よるもの、となります。

しかしながら、1)だと、その遠心力は全方位へ向け均等に生じるもので、気象庁の図で月と反対側にだけ生じていることが当てはまりませんし、また2)とすれば、その遠心力は太陽と反対側へのみ生じますから、大潮のときの、太陽→月→地球という朔(新月)の場合と、太陽→地球→月という望(満月)の場合の同等性を説明できません。

 

そこで、気になりましたから調べてみたところ、そもそも月の公転について、上に示した一般的と自分で思い込んでいた認識が間違いだと分かり、疑問が氷解しました。

 

 

 

つまり、月の公転とは、地球が動かず止まっているのではなく、月と地球がその質量に応じた関係によって共々動いており、2つともが公転している、ということなのでした。

 

 

その2つともが公転している共々の動きとは、この動画↓を見ると一目瞭然です。

 

 

月と地球とは、両者の重心を結ぶ直線上の一点を中心として互いに回転運動をしている。この共通重心は、地球の重心から約4,600kmの位置、すなわち地球の内部にある。

 

月の直下では遠心力が弱く、反対側では遠心力が強くなり、地球から外向きの力が生まれている

 

Wikipedia/潮汐/遠心力

 

この動画を見て初めて、「地球が月と地球の共通の重心の周りを回転することで生じる遠心力」の意味が理解できました。

このように、月の公転では地球も公転しているんですね。orz

 

そこで、この動画で分かるように、で示された重心を中心として、地球の月側は小さな円(遅い速度)で回転し、地球の月と反対側は大きな円(速い速度)で回転していますから、月との公転により地球で生じる遠心力は、月側の方と比べて月と反対側の方が格段に大きい、ということになります。

 

これを素人なりの拙い理科力と算数力で計算してみたら、回転速度は回転半径に比例し、遠心力(遠心加速度)は回転速度の二乗に比例する、ということですから、月との公転で地球の片側それぞれに生じている遠心力の具体的な比率はこんなことになります。

地球の月側の回転半径(速度):地球の月と反対側の回転半径(速度) ≒ 1:6*

∴ 地球の月側の遠心力:地球の月と反対側の遠心力 ≒ 1:36(6の二乗)

*この1:6という比率は、上記の「共通重心は、地球の重心から約4,600km」と、地球の直径は約12,742 kmという数値から算出した概数です

まあ、もし、間違ってたらゴメンナサイ…

 

けれどこれ、よく考えてみたら当たり前のことでした〜

地球と月が互いに引き合う引力と、互いに離れようとする遠心力と、それら反対方向の力が同等に拮抗していなければ、そもそも公転なんか成り立たないで、月と地球が衝突したか、あるいは遠く離れ去ってしまったか、そのどちらかの筈なんですから(苦笑)

 

 

 

(つづく)→ 2020夏至伊勢行(3)鏡宮神社の虎石と瀧原宮の木登り蛙

 

 

 

 

 

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ご無沙汰しておりました。

何とも底知れないコロナ禍の中、皆さまお元気にお過ごしでしょうか?

 

さて、そのような渦中ではございますけれど、先月ようやく県をまたいだ移動の自粛要請が解除されましたので、どうにかいつものように夏至の伊勢へと参拝させて頂けました。

 

今回は、先の冬至に125社を満願させて頂いたこともあり、またコロナも気がかりなため、あまりアチコチへ行くことは避けノンビリ巡ろうと思っていましたところ、いくつか思わぬ僥倖に恵まれましたので、ここにご紹介させて頂こうと思い立ちました。

 

そこで、3回に分け記事にさせて頂きますので、先にそれらの表題を上げておきますと、

 

(1)二見浦の朝陽と夕陽

(2)大潮に神前岬の潜島へ初参拝

(3)鏡宮神社の虎石と瀧原宮の木登り蛙

 

となります。

 

これらは、十数年にわたり伊勢へと通いながらも、今まで出会えなかったり知らなかったりした事々ですから、実に有り難いことでございました。

 

 

特に夏至、二見浦で夫婦岩の間から昇る朝陽は、どなたでも一度は目の当たりに体験してみたい光景かと思いますけれど、今まで行った夏至祭の折には、常に雨模様の曇り空でした。

ところが今回、本当に見事なご来光を遙拝させて頂くことができましたので、ようやく…という感激ひとしおです。

 

けれど今年は、コロナの影響で夏至祭における夫婦岩前での禊修法が中止となってしまいましたので、例年ご参加されて来た方々にとっては、この今こそ、という思いでかなり残念なことではなかったかと思わずにいられませんでした。

 

 

 

薄明の中、海面に夫婦岩が浮かび上がりました。

水平線上には、やはり雲がかかっていますけれど、いつになく厚みが薄く、その上には晴れ渡った夜空が曙色に染まり始めています。

夫婦岩の上に光る明けの明星も、くっきりと輝いていました。

 

これより早く、私たちは二見興玉神社の境内に参入して各所のお参りを済ませていましたが、その際にまだ暗い中、龍宮社の前に広がる浜で、禊着の男性が一人、海に半身まで浸かり熱心に修法されておりました。

 

私はいつも、龍宮社でのお参りが終わると浜へ降り、海水をペットボトルに頂戴しておりますため、その修法中の方の横で、短パンの裾をめくりサンダル履きの姿で水汲みするのも申し訳ないなぁと誠に心苦しい思いでした(苦笑)

 

おそらく、この男性は夏至祭の禊修法に毎年参加されている方なのではないかと思われます。

コロナになんか負けない気持で、お一人での禊をお勤めされていたのではないでしょうか。

 

二見興玉神社/夏至祭

 

 

 

 

太陽が水平線上の雲を上に抜け、眩しいご来光の顕現です。

 

けれどもこれ、せっかくの朝陽ですけれど、夫婦岩の間ではありません。

というのも、とにかくこの時、人出がすごいことになっており、境内にかかる日の出橋の上は満員電車以上に人々が密集し、身動きもとれず移動がままならない状態でした。

3密を避けるどころではない上、マスクをしておられない方も多く、ともあれこのショットを天の岩屋前からサチエがものにして、様子を伺っていました。

 

そのため少しずつですが日の出橋の良いポジションの方へ移動しつつ、サチエが必死に背伸びしてスマホを頭上にかかげていると、山側の欄干の上にうまいこと立っておられた若い女性から「シャッター切りましょうか?」と声をかけて頂き、お願いして撮って頂いたのが次の写真です。

 

 

 

バッチリですね(笑)

お姉さん、ありがとうございました!

 

そうして、ようやく人混みも少し落ち着いた頃に、どうにか海側の欄干へと辿り着いて、ともあれ夫婦岩に昇る太陽を背に、記念撮影〜

 

 

 

ただ、自分では爽やかなご来光記念写真を撮ったつもりでしたが、何だかちょっと不気味な感じもしないではありません…

 

そうこうするうち、遂に何とか自力でこの一枚。

 

 

 

やっと私たちの眼前へと直に現れてくださいましたこの光景。

光の道が夫婦岩の間から太陽へと真っ直ぐに繋がれまして、ありがたや〜のひと時でした。

 

 

そして図らずもこの日、さらには二見浦での素晴らしい夕陽も遙拝させて頂けました。

 

 

そもそも伊勢で、夕陽を意識したことがありませんでした。

というのも、伊勢は北西から南東までグルリと山々に取り囲まれていますから、西方向の夕陽を望むポイントって、よほど高い山の頂上とかでない限り、あまりないかと思っていましたので。

 

ところがこの二見浦は、伊勢湾を北にしてほぼ東西一直線の海岸線ですから、太陽の出入りする方位が真東西より北寄りとなる春の彼岸から秋の彼岸の間、特にそのピークである夏至の頃にこそ、見事な朝陽と夕陽の両方ともを浜辺から望めることが分かりました。

 

今回たまたま、始めて二見浦のホテルに宿泊することとなり、また偶然ながら部屋が高層階の西向きであったため、このことに気付いた次第です。

 

ちなみにいつもなら、宿は宇治山田駅の近い辺りで素泊まりにしています。

それは、夕食を街中の気に入った店でとりたいからなんですが、この度はコロナのため外食を避けようと思ったため、どうせなら二見浦に泊まってみようとなりました。

そうすれば、夏至祭の当日もし天候が悪ければ、翌朝ご来光にもうワンチャンスありますので、宿から歩いて行けるなら便利だと思ったためです。

 

諸々何とも奇遇なことで、有り難い巡り合わせに感謝です。

 

 

あとオマケ情報で、この時に用意した夕食の調達先をご紹介しておきます。

ととや(株式会社 山川活魚)

割烹 大喜

ととやは、2019年12月にオープンした魚屋さんです。自分の好みと予算に合わせた刺身の盛り合わせを予約しておけば、素晴らしい出来上がりで調製して貰えます。

大喜は誰もがご存知の伊勢を代表する老舗割烹ですが、気さくな人気店です。上記でリンクしたホームページにテイクアウト用のお弁当メニューは掲載されていないようですが、こちらにお手頃な本格弁当が紹介されていますので、できれば予約してどうぞ。

Facebook/大喜

 

 

 

(つづく)→ 2020夏至伊勢行(2)大潮に神前岬の潜島へ初参拝

 

 

 

 

 

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遅くなりましたけれど、皆さまあけましておめでとうございます(苦笑)

 

さて、生駒縦走の連載中ですが、相変わらず遅々として進みませんところ、取りあえず先の冬至に伊勢125社を満願できましたので、その大取りとなった鴨神社をご報告いたします。

冬至の12月22日に20数社を巡り、翌23日に最後の一社となった鴨神社へと赴きました。

 

ここ鴨神社は、125社の中でもおそらく最もアクセスしづらいお社だと思います。

そのため、最後の最後となってしまいましたけれど、まさに大取りに相応しいその神々しさが、まったくもって有り難いことでございました。

 

お伊勢さん125社まいり/鴨神社

Wikipedia/鴨神社(玉城町

 

 

 

 

鴨神社への表参道入口となる山神集落には車を駐められる場所がないため、的山公園の駐車場から沢沿いに舗装整備された山道を登り、途中から地道へと分岐した先に進みます。

 

 

 

 

山中をしばらく歩くと、森の中に忽然とお社が現れました。

 

 

 

 

鬱蒼と茂る木々の中、ぽっかりと開いた空間に鴨神社は鎮まります。

 

 

 

 

祓所(はらえど)の前で白いマスクを着けたサチエが、こちらを撮影中。

 

 

 

 

私たちにとっては、こちらが満願のお姿。

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

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辻子谷水車郷から石切漢方製薬〜生駒縦走3 ←(承前)

 

 

 

 

色鮮やかな生花がお供えされた石仏。

どの石仏も、手厚くお祀りされています。

 

 

 

 

山間の集落。

 

 

 

 

比較的に新しい前掛けをまとった石仏。

もう、ほとんどお地蔵さまとして扱われているような…(苦笑)

 

右奥には「かぐやの里」と看板にあります。

調べたところ、里山保全活動を行う市民団体のようです。

 

里山保全活動・かぐやの里

★主な活動内容★
里山整備=竹・雑木の間伐及び除伐
庭園整備=花木・草花の手入れ
農作業=季節の野菜・果物作り
その他=シイタケ栽培・竹炭づくり

活動地=上石切町2丁目の里山&棚田
活動日=毎月 第2・第4の日曜日
時 間=9時30分~15時
持ち物=お弁当・水筒・タオル・軍手
年会費=2,000円

 

 

 

 

これは、一連の石仏ではなくお地蔵さまのお堂のようです。

 

 

 

 

左の柱にお地蔵さまのご真言が書かれていました。

「おんかかかび さんまえい そわか」

 

 

 

 

妙覚寺への参道。

 

欧文表記「MYOGAKSA」の「SA」は、朝鮮寺の証となります。

寺 = 사(sa、サ)

韓国語辞書ケイペディア/사

 


 

 

 

分かりにくいかと思いますが、朝鮮寺の清谷寺と思われる堂宇が見えています。

 

 

 

 

ヤマザクラなのかツツジなのか何なのか、詳しく分かりませんけれど、まだ寒い中を懸命に咲いていました。

 

 

 

 

緑も濃くなってきます。

 

 

 

 

音川に沿って続く、整備された舗装道。

 

 

 

 

すなくら橋に着きました。

 

とはいえこの写真、そのすなくら橋の上に立って撮っているため、すなくら橋は写っていません(苦笑)

右向こうの砂防ダムは高尾渓の始まりで、左から流れ出ている音川とここで合流します。

 

この高尾渓について、メチャクチャ詳しく源流調査された方の記録がありました。

生駒山 高尾渓右俣、佐俣の源流を探る

警告!
ここに記載された情報を基に谷(沢)登り、下りは落石、滑落、転落等の危険を伴うので怪我、事故、遭難に遭っても一切の責任を負えません、全て自己責任で行動してください。
ロープ、ストック、ヘルメット、登山靴、スコップ、地図、磁石など、藪コキ対策としてゴーグル、鎌、枝切はさみ、手袋、帽子などの装備はそれぞれ必要です。

 

階段の上に建つ倉庫、というかサティアンのような建物は真言宗一成寺で、こちらも朝鮮寺だそうです。

 

 

 

 

 

これが、すなくら橋。

この橋の沿革や名前の由来を知りたいと思いググってみましたけれど、何も分かりませんでした(泣)

「すなくら」って何なんでしょうか、砂防と関係あるように思えますけど…

 

 

 

 

すなくら橋を渡ったところ。

右の石標には「☞ 鷲尾山 元聖天 願教寺前 京清」とあります。

 

「鷲尾山 元聖天」は興法寺のことですが、「願教寺前 京清」とは、この石標を奉納した方の屋号かと思われます。

 

 

 

 

駅からまだ1.2kmしか進んでいません(苦笑)

 

 

 

STRAVA

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

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石切劔箭神社上之社から辻子谷水車郷〜生駒縦走2 ←(承前)

 

 

 

 

辻子谷水車郷の入口に掲示された案内看板。

辻子谷の水車

 

生駒山の西側山腹に、深く刻み込まれた辻子谷(音川)に沿ってつづく辻子越えの山道は、江戸時代に入って興福寺を経て、宝山寺から生駒に通じる信仰の道として大いに利用されました。

 この辻子谷をはじめ生駒山麓の各谷では、谷川の水を利用して水車が設けられ、自家用に使用されていましたが、江戸時代における大坂の商業発展とともに、水車を工業に利用するようになり、水車動力を胴突・唐白に伝えて、各種製粉、油絞り、伸線加工などがおこなわれました。とくに辻子谷では、谷の奥深くまで水車小屋が並び、寛永年間(1624 - 44)に胡粉製造がはじまり、元禄年間(1688 - 1704)以降は大坂の薬種問屋との取引により和漢薬種の細末加工が増え、明治から大正初めにかけて最大44両もの水車が稼動していた。

 これらの水車は大正3年(1914)に大軌電車が開通した後の電力普及とともに減少しましたが、辻子谷では芳香成分を含む薬種加工が主であったために、他の谷よりも永く水車が残され、昭和50年頃まで細々と使われました。

 現在では、各種機械製粉機の発達にともない伝統産業として香辛料や生薬の粉砕業が続いています。

 

東大阪市

 

 

 

 

辻子谷水車郷へと入ります。

正面に見える丸いのが、実物大で復元された水車。

 

 

 

 

水車を間近で見てみます。

思ってたよりかなり大きく、実際に水で回っていますから、相当の迫力です。

 

 

 

 

さらに迫ってみます。

ゆっくり回っていますけど、動力としては強力な感じがします。

 

 

 

 

水車の左手前に、覆い屋に囲われた1/7スケールのミニ水車小屋が復元展示されています。

 

 

 

 

ミニ水車小屋。

 

 

 

 

このようなキネとウスが水力によって休みなく稼働し続け、和漢の生薬が粉末加工されていたということです。

 

 

 

 

辻子谷の水車

 

今から約十年前の昭和四十五年頃は辻子谷の山道沿いに江戸時代より「コトンコトン」と廻る水車の閑な風景が見られた。現在ではその閑な水車の音は聞えない。

生駒山麓の渓流を利用した水車工業は、この辻子谷を中心に最盛時には二百台を数えたそうで明治、大正、昭和初期にかけてこの辻子谷だけでその1/4の水車が動いていたのである。

辻子谷の水車は伸線産業と結びついた額田谷や豊浦谷の水車と違い、大阪道修町の薬問屋と関係を持って和漢薬の粉末加工に利用されて来たのである。しかし残念ながら現在では電力を利用した粉砕機の発展に伴い水車の姿を見る事は出来ない。

辻子谷の水車は、水車が水車小屋の片側にあるもの或いは真中にあるものと二種類があり、その水の掛け方は、上掛、中掛、下掛、の三つに分類される。辻子谷では上掛のみである。水車の中央には軸が走り、この軸に「なで」がついていて「きね」が突き上げられ落されて水力のエネルギーを石臼の中にある和漢薬を粉砕するエネルギーへと転換される。このキネとウスの種類に「唐臼」と「胴搗」の二種があり、輪をはさんで両方に用いられる場合もある。

我々辻子谷に棲む者にとってこの様な水車集落がいつ頃から出来どんな移り変りがあったのか、その歴史を知るに必要な大きな課題である茲に実物の1/7の水車小屋を復元し、その構造を語り後世に残す必要ありと考えた次㐧である。

 

昭和五十七年十一月二十二日    

上石切町二丁目 昭楠会  

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

水車郷を出ようとした時、淡いピンク色の梅の花? が咲き誇っていました。

 

 

 

 

水車郷の山側に隣接した駐車場内、先ほど見た梅の花?の裏側に祠がありました。

 

 

 

 

 

「正一位 薬嘉大神」とあります。

この「薬嘉大神」をググってみましても、この辻子谷の他に見つかりませんでしたから、この地特有の、ことに和漢生薬へ因んだ神さまかと思えますけど、「正一位」なので、どうなんでしょう?

おそらく、伏見稲荷大社から勧請を受けたお社ではないかと…

 

 

 

 

道の少し先に、製薬会社の建物が見えます。

 

 

 

 

やはり、そこにも石仏。

 

 

 

 

「石切漢方製薬株式会社」

看板は年季の入ったものですけれど、建物は比較的に新しいものでした。

 

 

 

 

そして、その前にも石仏。

石仏は続きます。

 

 

 

(つづく)→ 石切漢方製薬からすなくら橋〜生駒縦走4

 

 

 

 

 

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石切駅から石切劔箭神社上之社〜生駒縦走1 ←(承前)

 

 

 

 

左に赤く見えているのが現在地。

ここからようやく、今回の生駒縦走が始まります。

 

 

 

 

弘法大師空海と四国八十八ヵ寺ご本尊の石仏。

正確に数えていませんから、これが何番か不明ですが、おそらく2番か3番です。

 

 

 

 

こちらも空海とご本尊の石仏かと思いますけど、中が暗すぎてよく見えません。

 

 

 

 

そして、石仏。

 

 

 

 

「真言宗石切高野山 大観音寺」とあります。

 

 

 

 

また、石仏。

向こうに立派なゲートが建っていますけど、どこへ入るためのものか、分かりません。

 

 

 

 

さらに、石仏。

 

 

 

 

天水庵。

前回ご紹介した「朝鮮寺」のひとつです。

 

↓こちらの記事で紹介されている大阪市天王寺区鶴橋の天水庵とお名前が同じですから、おそらく同じお寺の別院かと思いますが、詳しく調べていないので分かりません。

 

毎日新聞/異教の隣人

朝鮮半島の巫俗編 母国の民間信仰、大阪の住宅地で 神の言葉伝える心の医師

 

 

 

 

 

そうして、石仏は続きます。

すでに疲れた表情のサチエへ、「みんな明るく幸せに」と励まして下さっています(笑)

 

道の遠く向こうに広がるのは、大阪平野。

 

 

 

 

ハイカラな洋館の前にも、石仏。

 

 

 

 

まだ寒い2月も終わろうとするこの日、懸命に咲いていた山桜、かな?

 

 

 

 

立派な寺幕で荘厳された石仏。

 

 

 

 

緑の稜線が望めました。

 

 

 

 

まだまだ冬模様ですが、緑が芽吹き始めています。

 

 

 

 

熱心に石仏へ祈る人。

 

この方は、私たちとほぼ抜きつ抜かれつしながら辻子谷を登っておられ、このように石仏一ヵ所一ヵ所へ丁寧に般若心経など奏上されていました。

※個人を特定されませんよう、画像は加工させて頂いております

 

 

 

 

先を行くサチエが、写真を撮りながらノロノロ進む私を振り向きます。

「どこまで行くのかにゃ〜」という気分だったろうと思われます。

 

 

 

 

朽ちかけた案内看板。

この先に、興法寺と額田園地が待ってます。

 

 

 

 

お不動さまが祀られていました。

これも行場なんでしょうか、分かりませんけど…

 

 

 

 

辻子谷水車郷へ着きました。

石切駅からここまで、超ユックリ歩いて30分ほどです。

 

 

 

ここまでのルートは、↓こんなことでした。

 

STRAVA

 

 

 

(つづく)→ 辻子谷水車郷から石切漢方製薬〜生駒縦走3

 

 

 

 

 

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2017年の2月、一度は生駒山を縦走してみようとなり、行ってきました。

 

生駒山は南北に長い生駒山地の主峰で、大阪府と奈良県の境界に聳える標高642mの低山ではありますけれど、大和川流域と淀川流域の狭間で生活している人々にとっては、日々目にするとても馴染み深い存在です。

 

GoogleMap

大阪市内から東方を望むと、北から南まで横一杯に長々と聳える生駒山地。

 

 

 

 

 

また古より、海に面した西の摂津国と、都の築かれた東の大和国を往来する地にあるため、数多くの歴史や伝説を生んだ霊峰でもあります。

 

生駒山が記録に現れるのは日本書紀における神武東征の一節であり、神日本磐余彦尊と長髄彦が山麓において激戦を繰り広げたとされる。

(中略)

古くは役行者による鬼退治の伝説で知られ、山腹には現世信仰で知られる宝山寺を中心として、滝の修行場や祠など大小さまざまな宗教団体の施設が設けられ、宗教法人として届けられていないものも多くその総数は把握されていない。神社に関しては、奈良県側の山麓に生駒山の神を祀る往馬坐伊古麻都比古神社(往馬大社)が、大阪府側の山麓に「いしきりさん」で親しまれる石切劔箭神社や元春日とよばれる枚岡神社等がある。いわゆる霊山としてとらえる人もいる。

  Wikipedia/生駒山

 

 

 

さらには、大阪市内および周辺に在住される多くの在日韓国・朝鮮人の方々が、祖国からの信仰を伝え今に活かすため、この生駒山中に多くの「朝鮮寺」を建立されて、日本古来の神道や仏教、修験道、そして新興宗教などと併せ、他に類を見ない民間信仰と民俗宗教が圧倒的に混淆しカオスと化した霊場として存続しています。

Wikipedia/朝鮮寺

 

特に第二次大戦の末期、断続的な激しい空襲が大阪を次々に焦土と化していくその最中、疎開先を持たない在日韓国・朝鮮人の皆さんは、こぞって目の前に聳える生駒山へと歩き辿り、逃げ延びて行かれたそうです。

 

また、かつての縄文時代、今の大阪平野は海の下に沈み大きな湾を形成していたそうですが、日本書紀によれば紀元前663年3月、神武が東征の際、河内国草香邑青雲の白肩の津に着いて孔舎衛坂(くさえのさか)で長髄彦にコテンパンにやられたその時は、生駒山の麓(現在の日下)まで船で行けた、つまりはそこまで海だった、ということですから、生駒山は海と陸を結ぶ要衝の地であり、そこで生きる地元の者達にとっても、海路はるばる訪れた外来の者達にとっても、ともあれそこへ行き着きひと時の安息を求めたい、何としてもこの地を守りたい、そのような母性的存在であったかも知れません。

 

 

詳しくは、これらの書籍をご参照ください。

『生駒の神々 現代都市の民俗宗教』

『聖地再訪 生駒の神々:変わりゆく大都市近郊の民俗宗教』

『生駒山―歴史・文化・自然にふれる』

 

 

ということで、この度その生駒を縦走するにあたり、まあ、そう健脚でもない私たちが1日でどれほど歩き切れるものか試したいこともあり、また何より、日々目にして親しく、時には各所で登拝や参拝もさせて頂くこの霊山の全容を掴みたくもありましたので、数多ある参拝ポイントは全て一揖のご挨拶にてご容赦を頂くこととし、出発いたしました。

 

 

歩いた全ルートは、↓このような感じです。

 

STRAVA

GPSは使わず後ほど作図しましたので、細かな道程や距離は、実際とかなり違っていると思いますが、ご参考までに。

出発地点は、近鉄奈良線の石切駅となります。

 

 

 

 

今回は登山口と下山口が遠く離れますので、自動車は使わず自宅から電車を乗り継ぎ、石切駅に着きました。

時刻は08:00ごろ。

 

 

 

 

大阪方面を望みます。

左手が生駒山方面。

 

 

 

 

上石切町2丁目自治会案内地図。

真ん中にある縦長の青い筋が音川で、その渓流に沿って「辻子(づし)谷ハイキングコース」を登って行きます。

 

 

  近鉄てくてくまっぷ/生駒山麓辻子(づし)谷・摂河泉展望コース

 

近鉄けいはんな線の新石切駅から石切劔箭神社など各所を巡りながら行かれる場合は、こちらもご参照ください。

大阪府/辻子谷コース

 

 

 

 

朝陽が、山の上に昇りました。

 

 

 

 

駅から住宅街を抜けて、辻子谷コースに出ます。

この石仏、お地蔵さまではなくて、一体は弘法大師空海、もう一体は四国八十八ヵ寺のご本尊です。

 

 

このハイキングコースに沿って、山腹の興法寺境内へ至るまで、この様式による石仏が八十八対並んでいます。

 

  河内西国霊場会/第二十六番 興法寺

 

先の写真の石仏は、上の地図で左下に記された40番。

ですから、1番の石仏はこの角を右へ曲がったところ、一番大師堂と呼ばれ、有名な爪切地蔵と四光地蔵尊もその向かいにあります。

 

けれどもこの時、私たちはそれを予習不足でまったく知らなかったため、さっさと左折してしまいました(泣)

 

 

 

 

 

そうして辻子谷ハイキングコースに入り坂を登り始めると、本格的なトレッキング姿の男性が、私たちを追い越してグイグイと進んで行かれました。

 

右手は、石切劔箭神社上之社へと向かう横道。

その手前には「明正教本部」の看板。

この明正教とは、詳細は分かりませんけれど、神道系包括団体で教派神道系のひとつ、とのこと。

 

また、朝陽をバックにして、レーダーみたいな鉄塔が建っていますけど、これは石切夢観音堂の屋根上に聳えていたモニュメントですが、今は取り除かれているようです。

 

 

下の写真で、左が夢観音の霊堂、右が石切劔箭神社上之社の石鳥居。

 

 

この夢観音堂ですが、少し前から閉鎖されているようで私たちも入ったことないんですけど、何だかスゴイ施設とのことですから、ぜひ再開して頂ければと思います(笑)

何処か遠くへ〜旅〜石切夢観音

 

 

 

 

その横道の奥に見える石切劔箭神社上之社の石鳥居。

今回は、各参拝ポイントへ立ち寄らない方針のため、一揖して辻子谷の奥へと進みます。

 

 

 

ここまでのルートは、↓こんな感じ。

 

STRAVA

 

 

 

(つづく)→ 石切劔箭神社上之社から辻子谷水車郷〜生駒縦走2

 

 

 

 

 

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先日、お盆の終了から少し遅れて、今年も盆灯籠を片付けながら「あ〜、またこの季節かぁ」などと小さい秋の気配に思いを馳せながら、残暑にやられボンヤリしているうちに、

 

「3年前の今日あなたが書いた記事があります」

 

と、Ameba管理トップページで教えて貰いましたから、リブログさせて頂きます(苦笑)

 


 

とはいえ、単にリブログするだけでは芸がありませんので、上の記事はブロ友さんへのコメントとして書いたものでしたから、少し一般向けの記事としてリライトしてみました。

最後にオマケ写真も載せておきます。併せてご笑覧くださいませ〜

 

 

 

 

お盆と立秋


 

8月10日ころのお盆前、まさに夏の真っ盛りで毎日とても暑いんですが、ふとした際に日陰でスッ…と涼しい風を感じたり、あ〜もうそろそろ夏もそんな頃合いだなとあらためて思ったりしていると、夕暮れ時にヒグラシの鳴く声がはじめて聞こえたりして来ます。

 

蝉の声も、おおよそ7月はクマゼミとアブラゼミでうるさいだけなのですが、8月に入るとツクツクボウシの声も聞こえ始め、夜には早くも虫の音が微かに響き始めます。

 

これらはほんの微かな兆候ですけれど、8月に入ると夏はそのピークを迎えると同時に、小さな秋が始まります。

それが二十四節気立秋ということかと思えます。

 

立秋は毎年およそ8月7日、一年で最も暑い時期ですが、そこから後は少しずつ涼しくなって行くという節気となります。

つまり、二十四節気で立秋の対極にある2月4日ころの立春が一年で最も寒い時期となり、そこから少しずつ気候が暖かくなって立秋へと至り、今度は立秋から少しずつ涼しくなって立春に還るという、一年に渡って変化していく季節の大きな2つの折り返し地点が、立秋と立春ということになります。

 

ですから立秋と立春という節気は、6月の夏至と12月の冬至と併せ、季節が全く逆の方向へと折り返す特別な節目となります。

もちろん立秋・立春と夏至・冬至の他に二十四節気は20ありますけれど、その残り20節気はあくまでも同じ方向性での通過点でしかありません。

 

これを陰陽で表せば、立秋→立春が陰、立春→立秋が陽となります。

そうして立春が陰の極、立秋が陽の極となりますから、立春と立秋は「陰が極まれば陽に変じ、陽が極まれば陰に変ず」という万物生成消滅の瞬間でもあるということになります。

 

特に、陽の気が陰の気へと反転した瞬間というのは、人間の感性において、ことさら生死を身近に感じる切ない感情が湧き起こる瞬間ではないかと思われます。

 

秋から冬へと至る明らかな陰の方向性におけるより、むしろ陽の極となる真夏の中で、真逆の陰へと舵を切り返した兆候を仄かに感じ取る方が、何だかフッと寂しいような懐かしいような、今際の際に立った気分になるように思えます。

 

例えば、聞き慣れた歌でその気分をお伝えするとすれば、夜になって遠くから聞こえて来る盆踊りの『○○音頭』とか、童謡の『ちいさい秋みつけた』とか、井上陽水の『少年時代』とか…

あるいは、8月の空を見上げて、夏になり見慣れてきた入道雲がモリモリした様子とは違う、秋のように澄んだ青空を見た時とか…

他には上であげたように、朝夕のちょっとした涼しさとか、蝉の鳴き声の変化とか、夜の虫の音とか、海でのクラゲ増加とか…

 

このように、夏の真っ盛りがすなわち衰えの始まりと捉える季節感覚の鋭さと儚さが、日本人の感性にとって最も故人を偲ぶにふさわしい時期なのかと思えます。

 

ですから、そのような日本的感性と、農作業における実りの進捗と穫り入れ時期の都合や満月の条件などがあり、仏教の盂蘭盆会と道教の中元節とも習合して、故人を偲ぶためのお盆は、かつて旧暦の7月15日と全国的に決まっていたのではないでしょうか。

 

調べたところ、旧暦(太陰太陽暦)7月15日はおおよそ新暦(グレゴリオ暦)8月15日とそれほど大きく離れてはいませんし、立秋は旧暦で七月節(旧暦6月後半から7月前半)ですから、必ずお盆より少し早めに訪れることに変わりはありません。

 

ということで、8月15日がお盆と定められた由縁には、それに先立って立秋という重要な節気を迎えることにあるのかと思えます。

 

 

あと、あの世の人がお盆に帰って来るということについて、関連して思ったことがあります。

 

お盆には、本当に上で書いたような理由がもしあったとしたらなんですが、そのような陽→陰という気の反転を盛夏の中で敏感に感じ取れる感性をお持ちになった方々なら、あの世の人々の気配も感じ取ることはあるのかなあと思います。

 

特に立秋は、そのように陰陽反転の特別な節気ですから、普段あまりあの世を感じることがないような人でも、この時ばかりは感度が上がり、何かを感じることがあるのではなかろうかと思えます。

ましてや、もともと敏感な方でしたら、その時期に集中してアレコレたくさん感じてしまわれるのも無理ないのかと思われます。

 

ちなみに、私の考えるあの世についてですが、あの世というのはココと違う何処か遠くのことではなくて、あの世がもしあるとすれば、それはココにあるのであろうと思っています。

ただ、ココにあるあの世を感じ取れるかどうかの違いがあるだけで、あの世とこの世は重なっているとしか思われません。

 

なぜなら、というか、そう思うからこそ、神社仏閣へ足を運んでいるわけなので。

もとよりどこか遠くの浄土で成仏したいわけではなく、特別にどのようなご利益も願わないまま、単にいまココで生きている喜怒哀楽が有り難いからこそ、神さま仏さまご先祖さまに感謝しているのですし。

 

なので私の考えですと、あの世の人がお盆に帰って来るのではなく、実のところいつもそばにおられるのですが中々気付けないだけで、立秋からお盆の頃になると幾らか普段より敏感に感じ取られることが多くなるのではないか、という風に思っています。

 

まあ、こればかりは検証のしようもありませんし、あまり何とも言えませんけれど…(苦笑)

 


 

 

 

 

ということで、ともあれ去りゆく夏の名残として、水ナスの浅漬けと夏野菜カレーをどうぞ(笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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今回の夏至は、6月21日より1日ずれた22日だったことと、いつもと違い、内宮から寄り道をせず真っ直ぐに瀧原へと移動したことから、瀧原宮で毎年6月23日午前10時から執り行われる月次祭の奉幣に参列、というか見学することができました。

 

神宮では、「6月の月次祭は、10月の神嘗祭・12月の月次祭と共に「三節祭(さんせつさい)」と呼ばれる神宮の最も由緒深い祭典」であり、そこでは皇室からの幣帛(へいはく/神への供物)が奉られます。

 

伊勢神宮/月次祭

 

 

  瀧原宮パンフレット

 

 

 

瀧原宮へ訪れると、そのようなタイミングだとは露知らず、いつものように長い参道をキョロキョロしながら小さな雨蛙の子を探して歩き「今年は見つからないね〜」などと言いつつ御手洗場へと降りて手水を使い石段を登ろうとした時、「いた〜〜」などと蛙さんに遊んで貰ってノンキに笑いながら参道へ戻ると、

 

 

 

 

社務所前に10名ほどの神職さんが整列しておられました。

 

 

何かお祭り始まるなぁ〜と思って見ていると、おそらく神宮の禰冝かと思われる別格な感じの神官が登場されて、少しざわついていた整列がピシッとしたら行進が始まりました。

 

ザックザックと浅沓で砂利が踏みしめられる音に続いて私たちも後を追って歩きますと、瀧原宮ではすでにお祭りの準備が進んでおり、柵と賽銭箱が外され茣蓙や降雨に備えた傘なども用意されていました。

 

私たちが鳥居の前で黙ってその様子を拝見していると、次第に少しずつ他の参拝客も同じように並び始めました。

衛士の方がひとり、鳥居前に立っておられ、「これからお祭りが始まりますので、ここへはしばらくお参りができません。隣の並宮はまだ大丈夫ですから、お参りされる方はそちらからお参りください」と案内されています。

 

 

このお祭りの写真は撮れていませんので、ご参考までに↓月読宮での月次祭奉幣の様子。

 

  月読宮パンフレット

 

 

 

なお、このような写真撮影が禁止というわけではありません。

実際に撮っておられる参拝客の方が何人かおられましたが、衛士の方も何も仰りませんでした。

 

とはいえ、いつもは固く閉ざされた御扉の中が丸見えになっていますから、自分たちとしては何となく遠慮させて頂きました(苦笑)

 

まあ、中には帳もありますし、いずれにせよご神体が丸見えなどというあからさまな状態ではありませんから、特に気にしなくても宜しいようでしたけれど…

 

それより幣帛の供え方など、社殿内での式次第を興味深く拝見させて頂けましたから、何とも有り難いことでした。

 

 

今までも、125社の摂社や末社でのお祭りにたまたま遭遇した際、その度に参列させて頂きましたが、別宮は初めてでしたから、何しろ社殿が大きく御扉も広く開いていますので、格別の臨場感に感謝です。

 

ただ末社などのお祭りですと、そのお世話をされている地元の祝(ほうり)の方から話し掛けて頂いたり、もっと近くにおいでと手招きして頂いたり、それぞれ親しく接して頂けることが多いのですけれど、さすがに別宮となれば、それなりに近寄りがたい雰囲気になります。

 

 

ということで、久しぶりに投稿させて頂いた今回の伊勢行ご報告も、これにて完了です。

 

 

 

これからは、せめて月に一回くらい、何か投稿できればと思っています。

とはいえ結局は口だけになってしまうかも知れませんけれど、ボチボチと引き続きよろしくお願い申し上げます(笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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