先週、映画「グレートウォール」を見てきました。
万里の長城を舞台にした歴史アクションです。
万里の長城建造の目的とされる一つの史説に基づき作られたとか。
60年に一度現れる得体のしれない怪物を街に入れないための壁。 怪物の数の迫力とそれを退治する爽快感はありますが、万里の長城の受け止め方少し変わったように思います。
さて、川越歴史ポタの続きです。
市街地は城下町中心の史跡でしたが、郊外はどちらかと言うと戦国時代の防衛戦略が見え隠れするポイントです。
探索ルートは以下の通り。
川越城下町から北西に向かう。
入間川を越えて大穴城跡に向かう。
途中、空腹を満たすためにコンビニで昼食をとる。
川越市境ですが坂戸市に入ったところに大穴城跡がある。
室町の中期頃、ここに陣屋があったと言い伝えられていますが、この城の城主が誰であったか詳しく分かりません。江戸時代は陣屋として使われて居たらしい。
遺構らしきものが見当たらない。土塁が残っているとのことだが公園整備にかき消されてよくわからない。公園内に入ってみる。
公園内に案内板を発見し、ここが大穴城跡であることを確認。
更に北西に向かう。
中央自動車連絡道の手前を右折して雑木林の道を進むと大堀山館跡の案内板を発見する。
うっそうとしているが雑木林の中はこんもりと盛り上がっている。ここに館があったようだ。
館は500年前に作られて三重の堀と土塁でできている。
鎌倉街道が近くを通っている。上杉氏の川越城と鉢形城をつなぐルートも通っており交通の要所に設置されたいたようだ。
ちょっと雑木林に足を踏み入れると空堀らしい遺構が存在する。
ここから南下
旧鎌倉街道上道のルートの遺構があるとのことで立ち寄った。
市民の森見たいになってる。
ボランティアが作成した案内板。ここでは、堀兼道と書かれている。
本来の鎌倉街道はもっと西側を走っており、この街道は鎌倉街道の支道ということだ。
所沢付近の古来より数々の歌に詠まれた堀兼の井戸がある場所から分岐しているので堀兼道となっている。この道は河越館にもつながっていた。
しかし、鎌倉街道の両脇土塁というような遺構は見つからなかった。
今回、最終目的地の河越館跡に向かう。
平安時代末から南北朝時代にかけて武蔵国で有数の勢力を誇った武士である河越氏の居館跡。
近くに行くとのっぱらです。
こんな風に紹介されています。
「河越館は鎌倉時代、この地域で最大の勢力を誇った河越氏の居館です。河越重頼は源頼朝に重用され、その娘(郷御前)が源義経の正妻となっています。河越館は河越氏の居館としてだけではなく、幕府の武蔵国政庁としても機能していました。また、戦国時代初頭に起きた「長享の乱」の際には関東管領・上杉顕定が河越城の扇谷上杉氏を攻撃するために7年にわたってこの地に陣(上戸陣)を構えました。その後、北条氏が河越城一帯を勢力下におさめると、重臣・大道寺政繁が砦を築いたとされています。現在、館跡一帯は「河越館史跡公園」として整備されており、一部には常楽寺が建てられています。」
どこが遺構なのか分からなかったが近寄ってはっきり分かった。
堀跡が残っている。
館中心に堀が取り巻いている。その外側には道があったようあ。
説明版が詳しい。ポイントポイントに説明されているのが良い。
人はほとんどいないのでゆっくり古の河越館の想像しながら楽しませてもらった。
帰りは雨に降られたが、充実した史跡巡りでした。
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万里の長城を舞台にした歴史アクションです。
万里の長城建造の目的とされる一つの史説に基づき作られたとか。
60年に一度現れる得体のしれない怪物を街に入れないための壁。 怪物の数の迫力とそれを退治する爽快感はありますが、万里の長城の受け止め方少し変わったように思います。
さて、川越歴史ポタの続きです。
市街地は城下町中心の史跡でしたが、郊外はどちらかと言うと戦国時代の防衛戦略が見え隠れするポイントです。
探索ルートは以下の通り。
川越城下町から北西に向かう。
入間川を越えて大穴城跡に向かう。
途中、空腹を満たすためにコンビニで昼食をとる。
川越市境ですが坂戸市に入ったところに大穴城跡がある。
室町の中期頃、ここに陣屋があったと言い伝えられていますが、この城の城主が誰であったか詳しく分かりません。江戸時代は陣屋として使われて居たらしい。
遺構らしきものが見当たらない。土塁が残っているとのことだが公園整備にかき消されてよくわからない。公園内に入ってみる。
公園内に案内板を発見し、ここが大穴城跡であることを確認。
更に北西に向かう。
中央自動車連絡道の手前を右折して雑木林の道を進むと大堀山館跡の案内板を発見する。
うっそうとしているが雑木林の中はこんもりと盛り上がっている。ここに館があったようだ。
館は500年前に作られて三重の堀と土塁でできている。
鎌倉街道が近くを通っている。上杉氏の川越城と鉢形城をつなぐルートも通っており交通の要所に設置されたいたようだ。
ちょっと雑木林に足を踏み入れると空堀らしい遺構が存在する。
ここから南下
旧鎌倉街道上道のルートの遺構があるとのことで立ち寄った。
市民の森見たいになってる。
ボランティアが作成した案内板。ここでは、堀兼道と書かれている。
本来の鎌倉街道はもっと西側を走っており、この街道は鎌倉街道の支道ということだ。
所沢付近の古来より数々の歌に詠まれた堀兼の井戸がある場所から分岐しているので堀兼道となっている。この道は河越館にもつながっていた。
しかし、鎌倉街道の両脇土塁というような遺構は見つからなかった。
今回、最終目的地の河越館跡に向かう。
平安時代末から南北朝時代にかけて武蔵国で有数の勢力を誇った武士である河越氏の居館跡。
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こんな風に紹介されています。
「河越館は鎌倉時代、この地域で最大の勢力を誇った河越氏の居館です。河越重頼は源頼朝に重用され、その娘(郷御前)が源義経の正妻となっています。河越館は河越氏の居館としてだけではなく、幕府の武蔵国政庁としても機能していました。また、戦国時代初頭に起きた「長享の乱」の際には関東管領・上杉顕定が河越城の扇谷上杉氏を攻撃するために7年にわたってこの地に陣(上戸陣)を構えました。その後、北条氏が河越城一帯を勢力下におさめると、重臣・大道寺政繁が砦を築いたとされています。現在、館跡一帯は「河越館史跡公園」として整備されており、一部には常楽寺が建てられています。」
どこが遺構なのか分からなかったが近寄ってはっきり分かった。
堀跡が残っている。
館中心に堀が取り巻いている。その外側には道があったようあ。
説明版が詳しい。ポイントポイントに説明されているのが良い。
人はほとんどいないのでゆっくり古の河越館の想像しながら楽しませてもらった。
帰りは雨に降られたが、充実した史跡巡りでした。
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