静岡県静岡市清水区(旧清水市)大内(おおうち)の梶原堂(かじわらどう)には、鎌倉時代前期の正治2年(1200年)に「梶原景時の変」(かじわら かげときのへん)で敗れ、自害した武将 梶原景時(かじわら かげとき)親子の墓があります。

五輪塔(ごりんとう)1基と宝篋印塔(ほうきょういんとう)4基で、自害した梶原山から移されたものです。

梶原景時親子の墓
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<梶原景時(かじわら かげとき)一族33人の死>
 平安時代末期の治承4年(1180年)におきた「石橋山の戦い」で、平氏方の大庭景親(おおば かげちか)軍に加わっていた梶原景時(かじわら かげとき)は、平氏との戦いに敗走して隠れていた源頼朝(みなもと の よりとも)を発見。
しかし景時は、「ここには誰もいない、向こうの山が怪しいぞ」と叫んで助けてやりました。

 後に源氏の武将となった景時を、源頼朝が重用。
頼朝の異母弟である源義経、源範頼(みなもと の のりより)に謀反の疑いがあると頼朝に讒言(ざんげん)して、死に追いやったといわれています。
頼朝の死後、周囲に敵の多かった景時は鎌倉幕府を追放。

 正治2年1月19日(1200年2月5日)、梶原景時は朝廷に仕えるために(諸説あり)、一族郎党で都を目指しました。
しかし、翌20日の夜に富士川の急流を渡り清見ヶ関付近に来たところで、幕府より知らせを受けていた(諸説あり)当地の国侍・入江一族や吉川(吉香)小次郎、船越三郎、渋河次郎らによって次々に討ち取られました。

 景時の三男 梶原景茂(かじわら かげもち)は、吉川(吉香)小次郎との激しい一騎打ちに敗れ落命。
(吉川(吉香)小次郎も負傷して、帰宅途中に死亡)

梶原景時は、負傷した長男 梶原景季(かじわら かげすえ)、次男 景高(かげたか)とともに、牛谷山(現在の梶原山)で自害。
これを、「梶原景時の変」と呼びます。

<梶原堂の由緒>
 南北朝時代の延文5年12月28日(1361年2月4日)、駿河国(静岡県中部)に赴任してきた梶原景時(かじわら かげとき)の8代目の子孫である梶原景慶(かじわら かげちか)は、足利尊氏(あしかが たかうじ)の弟 直義(ただよし)の援助を受けて、矢崎山の山腹に梶原山 龍泉院という寺を建立。
梶原景時を本尊として祀り、龍泉院殿梶勝原公大居士という法名がおくられています。

江戸時代後期の文政5年(1822年)、龍泉院は火災で全焼。
梶原景時(かじわら かげとき)・景季(かげすえ)・景高(かげたか)、源頼朝(みなもと の よりとも)・頼家(よりいえ)の五位牌と、如意輪観音像(にょいりんかんのんぞう)、毘沙門天像(びしゃもんてんぞう)は無事でした。
時の住職は、景時の子孫の上杉家に寺院再興を請願して、御堂一棟(梶原堂)が贈られました。

明治4年の寺社検地で、龍泉院は廃寺になっています。

昭和37年(1962年)、矢崎山が開発によって削り取られる事になり、梶原堂を現在地に移転。

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梶原堂の地図
静岡県静岡市清水区(旧清水市)大内841-64

アクセス
・東名高速道路 清水ICの南西

梶原堂(かじわらどう) 全景
 道幅のせまい住宅地の一画に所在。
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梶原堂(かじわらどう)
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毘沙門堂(びしゃもんどう)
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梶原氏の家紋「矢筈(やはず)」
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 現在の毘沙門堂内には、梶原景時(かじわら かげとき)・源頼朝(みなもと の よりとも)の二位牌と毘沙門天像(びしゃもんてんぞう)、如意輪観音像(にょいりんかんのんぞう)のみを安置。

毘沙門天像びしゃもんてんぞう)と源頼朝(みなもと の よりとも)の位牌(いはい)
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如意輪観音像(にょいりんかんのんぞう)と梶原景時(かじわら かげとき)の位牌(いはい)
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梶原景時親子(かじわら かげとき)の墓
 梶原山にあった墓を移したものです。
五輪塔(ごりんとう)1基と宝篋印塔(ほうきょういんとう)4基が、御堂の横に並んでいます。
宝篋印塔は、昭和5年頃まで「延文五年十二月二十八日」の文字が確認できました。
左から、五輪塔(供養塔)、梶原景時(かじわら かげとき)、景季(かげすえ)、景高(かげたか)の墓、右端が不明(三男 景茂(かげもち)の墓か?)。
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参考文献
・『珠流河 第15号』静岡工業高校郷土研究部 1988年11月