静岡県島田市(旧榛原郡金谷町)菊川(きくがわ)の「中納言宗行卿の塚」(ちゅうなごんむねゆききょうのつか)は、幕末の文久3年(1863年)に水戸藩士 渡邊宮内右衛門源進が「宗行卿之塚」と刻まれた石碑を建立。

もともとは、古代末~中世の墳墓あるいは経塚だったと考えられています。

中納言宗行卿の塚(宗行卿塚1号塚)
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 東海道の菊川宿を一望できる標高136~138mの場所に、石積みを持つ塚3基がありました。

昭和43年(1968年)の発掘調査では、中納言宗行卿の塚(宗行卿塚1号塚)から平安時代(12世紀)の常滑産 三筋壺(さんきんこ)の破片、甕片、江戸時代の古銭(寛永通宝)4枚などが出土。

昭和47年(1972年)、国道1号線 金谷バイパスの改良工事によって北側の現在地へ移設されています。

菊川宿は、江戸時代の東海道五十三次の金谷宿(島田市)と日坂宿(掛川市)にはさまれた「間の宿」(あいのしゅく)です。

東海道の三大難所のひとつとして知られた、「小夜の中山」(さよのなかやま)の東側に位置しています。

探訪は自己責任で!!

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中納言宗行卿の塚の地図
静岡県島田市(旧榛原郡金谷町)菊川字上ノ山

アクセス
・新東名高速道路 島田金谷ICの南南西
・国指定史跡 諏訪原城跡の北西

菊川宿周辺の案内図
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中納言宗行卿之塚入口
 白い標柱(赤丸内)の建つ場所から、約200m坂を下る。
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標柱
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 コンクリート舗装された奥に、案内板と中納言宗行卿の塚があります。
トラックが走っている道路は、国道1号線 金谷バイパス。
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宗行卿之塚移築記念の碑
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宗行卿之塚(宗行卿塚1号塚)
 移設の際に吊り上げたところ割れてしまったので、新しい石碑を建立。
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五輪塔
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宗行卿塚2号塚(手前)、3号塚(奥)
 移設の際に石積みを省略して、自然石の立石だけ移したように見えます。
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「承久の変」
 承久3年(1221年)の「承久の変」(じょうきゅうのへん)で、後鳥羽上皇は対立していた鎌倉幕府追討の院宣を出して軍事行動を起こしました。
しかし、鎌倉幕府の反撃を受けて倒幕は大失敗。

計画に加わった中納言 藤原宗行(ふじわらのむねゆき)は、捕らえられ鎌倉へ護送されました。
途中の菊川宿では宿の柱に、死期を覚った宗行卿が漢詩を書き残したと伝えられています。
承久3年(1221年)7月14日、小山新左衛門尉朝長によって藍沢原(御殿場市)で処刑(斬首)。
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 菊川の里会館 さんぽ茶屋の前に、中納言宗行卿詩碑、日野俊基歌碑、公衆トイレがあります。

中納言宗行卿詩碑
 中納言宗行卿の漢詩が、刻まれた石碑。
「昔南陽懸菊水 汲下流酌而延齢
  今東海道菊河 宿西岸而失命」

 昔は南陽県の菊水下流を汲みて齢えを延ぶ
今は東海道の菊川西岸に宿りて命を失う
「不老長生の霊泉菊水が流れる」という、中国の南陽(河南省)の伝説にちなんだ漢詩です。
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日野俊基歌碑
 正中元年(1324年)の「正中の変」(しょうちゅうのへん)では、御醍醐天皇による倒幕計画が発覚。
計画に加わった天皇の側近 日野俊基(ひのとしもと)は、逮捕されましたが処分を免れました。

元弘元年(1331年)の「元弘の変」(げんこうのへん)で、再び御醍醐天皇の倒幕計画が発覚。
鎌倉に護送される日野俊基が菊川宿で、中納言宗行卿と自分の姿をかさねて、一首の歌を詠みました。

「いにしへも かゝるためしを 菊川の 
        おなじ流れに 身をやしづめん」

元弘2年(1332年)6月3日、日野俊基は鎌倉・葛原岡で処刑。
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参考文献
・『静岡県文化財地図Ⅱ ―焼津市以西―』静岡県教育委員会 1989年3月1日
・『静岡県文化財地名表Ⅱ ―焼津市以西―』静岡県教育委員会 1989年3月1日
・『金谷町史 資料編四 考古・窯業史』金谷町史編さん委員会 2003年3月31日