岩屋群と巨岩群から廃村へ | 次世代に遺したい自然や史跡

次世代に遺したい自然や史跡

毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

[密元の窟と巨岩銀座と坑道と廃村・李]

拙著「四国の鉄道廃線ハイキング」に収録している加茂土工森林組合馬車軌道廃線跡の唯一の遺構「迫門橋(迫戸橋=せとばし)」袂(橋名のバス停あり)に、西条史談会による「密元の窟」の手製の道標が掲げられている。

 

「密元の窟」(愛媛県西条市荒川李[すもも])とは、藩政時代中期の大通寺の元住職、密元が俗世間を離れて隠棲していた岩屋群のことで、大小合わせて五つある。内、一つは深い竪穴で転落すると這い上がれない。

それら岩屋や洞穴は巨岩に形成されているが、周囲や背後の尾根は巨岩・巨石だらけで「巨岩銀座」と言ってもいいほど。特に天を衝くかのような岩塔や立岩は見応えがある。

 

そこに行く途中には、無名の滝や坑道もある。

窟から山道を登って行った先、標高350m前後に廃村・李がある。背後に石鎚山系の「李の高」がある集落である。地形図(西条)には10軒ほどの家屋マークが記載されているが、住宅地図に記載の空き家はその半分ほど。一応、その現存空き家は原形を留めている。

 

市街地の建物の壁面等によく貼り付けられている地区名(荒川李)プレートも、一軒の民家に残っている。

ただ、何年か前の台風で途中の道沿いが崩落し、山道は上れない状態。そこで今回は崩落箇所の手前から水路沿い斜面を直登し、集落へ登った。

 

[コース]

迫門橋を渡った先の道標から山道に入るとすぐ谷川(河川名)に下りて行く道との分岐がある。この手前だったか先だったか忘れたが、踏み跡のY字路がある。ここを左折して行くと谷川支流の沢に到り、踏み跡が上流に向けて続いている。この踏み跡の終点には無名の滑滝が懸かっている。落差は最低20m以上ある。形状は以前紹介した宇和島市の薬師谷上流の無名滝の一つに似ている。

 

滝壺は浅く、猫の額ほどしかないが、近くに数珠が落ちていたことから、ここで修行する者がいるのかも知れない。ネットではこの滝を「密元の滝」と仮称している者もいるが、「李の滝」と呼称するのが自然だろう。

 

更に山道を登って行くと、右足元に「丸野横坑」の小さな標柱があり、踏み跡が雷状に下りている。これを辿っていくと岩盤があり、その先の平坦地に何かのコンクリート台座らしきものがあった。索道関連遺構だろうか。

そこを越えて行った先の谷にコンクリート造りの丸野横坑があった。荒川地区では昭和2735年まで、「荒川山鉱山」が操業していたが、その坑道の一つかも知れない。ただ、位置的には兎之山発電所の導水経路にも近いため、その点検作業のための横坑である可能性もある。

 

本道に戻り、上りを再開するが、地形図の破線には描かれていない急カーブがいくつもあり、現在地確認がし難い。

左手に段々の石垣を過ぎると、巨岩群が現れる。そしてまた右急カーブになるのだが、その少々先に薄い踏み跡の三差路があり、両側の道端に、朽ちて支柱がなくなった「密元の窟」の道標がある。

 

そこを左に折り返して行った先に岩屋群がある。まず右手に、縦の斜めに繋がったような岩屋が二つあるのだが、上の方の岩屋に標柱が建っている。横幅5メートル少々、高さと奥行は3.5メートルほど。

 

この左手にはピラミダルな巨岩があるのだが、その向かいの岩の下部に竪穴が開いている。

その横から石段を上がると仏堂と墓所があり、板碑背後に天を衝く岩塔巨岩が聳え立っている。

仏堂手前から更に石段があり、そこを登った先に二つの岩屋があったと思う。手前の岩屋には石仏が安置され、奥の岩屋には祠が祀られている。

 

前述の岩塔の奥にも巨大な立岩があるが、その背後の尾根も巨岩だらけ。こんな尾根は珍しい。

この尾根を上り詰めると横道に出た。地形図に記載されている、李集落東方のY字路から南東方向に山腹を走る道だろうか。

 

この横道を辿ろうかとも思ったが、かつて李の人々がよく登った主要道を辿りたかったから、また本道に下りて先を進んだ。

もう少しで359mピーク北方の三差路、という所で斜面が崩落し、道が木々や土砂で埋まり、通行困難になっていた。三体の地蔵がある先である。

 

そこで地蔵の手前の道を横断する水路沿い斜面を登ることにした。上に進むに連れ、斜面の勾配が急になる。

前方に平坦地が見えると、勾配が更に急になったため、北西に竹林をトラバースして、その平坦地に出た。そこはミツマタの畑跡のように思えた。紙の原料になる植物である。

 

そのすぐ上が李集落跡で、空き家群がある。二階建ての家も多い。

展望の開けた家もあり、その下の畑はまだ耕作が続いているのではないかと思うほどきれいな状態。

 

山中の廃村では、拙著「土佐のマイナー山PART2」の「天王ノ森~大平山」(香美市物部町)の項で触れた熊押(くもおす)の方が、はるかに標高が高いが、これらの集落の家では、家財、特に箪笥やテレビ、冷蔵庫等の大きなものはどうやって運んでいたのだろうか。

 

今後も廃村や坑道の開拓をしてほしい、という方は次の二つのバナーをプリーズクリック

人気ブログランキング