静岡県島田市船木(ふなき)の曹洞宗 松原山 医王寺(いおうじ)は、明治3年(1870年)12月20日に最後の仇討ち(あだうち)が行なわれた場所です。

江戸幕府第15代将軍 徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)の警護を目的に結成された彰義隊(しょうぎたい)残党95名の隊長として、大谷内龍五郎(おおやうち りゅうごろう)が沼津に移住。

元隊士同士による殺害事件の責任をとるため、遺族の立ち合いのもと医王寺の本堂で自害しました。

曹洞宗 松原山 医王寺 大谷内龍五郎の墓
18922


<大谷内龍五郎と彰義隊>
 大谷内龍五郎(竜五郎)は、下総国古河8万石の家老 早川惣右衛門の次男として誕生。

1500石の旗本 大谷内家の婿養子となり、34歳で将軍 徳川慶喜の警護を目的に結成された彰義隊(しょうぎたい)に参加。

慶応4年(1868年)5月15日の上野戦争では、上野寛永寺黒門口で薩摩・長州藩の新政府軍と戦いました。

両腕を撃たれて負傷し捕虜となった大谷内は、大赦令で出所後に彰義隊残党95名の隊長として沼津に移住。

生活に困窮した彰義隊士のうち、斉藤金左衛門と上野岩太郎が沼津郡政役所勤番方に仕官を願いでました。

それを裏切り行為とみなした元隊士の藤田寛三・吉沢力松が、明治2年(1869年)12月27日に斉藤・上野両名を惨殺。

藤田・吉沢は、斉藤の首を沼津郡政役所に投げ込み逃走。

斉藤・上野の遺族は隊長の大谷内を敵として、静岡藩庁に「仇討ち願い」を提出しましたが却下されました。


<最後の仇討ち>
 明治3年(1870年)8月1日、大谷内たちは旧幕臣の新番組が茶園開墾に従事していた牧之原台地(島田市・牧之原市)周辺に移住。

明治3年12月20日の朝、小笠郡河城村沢水加(菊川市沢水加(さばか))の豪農 山田万吉方に寄宿していた大谷内に、果たし状が届けられました。

指定された仁王辻の新番組 福井金次郎方を訪ねた大谷内は、立会人の前で斉藤・上野の遺族に自分の死ですべてを終わらせる事を確認。

医王寺で切腹することが決まると、大谷内は妻りゅうに短刀と白装束を届けさせました。

医王寺の本堂の畳をはがし2畳を重ねて切腹の座を作ると、住職に本堂を汚す事を詫びました。

12月20日午後3時、短刀で切腹した大谷内を、斉藤金左衛門の長男 斉藤源八郎が介錯。

介錯の手元が狂って膝を切りつけてしまい、大谷内自身に叱咤激励され首を切り落としたと伝えられています。

享年37(満36歳)。

辞世の句 
「むら雲に 月はかくれて ありしかど 今日はれて行く 死出の山みち」

昭和26年(1951年)3月、当時の村長らによって宗源寺(菊川市沢水加)の大谷内の墓より医王寺に分骨。

昭和49年(1974年)11月3日、医王寺境内に墓碑が建立されました。

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曹洞宗 松原山 医王寺の地図
静岡県島田市船木2380
TEL 0547‐38‐0032
無料駐車場あり

アクセス
・JR東海道本線 六合駅より車で約10分
・東名高速道路 吉田ICより車で約5分

曹洞宗 松原山 医王寺
 1000年以上前に、創建されたと伝えられています。
18923

山門
18924

鐘楼
18926

本堂
18925

大谷内龍五郎の墓
 昭和26年(1951年)3月、当時の村長らによって宗源寺(菊川市沢水加)の大谷内の墓より医王寺に分骨。
昭和49年(1974年)11月3日、医王寺境内に墓碑が建立されました。
18927

参考文献
・『島田風土記 ふるさと初倉』島田市史編さん委員会 1996年3月30日

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